72.シナリオ
魔王の種は、ふわりと私の身体に入ってきた。
私が望んだことなのに、無理に合わない薬を飲まされたような不快感。身体全体が跳ねる。
ノアから貰う緩やかに流れる重い魔力とは違い、丸い塊が無理やり私の中に入ってこようとしているような、そんな感覚だった。
「ぐ、う……ふふ」
幸いベッドの上だったので、そのまま丸くなってその感覚に耐えた。
呻きながらも、私の顔はにやけていたと思う。
これを取り込めば、私は誰よりも大きな力が手に入る。ずっと、ずっと、望む事も出来なかった力が。
そう思うと苦しみすら快くおもう。これがもしかしたら、妄執、渇望、というものかもしれない。
──?
何だか、頭が痛くなってきた。魔力……というより、長時間苦手な勉強をしたときのような……ズキズキとした痛みだ。なんだ?
たくさんの人が頭の中で一斉に喋っているようだ……
『これよりここで、其方は私に尽くし、癒すのだ。その代わり私が剣となり盾となろう』
『お前の非道な行いは看過できるものではない。婚約は破棄させてもらう』
『ずっと今のままでいたいのなら、貴方が魔王になって、私はその眷属になればよいのですって』
なんだ? 聞いた事のある声……シュタイン? ヴィンツェル?
……私?
声は同じなのに、全く色が違う。もっと、皆の声は、明るくて優しい。昼と夜ほどに違う。何故そんなによそよそしいんだ、怒っているのか?
頭の痛みは声と共に増してゆく。
ついにその痛みに耐えられず、その声に耐えられず、私は頭を抱え込む。
声はどんどん大きく、多くなっていく。
「う……あああ…!!」
そして私の許容範囲を超えたのか、突然ばつんと弾けて静かになった。
ほんの少しの間、意識を失っていたようだ。目を開けると、静かな部屋には窓から西陽が差し込み、ベッドには窓枠が黒い影を落としていた。
本当のシナリオを、私は知った。そして、私が歩むはずだった人生を。
……私は、魔王を復活させる役どころだった。そこで退場なので、先は知らない。
そのシナリオは、アリシアの言っていた物語と同じだった。聞いた時はあり得ないと思ったが、私の状況が今とは大きく違っていた。
その私は剣を持たず、淑女となるべく育てられた。
道場への立ち入りも許されていなかった。シュタインもヴィンツェルも門下生ではなかった。
確かに、今と一番違うのは、私かもしれない。
だが、間違いなく、あれは私だ。
剣を持たなかった私だ。
美しさにかけては、すべてをつぎ込み研鑽を怠らず、国一番の美しさとまでいわれるほど。
それを、努力の結果として堂々と披露していた。
……うーん、何かちょっとズレている気がする。淑女からもっとこう、謙虚さが必要だよな、アリシアみたいな……ああでも、アリシアはなぜかストーリーのほうが、普通で可憐だった気がする。
とにかく、その私の涙ぐましい努力は、ヴィンツェルに婚約破棄という形でぽっきりと折られた。
私が悪い。状況をよく考えもせずに人のせいにして、犯罪まがいの事をやったのだ。侯爵夫人にはなれないだろう。
しかし私は反省もせず、頑張る私を捨てた世間に対して恨みをつのらせた。
負けを認めたら負け、というのならば、私はまだ負けていなかった。
それに巻き込まれたシュタイナー・クラウゼヴィッツ辺境伯。
彼は、本当に、リーゼロッテを愛していたのに。
今の私なら、見ればわかる。
彼は、見た目も雰囲気も今のシュタインと大違いだが、私に向ける目だけは同じだったのだ。
わかりやすく見つめられても、愛の言葉を囁かれても、リーゼロッテはそれを信じていなかった。
この男が好きなのは「美しい女」だと思っていた。ただ自分を愛していたなんて、思ってもみなかったのだ。
リーゼロッテは、森の城の不思議な図書室で、『幸せ』なんて望んでいない。本当はこうだ。
