表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
2/3

永遠の旅人(前篇)

挿絵(By みてみん)


 過去か、未来かわからない。

 それはかつての出来事なのか、それともこれから起こる事か。

 けれど、彼はそこに存在する。

 ── 全ての大地と全ての海を知る、大いなる冒険者。

 名のなき一人の男は、今も人々の語る物語の中で生きている。

 彼が実在したのか、それとも幻想の産物なのか、それはもはや関係はない。

 彼が旅した場所、彼が歩き、彼が見聞する世界は、数限りなく存在する。それが、全て。



 ── 世界に、果てなど存在しないのだから。


+ + +


「…行って!」


 痩せた背で扉をかばい、少女は蒼ざめた顔に決意を宿して叫ぶ。

 その瞳は大きく、本来は萌え出ずる若葉の色をしていたが、今は暗がりの闇を受けて、暗く沈んだ色になっていた。

 けれど、そこにある真摯な光は、それを補って余りある。

 その美しさに、彼は一瞬言葉を失って見惚れてしまう。…そんな余裕など、何処にもないはずなのに。

「早く、何をしてるの?」

 幼い叱責しっせきの声に、彼は我に返り、即座に首を横に振る。

「…ダメだ、行ける訳がない」

「どうして!」

「お前をここに置いて、一人で逃げるなんて出来っこないに決まってるだろ!?」

 しかし、彼の言葉に少女は虚を突かれた顔になる。そんな事を言われるなど、夢にも思っていなかったという顔だ。

 それを見て、彼は自分の言葉を少し後悔する。

 …伝えるつもりはなかったのだ。自分が彼女を想っているなど、欠片だって匂わすつもりはなかった。

 けれど──。

「…出来ないよ。ここで俺が一人で逃げれば、お前が疑われる。お前は生粋のクルシア人なのに……」

 誤魔化すように言葉を紡ぐものの、一度溢れた想いは消え失せてはくれなかった。

 少女は言葉を忘れたように、その大きな目を彼に向けるばかり。

 遠くで荒々しい物音が聞こえる。彼を捜しているのだ。

 この国── クルシアは、血統の純潔を誇りにする小国家。あまりに小さなその国は、かつて一度見た世界地図の中で、他国と比べればまるで豆粒だった。

 …だからこそ、周囲の列強への反発は強く、他国の血を引くだけで排斥はいせきされる。

 生まれてくる場所を選べないように、子は親を選べない。


 もし、生まれたのがクルシアでなければ。

 もし、父親が流浪の民でなかったならば。


 ── そんな事を語った所で、その子供の人生が変わる訳ではないとわかっているけれど。

 けれど、それはこの国にいる限り、影のように死ぬまで付きまとう。

「…逃げるんじゃないのよ」

 ようやく少女が口を開いた時、その瞳にあったのは、先程までの真摯さとはまた違う、何処か柔らかなもの。

「あなたは、これから旅に出るの」

「…旅?」

 何を言い出すのかと、彼女の顔をまじまじと見つめる。

 旅だって?

