75.時の竜
<最終章 プロローグ ~シナリオのエピローグ~>
窓から入る月明かりが複雑な魔法陣を照らす。
シュタイナーは、大剣で貫いた最愛の妻の身体に思わず縋り付いた。儀礼用の大剣がリーゼロッテの細い体を突き刺し、その中央に縫い留めている。
血は緩やかに流れ出て、魔法陣に広がり最後の文様を描き出した。
それに誘われるように、ぼんやりと浮かび上がるリーゼロッテの魂。これを取り込むのだ。それが、彼女の望みだ。
魔王となって世界を滅ぼす。──彼女とともに……
シュタイナーの視線はリーゼロッテの亡骸からどうしても離れない。儀式の途中で少しでも恐れたらやめようと思っていた。ほら、怖いだろう、こんなことはやめようと、言おうと思っていた。
なのに彼女は剣を振り上げた自分を見ても、愛おしそうに目を細めて、美しく微笑んだのだ。痛みは感じなかっただろうか。胸に剣を受け動かなくなっても、彼女は美しいまま。祭壇に捧げられた花のようだった。
「愛してる。其方が、私のすべてだったのだ」
掠れる声で呟いて、亡骸の上に崩れ落ちる。
「もっと、早く会いたかった。知っていたか? 母が亡くなった時、剣聖の道場に私を預ける話があったのだ。私は捨てられると思って大暴れして、この家に戻ってきた。あの時あのまま道場に残っていれば……そうしたら、其方を守ることができたかもしれないのに」
柔らかい光が、リーゼロッテの魂が、シュタイナーを抱きしめるように集まる。シュタイナーはそれを受けて、自分が違うものに成っていくのを感じた。
そして自分の変化に呼応するように、縋りついた亡骸が形を変える。
リーゼロッテの亡骸は黒い竜に変じた。ゆっくり動き出すと頭を上げて、シュタイナーの涙を舐めた。
「これは……時の竜か、」
時の竜はわずかだが時間を駆けることが出来るという。そして伝承では、過去を変える力を与えるとも言われていた。
「どのような魔物になるかは最後の欲望が決めるそうだ。其方は……やり直したい事があったのか」
シュタイナーは竜の首に顔を埋める。
「なあ、私を、道場に行った日に戻してくれないか」
しかし時の竜は、金色の目を瞬かせてシュタイナーに顔を擦り付けるようにしただけだった。
「ふふ、そうか。まあ、これはこれで幸せだな。……ずっと一緒だ」
++最終章 幸せは勝利から
「あれ? 変だな」
東の森の城の地下牢で座り込んでいたノアは、牢の鍵を開ける音と遠慮のない声に目を開けた。
「君、また魔力減った?」
「……」
ろうそくと食べ物を手に、ジークハルトがノアを覗き込んでいた。
(ちくしょう、やめろ、話しかけるな)
ノアは無視するが、ジークハルトは気にした様子はない。
「君の主人がどうなるかは、君次第ということは忘れないように」
ジークハルトは念を押すように言うと、床にパンとスープを置き、慌ただしく出て行った。
驚いたことに、自分から魔王の種を切り離しても、ノアはノアのままだった。
自分は魔王の種だと思っていたから、リーゼロッテの元に飛んでいこうとしたのだが、黒い魔力の塊と気配が自分から飛び出しただけだった。
おそらくそれが魔王の種だったのだろう。魔王の種は無事にリーゼロッテに魔力を与えてくれただろうか。
自分がそのままであることにほっとしたのもつかの間、今度はとてつもない不安が襲いかかってきた。
(じゃあ、おれは、スラム育ちの、ただのちっぽけな子供なのか。知識と役割、強大な魔力を得て、勘違いしていただけなのか)
喪失感を強く感じる。残ったのはもともと持っていたちっぽけな魔力。これでは何も出来ない。ただただ、不安と絶望が腹の中から湧き出すように全身に広がる。
そして。
ノアは頭を抱えた。さっきから、知っていることがぼろぼろと頭から抜けていくのだ。今まで夢を見ていたかのように。
魔王の種だから知っていた事、魔王の種だから知った事が、どんどん消えていく。シュタイナーの部屋にあった手紙、カウチュークの秘密、飛竜の声、本当のストーリー。記憶が霧の中に溶けるように、思い出せなくなっていく。
(ええと、……おれは、腹が減って死にそうな時に、リーゼおねえちゃんに拾ってもらって、ヘルデンベク家の使用人になったんだっけ。元気になったら、騎士の寮に入るんだ。今回は、森の調査にお手伝いでついてきて、……魔物に襲われて、また、おねえちゃんに助けてもらって)
何度も反芻しているうちに、記憶がただの子供に戻っていく。
どうしても忘れたくないことだけを、必死に何度もつぶやいた。
「おれは、つよくなって……リーゼおねえちゃんの、騎士になるんだ」




