第113話 さよならを言った日
しばらく泣き続け、ようやく涙が止まったころ。
私は流斗さんの胸から、そっと顔を上げた。
涙で濡れた彼の胸元を見つめたまま、ぽつりとこぼす。
「……ごめんなさい。服、濡らしちゃって」
「ああ、大丈夫ですよ。唯さんの涙なら大歓迎です」
その優しい声に、胸がじんわりと温かくなる。
「あの……理由、聞かないんですか?」
おそるおそる顔を上げ、流斗さんの目を見つめた。
柔らかなまなざしの奥に、真剣さが宿っている。
「……実は、だいたいのことは知っています。
以前、咲夜から相談されたことがあって――」
静かに、けれど誠実に語るその声は、彼の人柄そのものを映しているようだった。
「咲夜、自分の父親のこと、すごく悩んでたんです。
唯さんへの気持ちと、父の罪への責任感で、押しつぶされそうなくらいに」
流斗さんは長く息を吐き、申し訳なさそうに視線を落とす。
「黙っていて、ごめんなさい。でも……咲夜の気持ち、どうかわかってあげてください」
切実な眼差しを向けられ、私は目を逸らせずに見つめ返した。
そっか……流斗さんも知ってたんだ。
本当に、私だけが知らなかった。
兄のことを思うと、胸がきゅっと痛んだ。
もし自分が兄の立場だったら。親の立場だったら――。
きっと私も言えなかったと思う。
相手が大切であればあるほど、言えなくなる。
そんな簡単なこと、わかっていたはずなのに。
あまりの衝撃の事実に、気が動転して。
混乱して、兄にあんな酷い態度を取って……傷つけてしまった。
「唯さん。自分を責めてはいけませんよ」
ふいに、やさしい声が耳に届いた。
彼は穏やかに微笑む。
「ご両親も、咲夜も、あなたのことを大事に想ってのこと。
そして、あなたはちゃんと、その想いに誠心誠意向き合っている。
それだけで十分です」
月の光に照らされるその笑顔は、とてもあたたかかった。
本当に、この人は……どこまでも優しくて、お人よしで。
心にぬくもりが広がっていく。
これ以上、彼のことを傷つけられない。気持ちに嘘をつけない。
私には、流斗さんに伝えなきゃいけないことがある。
――覚悟を決めた。
「……流斗さんに、伝えないといけないことがあります」
そう告げた瞬間、空気が少しだけ張りつめた。
流斗さんの表情が、ほんのり陰る。
きっと、この人はもう気づいている。
それでも私は、ちゃんと自分の言葉で伝えたかった。
挫けそうになる心を奮い立たせる。
「私……お兄ちゃんのことが、好きです」
流斗さんの顔を見るのが怖くて、私は視線を落とした。
「流斗さんのことも、大好きです。
でも、その“好き”は……兄に向ける気持ちとは少し違っていて……」
一度言葉を止め、息を整える。
「正直言うと、兄のことを忘れるために、流斗さんと付き合っていました。
ごめんなさい」
誠実に、謝罪の気持ちを込め、私は流斗さんに向かって深く頭を下げた。
返事はない。けれど、真剣に耳を傾けてくれているのが伝わってくる。
「でも……付き合っているうちに、心から思ったんです。
『この人のこと、好きになれたらどれだけ幸せだろう』って……。
何度も、そう思いました。でも――」
私は目を閉じ、ひとつ静かに息を吐いた。
「やっぱり兄のことが好きで。
どんなに冷たくされても、嫌いになんてなれなくて。
むしろ、どんどん気になってしまって。
今回のことを知っても……それでも、私はお兄ちゃんが好きなんです。
もう、理屈じゃないんです」
気づけば、また涙が頬を伝っていた。
私は意を決して、ゆっくりと流斗さんを見上げる。
彼の真剣な眼差しと、私の視線がゆっくりと絡み合う。
「流斗さん……私、お兄ちゃんが好きです。
だから、流斗さんとは……付き合えません」
心が軋むように痛む。
けれど私は逃げずに、まっすぐに彼の目を見つめ続けた。