『どうしたら、不幸にできるかしら』
『私を駒にした家族、私を捨てたヴィンツェル、誘惑したアリシア、……それだけではないわね、私を捨てた、世界全部』
そして示された本には、魔王復活の方法が書いてあった。一か八か。もしもこの人の愛が本当なら、自分の魂で事が成せると考え、
──自分を愛しんでいたシュタイナーを、魔王にしたのだ。
++
「失礼致します、御夕食です」
部屋の外からの控えめな声で我に返った。頭に浮かぶストーリーの事を考えていたら、ずいぶんとぼんやりしていたらしい。
なんで、シナリオ通りにならなかったのだろう。物心ついたときには剣をもって道場に出入りしていたから、原因は私ではないと思う。
まあ、いいや。考えてもわからないことは考えない。今のほうがいいのだから、それでよいだろう。
ふと窓を見ると、もう日は落ちて、藍色の空に明るい星が一つ見える。
メイドが静かに入って来て、灯りをつけて、夕食を用意する。その様子を眺めていると、どうも既視感を感じた。
ああ、シナリオの私も、婚姻の前日、こうして客間で夕食を用意されたのだ。クラウゼヴィッツ卿は同席しなかった。来たばかりの私に気を遣ったのだろう。
「辺境伯様は」
そう私が聞くと、「本日はごゆっくり過ごされますよう言付かっております」と言われたのだ。私は放っておかれたと思い込んで、暗い気持ちになった。
「……え? 旦那様からは何も……ジークハルト様からは、本日はごゆっくり過ごされますよう言付かっておりますが」
どうやら声に出ていたようだ。私に背を向けていたメイドが、驚いたように振り向いた。
「ふっ」
「何か?」
「いえ……何でもありません」
「はあ」
全く同じ返答で、つい吹き出してしまった。このままではジークハルトが魔王になるぞ。いや、あれは私を愛するなどないだろうから、それはないか。
メイドは不可解そうに眉を顰める。彼女は、表情も動きもあまり洗練されているとはいえなかった。やることはやっているが、動きが緩慢で、貴族の家に勤める気概のようなものは感じられない。
そう思って改めて見ると、城の調度品も、貸してもらったドレスも、シナリオの森の城の方が裕福だったように思う。古いばかりではなく、流行りのものも取り入れていた。
『魔物の大群を退けた、若き英雄シュタイナー・クラウゼヴィッツ』か。
それだけ活躍したなら、国を救った報酬があったのかもしれないな。
そういえば、魔物の大群は来ていないな。そのうち出てくるのだろうか。出てくるフラグのようなものは、もう無いのだろうか。
そんな事を考えていると、食事の支度を終えたメイドは、居心地悪そうに去っていった。じろじろと見すぎただろうか。
……さて、食べるか。これから大暴れだ。
食事に何か仕込まれていても、今の私には効かないだろう。魔力は無尽蔵だ。魔術の使い方はわからないが、自分の身体はよく操れた。
ためしに代謝を促してみると、すぐに骨折も傷も完全に治ってしまった。
魔力を使わずに筋力だけで身体を支えて歩いてみる。痛みは無いが、萎えてしまったようでフラフラする。そこで必要な筋肉を取り戻すように作ってみた。
……できる。すごいぞ、これは。身体が覚えていれば、その状態に持って行けるようだ。もちろん、最盛期の自分の身体を再現する。
筋肉が盛り上がり、腰に巻いたリボンが腹を締め付けた。おっと、ドレスが破けてしまう。慌ててリボンを緩めた。自分でできる服でよかった。
肩や腕を触ってみると、みっちりと盛り上がって、力を入れると固くなる。その感触で、やっと自分の身体を取り戻したように感じた。そうだ、私はこうでないと。
これで魔力で身体強化したら、私はどのくらい強いだろう。どこまで強くなれるだろうか。
「ふふふっ」
手始めに、いろいろとお礼をしよう。
私のシュタインを虐めた罪は重いぞ。




