恋と煩悩と、阿弥陀の光
『とつぜんのお手紙ごめんなさい。
私は一年生の女子です。
校内新聞の親鸞聖人の言葉を見て、私の悩みにも答えてもらえると思ってお手紙を書きました。
実は私は恋をしています。
校内にいるある男子が好きなのですが、そのことで悩みを抱えています。
私は臆病なので、とてもではないですが、声はかけられません。
ただ、遠くから見ているだけなのです。
最初はそれでもいいと、思っていました。
でも、どんどん好きという気持ちがあふれてきて、もう止まりません。
勇気を出して声をかけようとしたのですが、私が好きな男子生徒は、他の女の子と仲がいいようです。
休み時間や放課後になると、よく一緒に話しています。
それを見てしまい、私は、声をかけるのを止めました。
だって、その女の子は物凄く可愛いですし、私と全然違うタイプなんです。
こんな時、どう動けばいいんでしょうか? 親鸞聖人なら何て言いますか?
私は親鸞聖人に興味を持ち、少し調べました。
そしたら、偉いお坊さんで、日本の偉大な思想家だとわかったのです。
この親鸞聖人のお言葉を書いた人なら、私の悩みを解決してくれると思い、こうして手紙を書いた次第です。
よろしくお願いします」
手紙はそれで終わっていた。
どうやら、恋の悩みらしい。
恋か……。
俺には荷が重すぎる問題だ。
それに、仏教と恋は、全然違うような気がするよ。
「どう思う?」
と、美沙は告げた。
どうすると言われても、俺も困る。
「さぁ、俺にはとてもじゃないけど、役に立てないよ。そもそも、恋したことないし」
「ふ~ん。この子は悩みの中いるわ。煩悩に取りつかれているいっても過言ではない」
煩悩か……。
人は誰だって煩悩を抱えているだろう。
きっと美沙だって。
「美沙を信頼し、質問をくれたんだから、答えてあげた方がいいじゃない?」
「そうね」
と、美沙は言った。
そして、屋上から広がる空を見上げ、
「親鸞は妻帯者だった。知ってる?」
「妻帯者? つまり、奥さんがいたのか。まぁいいんじゃないの?」
「ハァ、あんたに言ったあたしがバカだった。あのね、親鸞聖人がいた時代は、お坊さんは結婚なんてできなかったの。それに、魚だって食べちゃダメだった。だけど、親鸞聖人はそれを破り、結婚していた。それがなぜだかわかる?」
そんなの俺にわかるわけない。
当時、僧侶に肉食妻帯が禁止されていたことすら知らなかったのだから。
僕は首を振る。
「親鸞聖人の時代、仏教といえば、天台宗や真言宗だったの、どちらも山にこもって修行するような宗派よ。あらゆる欲を捨てなければ、悟りは開けないと思われていたから。それが、本当に幸せだと思われていたのよ」
「そうなんだ。じゃあ、親鸞聖人はなぜ?」
「うん、これは、当時の仏教界を大きく騒がせたの。でもね、親鸞聖人はこう考えた。あたしたちは、誰もが少ならず殺生をしているわ。あたしたちは、殺生せずには生きられない。それはわかるね?」
「まぁわかるよ、命あるものを食べているわけだからね」
「そして、仏教は心を最も問題にするの」
「心を?」
「うん。例えば、心で異性のことばかり考えていたら、例え口に出したり、カラダでやったりしなくても、妻帯しているのと同じよね。そう仏教では教えられている。そうなると、どうなると思う?」
「えっと、みんな殺生し、結婚しているって意味?」
「まぁそんな感じ。つまりね、すべての人は肉食妻帯をしているの。じゃあ、肉食妻帯を止めないと幸せになれない本来の教えが正しいのだとすると、すべての人は幸せになれことになる」
何となく言いたいことはわかる。
親鸞聖人の言葉は、徐々に俺を包み込んでいくのだ。
そんな中、美沙は高らかに言った。
『親鸞聖人は、肉食妻帯をしていても、本当の幸せになれる道があると考えていた。そして、それこそが本当仏教であると思っていたの。だからね、それを明らかにするために、公然と肉食妻帯をされたのよ』
