60.鉄のハルバード
「これはこれは、リーゼロッテ様ではないですか。愚弟はもう出発しましたかな?」
にやにやと笑うアデルハルトの顔には、もう殴られた跡はない。傲慢な表情に煌びやかな刺繍の重そうなローブ。上位の魔術士のような格好は先日と同じで、目があっただけでぞわりとした。
「謹慎中とお聞きしていたが」
「父上は不在です。だから今は私がこの城の主だ。誰も命じることなどできない」
無遠慮にこちらに歩いてくる。マーサは礼儀正しく傍に控え、ノアは私を庇うように前に出たが、アデルハルトは全く気にかけず、私に歪んだ笑顔を作ってみせる。
「……ジークハルト殿は?」
クラウゼヴィッツ卿が不在なら、長男のジークハルトがいる。私がこの城の主? 何を言っているんだ。
「この家の後継は私ですよ。この家は、生まれた順ではなく、能力を正しく評価する。ね、兄上」
アデルハルトは後ろに従えた一人を紹介するように、前へ押し出した。
それは長男のジークハルトだった。困ったようにへらりと愛想笑いする表情は、卑屈そうでも嫌そうでもなく、弟の従者のような立場を受け入れているようだった。
「ジークハルトさん?」
「リーゼロッテさん、アデルの魔力は並外れていてね、次期当主として期待されている。君もこの家の一員になるのなら、共に支えてほしいんだ」
は?
諭すように言われた言葉がすぐに理解できない。
次期クラウゼヴィッツ辺境伯は、長男のジークハルトではなく、こいつなのか? 魔力量が多いから? そんなバカなことあるか?
驚く私に得意げにアデルハルトは笑う。
「ヘルデンベルク家はシュタイナーが欲しかったんだろう? それは叶ったのだから、貴女はこちらで暮らすといい。夫が離れている寂しさは、私が埋めて差し上げよう」
つま先から頭のてっぺんまで、舐めるような視線を感じる。ぞわぞわと背筋を毛虫が這うような不快感が身体に走った。
つい、救いを求めるようにジークハルトを見る。今この状況でアデルハルトを黙らせられるのは、立場的には彼しかいないと思うのだが……
なのにジークハルトは幼い弟を見る目でアデルハルトを見て、困ったように、私に言った。
「リーゼロッテさん、アデルはあなたが気に入ってるんだよ。仲直りしてやってくれないかな」
ジークハルトの目は本気だった。あの夜の一件を知らないわけではない。知っていて、子供の悪戯と同じように思っている。
……これは困った。……今、味方は、いないのか。
私の狼狽を察知したのか、ノアがすっと手を離して私を守るように立ち塞がった。
「マーサさん、おじょうさまを、お部屋につれていってあげてください」
そうだ、あの部屋は他の家族も入れない。部屋に逃げ込めば……
しかし、アデルハルト達は私たちを阻むように廊下に広がったまま、動く気配はない。
アデルハルトはノアを嘲るように鼻で笑うと、つかつかとこちらに近づいてきた。
「お疲れならば、私の部屋で休んでいただこう」
「ねえちゃんに近づくな!」
「邪魔だ」
「!?」
ノアが威嚇するように叫んだ時、ぶわっと、アデルハルトを中心に、小さな爆発が起こった。
突風のような衝撃が辺りに奔る。
私は咄嗟に足を踏ん張ったが、ノアとマーサは吹き飛ばされた。
「ノア、マーサさん!」
魔力を、瞬発力を意識して脚の速筋に編み込む。ノアを受け止め、マーサを抱き寄せた。
危ないところだった。ちょうど鎧が飾ってあって、突っ込むところだったのだ。
「大丈夫?」
「おねえちゃん」
「あ、ありがとうございます」
あちらを見れば、ジークハルトが従者たちを守るように立っている。魔法の盾か何かを展開したようだった。
「なんだ。魔力はあるが使えないと聞いていたが」
アデルハルトは少し目を丸くした。私が動けるとは思っていなかったのだろう。だとすると、この魔法は私も吹き飛ばすつもりだったのか。
「見事な身体強化だ。そうか、先日、私を倒したのはお前か」
アデルハルトはそう自答すると納得したように笑った。
「……そうだよな。まさか私がシュタイナーごときに、傷つけられる訳がない」
ニタニタと気持ちの悪い笑み。どうやらシュタインにやられたわけではない事が嬉しいようだ。
アデルハルトはその気持ちの悪い目を、べたりと私に向ける。
「ならば躾には、このくらい必要だな」
じゃらり、と、音を立てて、重そうなマントの中から太い鎖が現れた。猛獣でさえ繋ぐことができそうな鎖は黒く、窓からの陽を受けて鈍く光る。
金色の目が深く輝く。鎖が蛇のようにゆらりと動き出した。
「大人しくついてくるか? 鎖で繋いでやろうか?」
「……悪趣味だな」
ここまでされたら、義兄だとかシュタインの顔を立てるだとか、考えなくていいだろう。
シュタインはもう、うちの人間になるのだ。ひと段落したらこんなヤツ、縁を切ってしまえ!!
そう思うと吹っ切れた。二度と、ふざけた事を言えないようにしてやる。
壁にはいくつかの武器が飾られている。剣、弓、盾……どれか借りよう。とてつもない力が使えるのだ。せっかくなら……
私は全てが鉄でできたハルバードを手に取った。長い槍には片刃の斧がついている。全身鉄の鎧をまとった騎士が、馬上から相手の鎧ごとぶった切るための武器だ。
私の手には少し太いが、指は回った。当然だが、かなりの重量がある。力だけでは到底持ち上がらない。指、腕、肩、背、腰……魔力で必要な強化を施し、片手で鉄のハルバードを壁から外す。
鉄と岩壁がこすれて、ぎゃりっと嫌な音がした。
私はそれを、まるで木でできた簡易な槍のように、片手でぐるぐると振り回してみた。
女の力では……いや、男であっても、こんなことをしたら肩が外れるだろう。
「……はははっ」
これは、気分がいい。こんなこと、シュタインだってできない!
ずっしり重いハルバードを、アデルハルトに向かって両手で構えた。そうだよ、私は自分で戦える。シュタインに守ってもらう必要などないんだ!
試合相手に向かい合った時の、腹の底から湧き上がる高揚感。久しぶりだ。ああ、とても気分が良い!
「それは飾りだ、行儀が悪いな」
不機嫌そうに片目を歪めて、青筋を立てるアデルハルトを挑発して、私はこう言ってやった。
「来い。私に勝てたら、言う事を聞いてやる」