 耳を疑う── この地を離れるという事は、逃亡以外の何物でもないはずだった。

「この国を離れて、いろんな国、いろんな人に、会いに行くのよ」

「…この国を離れる?」

「そう。だから…逃亡なんかじゃない、あなたは旅人になるの。この世界で最も自由な、血や因習に囚われない存在に」

「…ばかな……」

 彼女の言葉は突拍子もなく、彼は自然と口元に嘲笑めいた笑みが浮かぶのを自覚する。

 そんな詭弁きべんを弄した所で、事実は変わらない。

 そうした所で、彼はこの国を逃げ出す事実は変わらず、そしてその生き方は彼が最も憎んだ、顔も名も知らない父親の生き方そのものではないか。

 彼のなけなしのクルシア人としての誇りは、それを許さない。

 …だが、少女は熱心に彼に語りかける。

「いいえ、ばかな事じゃないわ。旅人はただ、旅を続ける者の事ではないもの。彼等は何か目的をもって各地を歩き、海すらも渡るのよ」

 それは寝物語に聞く、『永遠の旅人』の物語の一節。

 年の割りに聡明な少女の、思わぬ子供っぽさに彼は思わず失笑してしまう。

「…そうだとしても、オレは旅人なんかにはなれないよ」

「…何故?」

「オレには目的なんてないし、行きたい場所もないんだから」

 行きたい場所── 生きたい場所。

 もし得られるなら、彼は望むに決まっている。この小さな、名もなき村を。

 ここは故郷なのだ。存在する事すら許されなくても、ここを離れて、同じだけ想える場所を見つけられるとは到底思えなかった。

 けれど、このままここに居続けても、村人に見つかれば追放され、下手すれば殺されるのは目に見えて明らかだ。

 …選択肢は一つしかない。

 頭ではわかっているのに、この期に及んでここに留まりたいと思うのは、おそらく目の前の少女の存在も一つの理由に違いなかった。

 彼女は村長の末娘。

 村外れのこの廃屋で、一人隠れるようにして暮らしていた彼に、嫌悪ではない、本物の笑顔を見せてくれた人間。

 母親が死んでからは、唯一、人の温もりを与えてくれた彼女の存在を、故郷を失いたくないのと同じ強さ── いや、もしかしたらそれ以上の強さで、失いたくないと思っている。

「じゃあ、わたしが目的をあげる」

 徐々に近付いてくる声を気にしながら、口早に少女は言った。

「…お前が?」

「知っているでしょ。わたしは丈夫ではないから、この村の外なんか出て行けない。だから、あなたがわたしの代わりに世界を見てきて」

「お前の── 代わりに?」

 その言葉は、増して行くばかりの喪失感をふと、軽くした。

「そうよ」

「…で、でもそれは……」

 それは── いつか、ここに戻って来れるという前提があればこそ。

 そんな彼の思いを知ってか、少女はようやくその顔に微笑を浮かべた。

「旅人は、流浪の民ではないのよ。旅は…いつか終わるもの。帰って来て、いつか必ず」

「でも、でもオレはこの国にはいられない」

「そうね。でも── 今は、でしょう?」

「今は……?」

「…時代は変わるわ。いつかきっと、この国だってこんな下らない政策をやめる日が来る」

「そんな事、わからない…そうなったとしても、いつになるかわからないじゃないか……!」

 血の純潔を守る、その事を彼女が下らないと言ってくれたのを嬉しく思いながらも、彼はその言葉を鵜呑みにする事など出来なかった。

 ── それはまさに、夢。

 彼女が語る『旅人』と同じ、幻想だからこそ美しく感じる夢だ。

「でも、信じましょうよ。だから…こんな所で立ち止まらないで、進んで」

 希望を失わない若葉の瞳が、輝く。

「遥か彼方、地平の果てまで。青い海の向こうまで。…そして、いつか教えて。世界にはどんな場所があるのか。どんな人がそこで生活をしているのか」

「……」

「世界に本当に果てなどない事…── 国にも血にも、隔てなんてないのだと」

「…国にも、血にも、隔てがない事を?」

「ええ、教えて頂戴。あなたが見て、あなたが感じて、あなたが聞いたその全てを。わたしは、ここでずっとあなたの帰りを待ってる。いつでもあなたが戻って来られるように、この場所を守っているから」

 少女は扉を離れ、彼の横を通り過ぎ、その背後の窓を大きく開く。

 その向こうに広がる夜の闇は、あまりに深くて先が見えない。

「…さあ、行って?」

 その小さな白い手に誘われるように、彼は窓辺に歩み寄る。

 そして見上げる瞳に一度頷き── 小さく囁く。

「オレを待っていてくれるのか?」

「ええ」

「…どうして、って聞いてもいい?」

 少女は少し驚いた顔をしたものの、その微笑みは翳る事なくまた彼に与えられる。

「決まっているでしょう? あなたがわたしを想ってくれる以上に、わたしがあなたを想っているからよ」

 刹那、彼等は時間を忘れて見詰め合う。

 あまりにも幼い彼等は、それ以外に互いの想いを伝え合う術を知らなかった。

 ── そして、ついに辿り着いた村人達が乱暴に扉を開け放った時、そこには村長の末娘が、一人きりで部屋の中央に立っていた。

 若葉の瞳を涙で濡らして、森を歩いていてここへと迷い込んだのだというその言葉を、村人の大半は信じなかった。

 村はずれの廃屋に、クルシア以外の民の血をひく者がいる事は、一部の村人には周知の事だったからだ。だが、村長自身が娘の言葉を信じると言った事で、それが事実となった。

 その方が、村としても都合が良かったのだ。

 開け放たれた窓の向こう、先の見えない闇に、少年の姿はすでにない。




 …旅人は、旅立ったのだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