深い意味だ。
仏教は奥が深いよ。まったくね。
美沙はそこまで言うと、すっと深呼吸して話しを続けた。
「あたし、やるわ。この悩みに応える」
「うん、それがいいよ。浄土真宗の教えを広めるわけだからね」
「そうね。じゃあ、今日中にまとめてくるから、あんたはその原稿をデータにすること。いいわね?」
「わかったよ、それでまた新聞部に送ればいいんだな?」
「そういうこと、じゃあよろしくね」
そう言うと、美沙は去っていった。
僕は屋上を出て玄関に向かう。後は帰るだけだ。
ただ、今日は意外な生徒が俺を待っていた。
玄関で俺が靴を履き替えていると、
「あ、あの、榊原君」
「え?」
俺に声をかけてきたのは、クラスの図書委員の佐伯瞳さんだった。
メガネが印象的なインテリ系の女子生徒なんだよね。
「榊原君は屋上が好きなんですか?」
「ぁ。えっと、まぁそうかな」
「ふ~ん、な、何してるんですか?」
「特に何もしてないよ。ぼんやりしてるだけ」
「そ、そうなんだ。何か知立さんと一緒みたいだったから」
「あ、うん、実は彼女とぶつかった時、ウォークマンを壊しちゃったみたいで、謝っていたんだよ」
「そ、そうなの。ふ~ん、だから一緒だったんですね。そ、それじゃあね。また明日」
「うん、また明日」
これはこうして、佐伯さんを別れた。
翌日――。
俺が教室でぼんやりしていると、美沙がやって来た。
「ねぇ、悠真、ちょっと来て」
俺は廊下に呼び出される。
そして、原稿用紙を渡された。
そこには、昨日の恋の悩みの相談の答えが書かれていた。
俺がそれを読んでいると、美沙が口を挟んだ。
『煩悩にまなこさへられて
摂取の光明みざれども
大悲ものうきことなくて
つねにわが身をてらすなり』
????
また、いつもの展開だ。
この子は本当に親鸞聖人が好きなんだな。
「それも親鸞聖人の言葉?」
「そう。親鸞聖人が書いた『高僧和讃』っていう本に載っているの。どういう意味かわかる?」
「う~ん、煩悩って言葉が出たよね、なら、それに関係しているとしか、よくわかんないけど」
「煩悩によって自分の殻に閉じこもってしまい、人生の道筋を見失っているこのあたしに、阿弥陀如来の大悲が常に光を照らしてくださっているって意味よ」
「それがどう恋愛相談の答えになるの?」
「つまりね、阿弥陀如来の大悲の教えを聞き、照らされた道を歩けばいいの。つまり第一歩が大切って意味なの。あの時、勇気を出して一歩を踏み出していたら、人生変わったかも言しれない。そんな思いは誰にでもあるわよね?」
「まぁあるかな」
「でしょ、でも、そんな時自分の殻に閉じこもっていたら、前に進めない。たとえ失敗したとしても、阿弥陀如来の大悲があるのだから、不安になる必要はない。だからね、思い切って思いを伝えましょうってことを伝えたいの」
俺はそれを聞いて納得した。
意外とまとまっている。
仏教の教えを説きながら、さらに恋する女の子の背中をそっと押している。
粗削りだけど、この回答はきっと受け入れられるように思えた。
「どう思う?」
そう言う美沙は少し不安そうだった。
「いいと思う。あくまでも俺の感想だけど」
「ホント? なら、これをデータにして、新聞部に送ってほしいの」
「わかった。やっておくよ」
「あ、後これ」
「え? 何?」
「うんと、正信念仏偈と和讃のCD。これもウォークマンに入れてほしいの」
「あぁそうだったな。それもやっておくよ」
と、俺は言い、CDを受け取る。
お経のCDらしく、曼陀羅のようなものがジャケットの写真になっている。
とりあえず、やることは多い。
まぁ、一つずつ片づけていくか。
放課後――。
今日も学校は終わりだ。
チラと、美沙の方を見る。
すると、彼女と視線が交錯する。
ただ、美沙はすぐにプイと横を向き、カバンに荷物を詰め始めた。
今日も放課後は屋上かな?
