永遠の旅人(前篇)
過去か、未来かわからない。
それはかつての出来事なのか、それともこれから起こる事か。
けれど、彼はそこに存在する。
── 全ての大地と全ての海を知る、大いなる冒険者。
名のなき一人の男は、今も人々の語る物語の中で生きている。
彼が実在したのか、それとも幻想の産物なのか、それはもはや関係はない。
彼が旅した場所、彼が歩き、彼が見聞する世界は、数限りなく存在する。それが、全て。
── 世界に、果てなど存在しないのだから。
+ + +
「…行って!」
痩せた背で扉を庇い、少女は蒼ざめた顔に決意を宿して叫ぶ。
その瞳は大きく、本来は萌え出ずる若葉の色をしていたが、今は暗がりの闇を受けて、暗く沈んだ色になっていた。
けれど、そこにある真摯な光は、それを補って余りある。
その美しさに、彼は一瞬言葉を失って見惚れてしまう。…そんな余裕など、何処にもないはずなのに。
「早く、何をしてるの?」
幼い叱責の声に、彼は我に返り、即座に首を横に振る。
「…ダメだ、行ける訳がない」
「どうして!」
「お前をここに置いて、一人で逃げるなんて出来っこないに決まってるだろ!?」
しかし、彼の言葉に少女は虚を突かれた顔になる。そんな事を言われるなど、夢にも思っていなかったという顔だ。
それを見て、彼は自分の言葉を少し後悔する。
…伝えるつもりはなかったのだ。自分が彼女を想っているなど、欠片だって匂わすつもりはなかった。
けれど──。
「…出来ないよ。ここで俺が一人で逃げれば、お前が疑われる。お前は生粋のクルシア人なのに……」
誤魔化すように言葉を紡ぐものの、一度溢れた想いは消え失せてはくれなかった。
少女は言葉を忘れたように、その大きな目を彼に向けるばかり。
遠くで荒々しい物音が聞こえる。彼を捜しているのだ。
この国── クルシアは、血統の純潔を誇りにする小国家。あまりに小さなその国は、かつて一度見た世界地図の中で、他国と比べればまるで豆粒だった。
…だからこそ、周囲の列強への反発は強く、他国の血を引くだけで排斥される。
生まれてくる場所を選べないように、子は親を選べない。
もし、生まれたのがクルシアでなければ。
もし、父親が流浪の民でなかったならば。
── そんな事を語った所で、その子供の人生が変わる訳ではないとわかっているけれど。
けれど、それはこの国にいる限り、影のように死ぬまで付きまとう。
「…逃げるんじゃないのよ」
ようやく少女が口を開いた時、その瞳にあったのは、先程までの真摯さとはまた違う、何処か柔らかなもの。
「あなたは、これから旅に出るの」
「…旅?」
何を言い出すのかと、彼女の顔をまじまじと見つめる。
旅だって?
耳を疑う── この地を離れるという事は、逃亡以外の何物でもないはずだった。
「この国を離れて、いろんな国、いろんな人に、会いに行くのよ」
「…この国を離れる?」
「そう。だから…逃亡なんかじゃない、あなたは旅人になるの。この世界で最も自由な、血や因習に囚われない存在に」
「…ばかな……」
彼女の言葉は突拍子もなく、彼は自然と口元に嘲笑めいた笑みが浮かぶのを自覚する。
そんな詭弁を弄した所で、事実は変わらない。
そうした所で、彼はこの国を逃げ出す事実は変わらず、そしてその生き方は彼が最も憎んだ、顔も名も知らない父親の生き方そのものではないか。
彼のなけなしのクルシア人としての誇りは、それを許さない。
…だが、少女は熱心に彼に語りかける。
「いいえ、ばかな事じゃないわ。旅人はただ、旅を続ける者の事ではないもの。彼等は何か目的をもって各地を歩き、海すらも渡るのよ」
それは寝物語に聞く、『永遠の旅人』の物語の一節。
年の割りに聡明な少女の、思わぬ子供っぽさに彼は思わず失笑してしまう。
「…そうだとしても、オレは旅人なんかにはなれないよ」
「…何故?」
「オレには目的なんてないし、行きたい場所もないんだから」
行きたい場所── 生きたい場所。
もし得られるなら、彼は望むに決まっている。この小さな、名もなき村を。
