71.魔王の種
魔力。身体中に流れを感じる。重くて甘い、少しよそよそしい匂い。少し湿った花のような匂いだ。でも暖かくて愛おしい感じもする。ああ、これは、ノアの匂いにも似ている。日の当たる道場で訓練したり走り回った後に感じる匂いだ。
ノアは惜しみなく渡してくれたが、魔力は出来るだけ温存しておかなければならないだろう。私はベッドに戻って楽な姿勢で目を閉じた。
そういえば、ジークハルトはこんなに私を放っておいて良いのだろうか。魔力が回復したら、壁くらい壊せる事などわかっているだろうに。
何か、思わぬ事件でもあったのだろうか。
ジークハルトが私を放っておかねばならない事情……うーん。
ああ、考えるのは苦手だ。強さを求めて戦って……一番になって……そういう、単純なほうがいい。
もう、全部投げ出して、武者修行の旅とかしたいな。シュタインと一緒に。各地で道場破りでもしながら……
現実から目を背け始めたとき、かちゃりとわずかなドアの音がした。
「どうぞそのまま寝ていてください。……回復、しましたね」
ジークハルトは私をみて、不思議そうに目を瞬いた。ノアがありったけ充填したのでいきなり回復したように見えたのだろう。
「と、なると。お強い貴女に大人しくしていただくためには、心苦しいのですがお伝えしておきますね」
心苦しいとは思っていないような口調で話しながら近づいて来る。
そして私の前で威圧的に腕を組んで見せた。わざとらしくてあまり怖くはない。
「貴女のお気に入りの従者君は、私が預かっています。それから、マーサも貴女次第ですね」
「マーサさん? 何故です」
「従者君を逃したみたいです。彼は戻ったところをあっさり捕まりましたが。彼女、情でそんな事をする人間ではなかったのになあ」
ジークハルトは首を傾げる。
「マーサは母の侍女でしたから、母が可愛がっていたシュタイナーには思い入れもあるのでしょう。と、いう事で、リーゼロッテさんの味方は拘束しました。今後は行動に気をつけてくださいね」
手段を選ばない、清々しいまでに、迷いのない卑怯者に、なんだか毒気を抜かれてしまった。……こいつは人質を無駄に痛めつけたりはしないだろう。でも、何かあったら効率的にいたぶりそうだ。笑顔のままで爪とか剥ぎそうだ。
……とりあえず今は、逆らわない方が良さそうだな。怖いというよりただ冷静にそう判断して、私はおとなしく頷いて見せた。
「さて、簡単に明日の段取りを話しておきたくて」
卑怯者は、切り替えるように手を打って、ベッドわきの椅子に座る。
「急な話なので、お客様はほとんど来ないと思います。披露宴と言っても形だけですから緊張しないでください。ああ、ドレスなどは用意しています。既製品なのは許してくださいね、また改めてきちんとしますので。明日の要点は、精霊書士の証書の作成です。私と貴女の結婚と、後継ぎの指名ですね。次にスケジュールですが……」
ジークハルトは秘書のようにスラスラと明日の段取りを話す。あまりにもそれが上手で、普通に聞き入ってしまった。
つまり、邪魔が入らないうちに、婚姻の契約してしまおうという事だった。
体裁を整えるために披露宴を行うが、王都からでは間に合わないだろうから、せいぜい近隣の貴族や有力者が来るくらいだと言う。
そうだとしても、精霊書士の下でかわした契約は有効になる。
貴族の家には家を護る精霊がいる。結婚や後継の決定など家の体制に関わることには、精霊書士が証書を作成するのだ。
「……と、いうかんじです。貴女は、従者君とマーサの事でも考えながら、私のエスコートに従っていただければ」
「……」
「では、私は準備がありますので」
私の返答を待たず、ジークハルトは立ち上がる。その様子に少しだけあわただしさを感じた。
「なにかありましたか?」
少し違和感があったので尋ねると、ジークハルトの目が少しだけ泳ぐ。
「ああ、……いえ。我儘な弟がすこし」
「?」
「……貴女が気にすることではありません。では」
そう言って、明日私と結婚するつもりの卑怯者は、さわやかな笑顔を残して去っていった。
++
再度横になり、目を閉じた。昼過ぎの明るさは瞼を通して、目の前は薄桃色だ。目を閉じても眠れはしないな。
人質を取られたとはいえ、私は結構楽観的だった。
出来るだけ動かなければ、魔力もあまり消費しない。ならばこのまま大人しくして、夜中にノアとマーサを助けて出ていけばいいだろう。
ノアに手伝ってもらって東の森に行って、魔王の種を探そう。魔力さえ手に入れば、その強さが手に入れば……多分、なんだってできる。
なので今は、辺境伯家の皆様方に油断してもらうためにも、大人しく寝ていよう、と思っていた。
の、だが。
「!?」
その気配は、突然、ベッドの横に生えるように現れた。
気配、だった。そこを見ても何も見えない。しかし、確かに何かがいた。先ほどジークハルトが座っていた椅子がカタカタと動く。
「な、なんだ?」
思わず体を起こしてしまう。未知のものに警戒し、戦うために魔力を身体に走らせてしまう。
魔力を無駄にするわけにはいかないのに……
しかし、その気配は、こちらに襲い掛かっては来なかった。ふわりと闇があふれるように、気配に黒い色が付く。……これは、覚えがある。あれだ、豊穣祭の……
──魔力を求めているのか──
「え?」
頭の中に直接声が響くようだった。
──妄執と渇望を抱く者よ、それを叶えてやろう。その代わり、この世に混沌を──
妄執と渇望? それは確かに本に書いてあった。何かに追いすがり、欲する者の力となる……それは、東の森にあるのではなかったのだろうか。
……私は何としてでも、それを探しに行こうと思っていたのに。なんで、ここにある?
ごくりと喉を鳴らした。
なんでもいいじゃないか。わざわざ向こうからきてくれたのだ。……私が手を伸ばさない理由が、あるか?
黒い気配はゆっくりと私に近づいてきた。ふわりと抱きしめられるように包み込まれる。
──魔王の種を宿せば、お前の望みは叶えられる──