そんな風に俺が考えていると、美沙がやって来て、
「悠真、放課後暇でしょ?」
「うん、また屋上か?」
「ううん。今日は違うの。ねぇ、一緒に帰らない?」
これは意外な提案だ。
俺たちは、屋上で仏教について話している間柄だ。
とはいっても、美沙が一方的にまくしたてるだけで、俺は常に聞き役に回る。
だけど、それでも十分楽しめた。
美沙が語る仏教の話を聞いていると、何というかためになるというか、勉強になるのだ。
そう。
自分の悩みが、ホントにちっぽけなものにな感じるんだよね。
俺たちのような年齢の人間は、悩みが多い。
もちろん、どんな人間にだって悩みがあるだろう。
だけど、親鸞聖人は、どんな人間でも救いがあると言っているらしい。
そして、仏教こそ救いの教えなのだ。
そんな風にして、俺たちは仏教を話す。
だけど、それは屋上だけの話で、話が終わったら、後は別々に帰るのだ。
だから、俺は美沙がどこに住んでいるのか知らない。
確かお寺らしいけど。
俺は行ったことがないんだよね。
「一緒に帰ってもいいのか?」
「いいっているでしょ。イヤならいいけど」
「イヤじゃないよ。だけど、意外だな、美沙が俺を誘うなんて」
「あのねぇ、あんたあたしを何だと思ってるのよ」
「僧侶」
「まだ僧侶じゃないわ。得度していないもの」
「得度?」
「つまり、出家して、お坊さんになるっていう儀式」
「ふ~ん。まぁ、帰ろっか。今日は屋上に行かないんだろ?」
「うん。ちょっと行きたいところがあるの。ついて来て」
「わかった」
そう言い、俺たちは二人で学校を出る。
ただ、俺は自転車だ。
「なら、俺チャリだけど、美沙は?」
「あたしは歩き。じゃああんたは歩きなさい。自転車を引いてね。二人乗りはダメよ、危ないし、違反だから」
「わかってるよ、やっぱり真面目なんだな」
「当然のことを言ってるの」
「まぁいいか、歩こう、どっち?」
「駅に行きたいの」
「そうすると、大体十五分くらいか。まぁ行こう」
俺たちはこうして歩き始めた。
自転車に乗らず、自転車を押して歩くというのは、何だか不思議な感じだ。
まぁ、疲れないからいいんだけど。
「駅で何をするんだ?」
「あんた、パン好き?」
「パン? 食パン??」
「食パンでもいいし、菓子パンでもいいわ」
「嫌いじゃないよ。最近あんまり食べないけど」
「美味しいパン屋があるの。そこにつれて行ってあげる」
「あ、うん」
どうやらパン屋に行くらしい。
駅まで十五分。
いつもとは違う空気が流れたよ。
駅――。
駅前には駐輪場がある。
そこに自転車を止めて、俺たちは駅の中に向かう。
俺たちが暮らす街にある新潟駅は、新幹線も停まる大きな駅だ。内部には飲食店やら量販店やらが入っていて、結構栄えている。
そんな中、美沙は駅の中に広がる飲食店街の中のパン屋に向かった。
『パンのカブト』
それがパン屋の名前だった。
「今日はあたしがご馳走してあげる」
と、美沙は言った。
俺、結構慌てる。
「え、どうしてだよ? 払うよ、悪いし」
「いいの、CD録音してもらうから、そのお礼。特別なんだからね」
美沙は頑なだったから、俺は素直にご馳走になった。
美沙が買ったのは、「ゲンコツパン」というパンだ。
それを買い、近くの公園に行き、二人で食べた。
「ここのゲンコツパンって有名なの。簡単に言うと、ピーナッツクリームが入ったパンね。美味しいから味わって食べなさい」
「ありがとう」
俺はゲンコツパンをかじる。
本当にピーナッツパンだった。
コッペパンの中に粒入りのピーナッツクリームがたっぷり入っていた。
だが、まったくくどくなく、あっさりとした味わいだった。
「美味しいでしょ?」
「うん、美味い。初めて食べた」
「あたしね、ここのパンが好きなの」
「そうなんだ」
「ねぇ、上手くいくかな?」
「え? 何が??」
「だから、恋愛相談。ちゃんと書けてるかな?」
「俺は、しっかり書けていると思うけど。ちゃんと仏教に絡めているしね」
「あ、あんたは恋とかしたことあるの?」
「俺が恋?」
「そう、教えなさいよ。パンご馳走したんだから」
「これはCDのお礼だろ?」
「まぁそうだけど、話して減るもんじゃないし、一応色んな人の意見を参考にしたいの」
俺の恋……。
「幼稚園の頃、好きな女の子はいたよ」
「それで、あんたはどうしたの?」
「何もしてない。ただ見てただけ。でも、幼稚園を卒園して、小学校が別々になったから、そのまま会っていない。だから、今何してるのかとか全く知らない」
「ふ~ん、じゃあ今は?」
「今? わかんないよ」
「わかんないって自分のことでしょ? じゃあ質問を変えるわ。悠真は好きな子とかいるの?」
「好きな子ねぇ……」
俺はサッと考える。
考えるほど、よくわからない。
そもそも、幼稚園の頃の恋心と今の恋心って違うと思うしね。
「たぶん、いないと思う」
俺はそう言った。
すると、美沙は少し寂しそうな顔を浮かべた。
なぜ?