ここは故郷なのだ。存在する事すら許されなくても、ここを離れて、同じだけ想える場所を見つけられるとは到底思えなかった。
けれど、このままここに居続けても、村人に見つかれば追放され、下手すれば殺されるのは目に見えて明らかだ。
…選択肢は一つしかない。
頭ではわかっているのに、この期に及んでここに留まりたいと思うのは、おそらく目の前の少女の存在も一つの理由に違いなかった。
彼女は村長の末娘。
村外れのこの廃屋で、一人隠れるようにして暮らしていた彼に、嫌悪ではない、本物の笑顔を見せてくれた人間。
母親が死んでからは、唯一、人の温もりを与えてくれた彼女の存在を、故郷を失いたくないのと同じ強さ── いや、もしかしたらそれ以上の強さで、失いたくないと思っている。
「じゃあ、わたしが目的をあげる」
徐々に近付いてくる声を気にしながら、口早に少女は言った。
「…お前が?」
「知っているでしょ。わたしは丈夫ではないから、この村の外なんか出て行けない。だから、あなたがわたしの代わりに世界を見てきて」
「お前の── 代わりに?」
その言葉は、増して行くばかりの喪失感をふと、軽くした。
「そうよ」
「…で、でもそれは……」
それは── いつか、ここに戻って来れるという前提があればこそ。
そんな彼の思いを知ってか、少女はようやくその顔に微笑を浮かべた。
「旅人は、流浪の民ではないのよ。旅は…いつか終わるもの。帰って来て、いつか必ず」
「でも、でもオレはこの国にはいられない」
「そうね。でも── 今は、でしょう?」
「今は……?」
「…時代は変わるわ。いつかきっと、この国だってこんな下らない政策をやめる日が来る」
「そんな事、わからない…そうなったとしても、いつになるかわからないじゃないか……!」
血の純潔を守る、その事を彼女が下らないと言ってくれたのを嬉しく思いながらも、彼はその言葉を鵜呑みにする事など出来なかった。
── それはまさに、夢。
彼女が語る『旅人』と同じ、幻想だからこそ美しく感じる夢だ。
「でも、信じましょうよ。だから…こんな所で立ち止まらないで、進んで」
希望を失わない若葉の瞳が、輝く。
「遥か彼方、地平の果てまで。青い海の向こうまで。…そして、いつか教えて。世界にはどんな場所があるのか。どんな人がそこで生活をしているのか」
「……」
「世界に本当に果てなどない事…── 国にも血にも、隔てなんてないのだと」
「…国にも、血にも、隔てがない事を?」
「ええ、教えて頂戴。あなたが見て、あなたが感じて、あなたが聞いたその全てを。わたしは、ここでずっとあなたの帰りを待ってる。いつでもあなたが戻って来られるように、この場所を守っているから」
少女は扉を離れ、彼の横を通り過ぎ、その背後の窓を大きく開く。
その向こうに広がる夜の闇は、あまりに深くて先が見えない。
「…さあ、行って?」
その小さな白い手に誘われるように、彼は窓辺に歩み寄る。
そして見上げる瞳に一度頷き── 小さく囁く。
「オレを待っていてくれるのか?」
「ええ」
「…どうして、って聞いてもいい?」
少女は少し驚いた顔をしたものの、その微笑みは翳る事なくまた彼に与えられる。
「決まっているでしょう? あなたがわたしを想ってくれる以上に、わたしがあなたを想っているからよ」
刹那、彼等は時間を忘れて見詰め合う。
あまりにも幼い彼等は、それ以外に互いの想いを伝え合う術を知らなかった。
── そして、ついに辿り着いた村人達が乱暴に扉を開け放った時、そこには村長の末娘が、一人きりで部屋の中央に立っていた。
若葉の瞳を涙で濡らして、森を歩いていてここへと迷い込んだのだというその言葉を、村人の大半は信じなかった。
村はずれの廃屋に、クルシア以外の民の血をひく者がいる事は、一部の村人には周知の事だったからだ。だが、村長自身が娘の言葉を信じると言った事で、それが事実となった。
その方が、村としても都合が良かったのだ。
開け放たれた窓の向こう、先の見えない闇に、少年の姿はすでにない。
…旅人は、旅立ったのだ。