79.ジークハルトの受難
白いタキシードに腕を通す。婚姻の儀式のための服だ。しかしそれについては何の感慨もない。
後で着替えるのも面倒だし、リーゼロッテに現実を突きつけるのに良いだろうと、朝から着込んだ。
そういえば、人質に食事を出さなければならない。思い出して地下牢に向かうと、そこはもぬけの殻だった。
壊された錠前を見て、焦りより先にどっと疲れが出る。
どうしてこう、余計な事が起こるのだ。
「……まさか」
リーゼロッテの仕業か? そう思いあたり、慌てて踵を返す。
リーゼロッテの部屋の前には二人の兵士がしっかりと立っていた。ジークハルトが近づくとバッと敬礼する。寝ずの番を任せたのに、動きがいい兵士もいるものだと僅かに感心した。
兵士がこの様子では、人質はリーゼロッテが逃がしたのではないのか? ジークハルトは平静を装いながら状況を確認する。
「何かあったか?」
「異常ありません」
背の低い方がはきはきと答える。後で名前を確認しておこうとぼんやり思いながら、頷いて返し、部屋に入る。
「おはようございます、リーゼロッテさん」
「……」
挨拶が返ってこないのは想定通りだ。ベッドの中から、怠そうなうめき声に続いて、弱々しく低い声が聞こえた。
「……ノアとマーサは」
近づくと、シーツにくるまり、髪を振り乱したリーゼロッテがぎろりと睨む。
昨日に比べて随分と憔悴した様子だ。昨日の夕飯に仕込んだ薬が効いたのだろう。あの眠り薬には、気分が落ち込む副作用がある。
この様子、やはり二人が逃げたことを知らないようだ。……それならば、勘違いさせておけばいい。
「二人ともお元気ですよ、今のところは。貴女が大人しくしてくださっていますからね」
「……」
恨みを込めた視線を受けて、ジークハルトは心底ほっとした。ああ、予定通りというのは素晴らしい。
「支度を整えたら、精霊の廟へお越しください」
あとはメイドたちに任せておけば良いだろう。そう思ってジークハルトは早々に部屋を出た。
++
精霊の廟は、東の森に面した城壁沿いにひっそりと建てられている。
廟の前の小さな庭はいつもは閑散としているが、今日は披露宴に招かれ、ぎりぎりの招待状に間に合った近隣の有力者が、10名ほど集まっていた。
家の名は精霊の名である。家族に変わりがあった時──結婚、出産、死亡や、養子縁組、除名などを行う時、その精霊に申し伝える必要がある。
その為、精霊の廟で書士を通じて精霊に報告し、承認を得ることが、冠婚葬祭の儀式となる。
ジークハルトは迎え入れる花婿として、精霊の廟で花嫁を待つ。
同席する家族は父とアデルハルト。アデルハルトは機嫌が悪い。時折不自然に身体がビクッと跳ねる。何かしようとして、失敗したのだ。
昨夜、逃げ出したアデルハルトを、魔法騎士が総出で捕まえ、声と魔力と動きを封じた。今も術師が三人がかりで背後について押さえている。
反面、父は上機嫌だ。自分の思い通りにことが進んでいるから。
(そう、……だから、これで良いのだ)
とりあえず、婚姻の儀式は予定どおりに進んでいる。このまま時間通りに終わって欲しい、ジークハルトはそれだけを願っていた。
時間通り、リンリン、と、廟の入り口のベルが鳴る。着飾った侍女に誘導されて、花嫁が入ってきた。
逃げられなかった事にホッとする。
(おや?)
少しだけ、違和感を感じる。彼女は、もう少し……なんというか、細くなかっただろうか。露出のない、身体を覆うドレスだが、少し厚みがあるようにみえる。
それに、殊勝な態度でおとなしくはしているが、妙に堂々とした足取りだった。
リーゼロッテが隣に並ぶ。ベールで顔は見えないが、何だか雰囲気が違う。
別人か? 誰かと入れ替わった?
いや、そんなわけはない。もしできたとしても精霊は騙せない。精霊書士の様子を見ても変わったところはない。予定通り、本人がここに来たと言う事だ。
「それでは、クラウゼヴィッツ家の婚姻を精霊に申し上げ、それを持って儀式とする」
精霊書士は朗々と声を張り上げ、特殊なインクとペンで精霊の言葉をさらさらと書き記す。
「リーゼロッテはジークハルトと婚姻する事により、ヘルデンベルクより、クラウゼヴィッツに身を移し──」
その最中の事だった。
一瞬、廟の中に影がさした。天井近くのステンドグラスの窓を、何か大きなものが横切ったようだ。
──バサッ バサッ
「うわ!」
「な、なんだ!?」
続いて、大きな羽音。廟の中まで聞こえるとは相当な大きさだ。そして俄かに外が騒がしくなる。
「まて、今は……があっ!」
バタバタと慌ただしい音がする。
護衛についていた兵士の慌てる声は、地面に落ちる音と共に静かになった。
その騒ぎに、廟の中にいた者たちは、つい扉の方に目をやる。
その時、
バッタァーン!!
「ちょっとまったーーー!!」
扉が乱暴に開け放たれた。ジークハルトは逆光に一瞬目を細める。
父が、その人影を見て、呆然と呟いた。
「お前、なぜここに」
……そこには、ここに居るはずがない末の弟が、息を切らし煌びやかな軍服に身を包んで立っていた。