どうしてそんな顔するんだよ!!
キャラ違うだろ。
「そういう美沙こそ、好きなヤツとかいるのかよ?」
「ふぇ。あ、あたし、あたしはいいのよ、放っておいて」
「俺が言ったんだから、教えないとフェアじゃないよ」
すると、美沙はじっと考え込んだ。
みるみる顔が赤くなっていく。
それを見て、俺は察したよ。
美沙は恋をしている、ってね。
「好きな人いるんだな?」
「だったらどうするの?」
「応援とはできないけど、頑張れよ」
「フン。そんなのはどうでもいいのよ。あたしは僧侶になるんだから、恋愛に現を抜かしている暇はないわ」
「でも親鸞聖人は、妻帯者だったんだろ? なら恋くらいしてもいい気がするけど、それに、美沙くらいの女の子って恋バナとか好きそうだし。まぁ美沙は違うかもしれないけど」
「あんたねぇ、あたしを何だと思ってるのよ?」
「猛烈な修行僧」
「そりゃ禅僧とかなれば、修行が大変かもしれないけど、あたしが目指す浄土真宗はそんなに修業が大変じゃないのよ。親鸞聖人は修業を否定しているの。例えば荒行ってあるわよね?」
「うん」
「荒行のような過酷な修行を『善』とするのなら、荒行ができる人は、できない人よりも素晴らしいことになる。でもね、その思いこそ、人間の傲慢なのよ。だからね、浄土真宗は修業に頼らなくても、誰も救われる道であると説いているのよ」
「そうなのか、親鸞聖人ってホントすごい人なんだな。知れば知るほど、すご味がわかるよ」
「でしょ。それだけ親鸞聖人はすごいの。だからあたしは決して猛烈な修行僧ってわけじゃない。お肉やお魚だって食べるし……、そ、その恋愛マンガだって読んだりするんだから」
「へぇ、そうなんだ。それは意外だよ。オススメの作品は?」
「なみだうさぎ……かな」
知らんタイトルが出た。
まぁ、美沙も人並みに恋愛をしてみたいと思うんだろう。
それが普通だよ。全くね。
「まぁ好きな人がいるのはいいことだ思うよ。恋愛経験が多い人の方が、人として深みがあるような気もするしね。確か、第一歩が重要なんだよな? ほら、恋愛相談でそう答えてたよ。なら美沙も第一歩を踏み出さないと」
「そうかもしれないけど。あたしが気になってる人は、あたしに興味ないみたいだし」
「ふ~ん、大変だな。アピールしたらどうだ?」
「アピールってどうやって?」
「色仕掛けとか」
「バカ! ホントに、あんたに相談したあたしがバカだった」
「冗談だよ」
結局それで話は終わった。
だけど次の日、美沙は学校を休んだんだよね。
高校に入学してから二ヶ月。
それは初夏を迎えた六月のことだった。
美沙は突如学校を休んだ。
それも三日間続いている。
流石に、俺は気になって、彼女の様子を見に行くことにした。
以前の会話で、美沙が「祐善寺」というお寺の娘さんだとは察している。
スマホで祐善寺の場所を調べる。
高校からそれほど遠くない。
あぁ、だから徒歩で通学してるのか……。
学校を終えて、俺は祐善寺に向かう。
そもそも、俺はお寺になんていかない。
せいぜい神社だ。
俺たちが暮らす新潟市中央区には、白山神社という大きな神社があるのだ。
年末年始になると、出店とかが出て、結構盛り上がるんだよね。
俺も過去、初詣に何回か行っている。
だけど、お寺なんて行かないよ。
行く理由がないからね。
それでも今日は違う。
美沙の様子を見に行くのだ。
それに、ウォークマンに正信念仏偈と和讃と呼ばれるお経を入れたから、それを渡さないとならない。
毎日練習してるなら、このウォークマンがないと不便だろう。
高校を出て、自転車で祐善寺へ向かう。
新潟駅とは反対方向の住宅街の中にあるようだった。
確か、規模がそれなりに大きいって言っていたよな。
その言葉通り、祐善寺は立派なお寺だった。
新潟市は、繁華街の万代や古町といった地区から少し離れると、すぐに寂れた風景が広がるようになる。
そこは、繁華街が近いと思えないほど、自然が豊かな場所だった。
小高い丘の上。
そんな風に形容できるだろう。
石の階段をのぼっていくと、やがて、大きな鐘が見えてくる。
そして、その脇にお寺はあった。
祐善寺。
それが、今俺の前に広がっている。
鐘の前では、作務衣を着た僧侶らしき人が掃き掃除をしている。
壮年のおじさん。
もしかすると、美沙のお父さんかな。
おじさんは、俺の姿に気づいたようで、ニコッと笑みを浮かべた。
こんな時、どんな顔をすればいいんだろう?
よくわからないけど、俺は愛想笑いを浮かべた。
そして、おじさんに近づき、
「あの、美沙さんいますか?」
美沙という言葉を放った時、おじさんの眉間がぴくっと動いた。
「美沙に何か用なのかな?」
「はい。僕は美沙さんのクラスメイトで、榊原って言います。実は、美沙さんのウォークマンを届けに来たんです」
「ウォークマンを?」
「はい。お経のCDを入れてほしいって頼まれて。だけど、学校をしばらく休んだみたいでしたから、それで気になって」
「君には美沙の友達?」
俺たち、友達なんだろうか?
まぁ、よく話をするし、友達と言っても問題ないだろう。
「はい、友達です」
「そう。ふ~ん、なるほどねぇ。君が、悠真君か」
「あれ、僕、名前言ってませんけど」
「美沙が言っていたんだよ。一緒にウォークマンを買いに行ったってね」
「そうだったんですか」
「ちょうどいい、美沙に男の子の友達ができるなんてねぇ。そうだ、少しいいかな?」
「はい。なんですか?」
「私は君と少し話がしたい。いいだろう? 悠真君」
どういう流れかわからないが、このおじさんとしゃべるみたい。
なんか緊張するよ。
鐘の前には段差があって、おじさんはそこに腰を下ろした。
俺が座るとの見ると、おじさんは話し始めた。
「自己紹介がまだだったね。私は美沙の父親。一応このお寺の住職をしている。法名は宋憲って言うんだけどね」
やはり、美沙のお父さんらしい。
お坊さんというと、坊主頭がポイントだが、宋憲さんは、有髪だった。
つまり、普通に髪の毛があるのだ。
それでいて、作務衣を着ていると、お坊さんというよりも、陶芸家みたいに見える。
「美沙は学校でどんな感じかな?」
宋憲さんは尋ねてくる。
多分、年齢は四十歳過ぎだろう。結構若々しく見えるのだ。
「どうって、仏教が好きなんだなてって思います」
「仏教が?」
「はい。なんでも浄土真宗の教えを広めるって話ですけど」
「美沙、そんなこと言ってるのか? まったく困った子だな」
「でも、自分の夢に向かって頑張っている姿を見ると、応援したくなります。俺、夢とかないから」
すると、宋憲さんは遠い目をした。
「私はね、美沙にお坊さんになってもらいたくないんだよ」
「え?」
そう言えば、お父さんに反対されていると言っていたような気がする。
でも、どうして反対するんだろう?
子どもの夢を受け入れるのが、親の役目ではなかろうか?
「君にこんなことを言っても、仕方ないんだが、僧侶は大変なんだよ。休みも少ないし、何しろ、人の死と向き合う仕事だからね。他にいくらでも仕事はあるだろう」
「でも、美沙さんは僧侶に憧れています。親鸞聖人のこととかよく知ってるし」
「親鸞聖人は、日本の偉大な思想家だよ。それに、超が付くほど有名な僧侶だ。だけど、意外と間違って伝わっている部分も多くてね」
「悪人が救われるって話ですか?」
「お、そう。君よく知ってるね」
「美沙さんに教えてもらったんです。でも、そのままの意味じゃなくて、他力の信心が重要だって」
「美沙が……、そんなことを」
「はい。だから、美沙さんと応援してあげてください。きっといいお坊さんになれると思います」
その言葉は俺の正直な気持だった。
美沙は一生懸命に勉強している。
仏教というのは、常に修行の気持ちが必要だろう。
となると、その決意がある美沙にはピッタリなのだ。
「君は夢がないと言ったね」
「はい」
「私は昔、夢があったんだ」
「夢ですか?」
「そう、子どもの夢だけどね、野球選手になりたかったんだよ。それで、高校は強豪校へ行きたかった。だけど、先代がこの寺を継ぐのはお前しかいないって必死でね。行きたくもない宗教系の高校に進み、大学も仏教だ。気づけば、夢を追える立場にいなかった。お寺を継ぐ人がいないと、ここから出ていかないとならない。そうなると困る人がたくさんいる。だから私は嫌々ここを継いだんだ」
「そうなんですか」
「僧侶はね、それこそ老人になってからも目指せる。君は知らないかもしれないが、定年をすぎてから僧侶を目指す人が増えているんだ。でもね、若い頃にしか追えない夢もあるだろう。美沙にはもっと大きな視点を持ってもらいたい。今しかできない道を追ってもらいたいんだ」
今しかできない道。
それって何だろう?
そもそも青春を謳歌するってことが、俺にはよくわからない。
バンドでも組んで、魂の叫びを歌えばいいのだろうか?
「僕、僧侶の世界は知りません。でも、奥が深いんだと思います。そこに美沙さんは飛び込みたがっている。美沙さんにとって、僧侶は生きる全てみたいなものだから。応援してあげてください」
生意気だろうか?
怒られるかと思ったけれど、宋憲さんはにっこりと笑って、
「美沙はいい友達ができたみたいだな。美沙をよろしく頼むよ。悠真君。……ちょっと待っていたまえ。美沙を呼んでくるから」
「あ、ウォークマンさえ渡してもらえればそれでいいですから」
「そんなこと言わずに、美沙に会ってやってくれ、なんだか元気がないみたいだから。美沙を励ませるのは、どうやら私ではなく、君のような人間のようだからね」
そう言い残すと、宋憲さんが消えっていった。
しばらくすると、美沙が現れた。
いつもは制服姿だけど、今日は私服だった。
黒のショートパンツに、キャミソール、その上にざっくりとした薄手のカーディガンを羽織っている。
「どうして悠真がいるの?」
現れた美沙は何だか不満そうだった。
「ウォークマン持ってきたんだ。これがないと、お経の練習に困ると思って」
「あ、ありがと」
今日は金曜日。
つまり明日から連休だ。
「月曜日は学校来るよな?」
「うん」
「どうして、休んでたんだ?」
「あ、あんたには関係ないでしょ。あたしだって調子が悪くなることくらいあるのよ」
「そっか、少し心配で」
「え? し、心配してくれたの??」
「あぁ、だって俺、美沙の助手だしさ。それにさ、月曜日が親鸞聖人の言葉の締め切りだぜ。まだ全然してないのに、これで休載したら、よくないよ」
「わかってるわ。ちゃんと、ありがたい言葉を聞かせてあげるから」
「うん。やっぱり、美沙は元気な方がいいよ。じゃあ、月曜日待ってるから」
「そ、そう。ねぇ、パパと何か話したの?」
「えっと、大した話はしてないよ。ただ、僧侶になるの、認めてもらえるといいな」
「そんなの当たり前でしょ。あたしは僧侶になる。それは決まってるんだから」
「そか、まぁ月曜日待ってる。ウォークマンにもお経入れておいたから。まぁ、何かあれば言ってくれ。それじゃ」
俺はこうして、美沙と別れた。
最後、美沙は笑顔になったんだ。
その笑顔を見ると、俺はどこかほっこりするんだよね。
美沙の笑顔……。
なんかいいな。
この時、一緒にいられていいなって思い始めたんだよね。