55.シュタインの部屋
目が覚めると、大きいがシンプルなベッドに寝かされていた。
ああ、昨日……夜中に起きて、シュタインの部屋に来たんだっけ。物が少ない、すっきりした部屋。まあ、十年使っていないなら、生活感もなくて当然だろう。
小さな手が、私の手を握りしめている。見るとノアが寄り添うようにして眠っていた。
だからだろうか、すこぶる調子が良い。
魔力の流れが身体に馴染んだのだろうか、あまり身体の重さを感じない。動くと、ふわりと自分から甘い香りが漂う。不快ではないが、何だか他人といるような違和感がある。
頭もすっきりしていて、気分も良い。昨日あんなことがあったのに。安心して寝られたからだろうか。
抱き上げられた時のシュタインの体温を思い出す。あんなに優しく触れられたのは初めてだった。
……なんだ、あいつも、やろうと思えばできるんだな。
乱暴に担ぎ上げたり投げ飛ばしたり、そういう対象ではない、普通の女には優しく、……男らしくできるのか。そうしていたりするのだろうか。私の知らないところで……
……私は何を考えているんだろう。そんな事、今まで思ってもみなかった。
ベッドに、シュタインはいなかった。ソファーかと思ったがそこにもいない。もう起きているのだろうか。
ノアを起こさないようにそっと手を外して、半身を起こしてみた。目の前で手を握ったり開いたりしてみる。
朝の柔らかい光の中、私のものとは思えない、華奢で白くてすべすべの指は、いつも通りに動く。
ゆっくりベッドから降りる。足もほっそりしている。靴のサイズも変わったんじゃないだろうか。
昨夜とは違い、いつも通りに歩けた。ベッドの脇のスリッパを借りる。柔らかい薄い布が二重になった、裾に凝ったレースがあしらわれたドレスのようなネグリジェを着ている。
朝日にあたっているからか、目にかかる金色の髪がいつもより柔らかく、輝いているような気がする。
何だか、お姫様みたいだな。
鏡が見たい。随分と細くなってしまったのはわかるが、今私はどうなっているのだろう。
シュタインの部屋には姿見は見当たらなかった。クローゼットの中にあるかもしれないが、勝手に開けるのも憚られる。そうだ、お手洗いはどこだろう。部屋の外に出れば、誰かいるだろうか。
「あれ?」
廊下に出る扉を開けようとしたが、鍵がかかっているようだった。
どうしよう、普通に行きたいのだが。お手洗い。朝だし。
ガチ、ガチ、とノブを動かしていたら、外からノックされたので、一歩引いた。
「失礼致します」
入ってきたのは、制服らしい灰色のワンピースをきちんと着こなした、年配の女性だった。
無駄のない所作と落ち着いた表情には、この家に長く仕えてきた者ならではの静けさがにじんでいる。
ん? 今、鍵を開けるような音はしなかった気がするのだが……
いや、そんなことより、まずはお手洗いである。
「お嬢様のお世話を申しつかりました。マーサと申します。まずはお召替えを」
「あ、あーっと、ごめんなさいその前に、……お手洗い、どこですか?」
少し古風な、見事な仕草で礼をする彼女に、慌てて、挨拶もせず、何とも場違いな事を聞いてしまった。
マーサの視線が、ほんの少し冷たくなった……気がする。
……いや、でも! これは、最優先事項だろ!?
お手洗いにも鏡はなかった。映るかな、と、窓ガラスを覗き込んでみたが、影だけでやはりわからない。窓の外はすぐそばまで深い森が来ていて、その向こうには白い山脈が見える。
マーサに付き添われて、先ほどのシュタインの部屋に戻った。
シュタインはやっぱりいなかった。ノアはまだ寝ているようだった。
「お召替えを。体調がよろしいようでしたら、朝食室へご案内致します」
先程、礼儀を守れなかったせいか、マーサの目が何だか冷たい気がする。
仮にも私はこの家の三男の婚約者だ。未来の旦那様に恥をかかせてはいけないよな。
よし、頑張ろう。私は、気合いを入れて淑女の仮面を被ろうと、背筋を伸ばした。
──なんだこれは。
私の支度のために、わざわざシュタインの部屋にドレッサーが運び込まれた。マーサに整えられていく鏡の中の女を見て、私はただ驚愕していた。
シュタインの目は節穴だ。これが美女でなくて、何を美女というのだ。
と、自分で言ってしまうくらい、私は変わっていたのだ。
細い首は長く、華奢な肩は丸く、形の良い大きな胸。腰はくびれてコルセットが苦もなく締まる。
肌は、白くてすべすべ、……なんてものではなかった。ノアとシュタインの語彙力を鍛える必要を感じる。
小さくなった顔に、大きな瞳。魔力を帯びているからか、不思議な、吸い込まれそうな深みがある。ばさばさと音がしそうな長いまつげがそれを縁取り、豪華な台座に彩られた宝石のようだった。
少し厚い唇は血色が良く、紅を塗らなくてもさくらんぼのようだ。
「……こんなに、変わるか?」
呆然と呟いた時にちらりと見えた歯も、隠された真珠に見えるほど。
マーサはそんな私に、古……いや、クラシカルなデザインのドレスを着せ、髪を結い、化粧をしてくれた。
自分? 本当に?
ヴィンツェルとは系統が違う美しさだ。彼が涼やかな百合のような美しさなら、この女は大輪の薔薇だ。
しかし、何だか見たことがあるような感じもする。こうやって、鏡に映っているのを。しかしあの時のドレスは、もっとモダンで……くらくらするような、流行りの……
なんだっけ……思い出そうとすると、もやのように消えてしまう。
まじまじと鏡を見ていると、支度ができたと言われる。ノアを見るとまだ寝ていたが、一人にするのは心配だ。連れていけるだろうか。
──なるべく横柄に振る舞って。おれをお気に入りのお人形みたいに──
あの時のノアの意図は、自分を所有物のように扱えば、一緒にいられるということだったのだろう。
よし。一芝居打とうではないか。
「ノア、いつまで寝ているの」
パン、と手を打って、キツめの声をかけるとノアは飛び起きた。目をぱちくりさせて、何がおきたのかわからない、というような顔をしている。驚いたネコみたいで、ちょっと可愛い。
「行くわよ」
「お嬢様、ともは私が申しつけられております。どうかそのものはこちらに置いて……」
「いいえ、連れて行きます。あれは私のお気に入りなの」
ピシャリと言うと、マーサはすっと頭を下げた。一方的に命じられることに慣れているのだろう。
うわー……ずっとこれ続けるの、結構つらいな。
マーサは少年の服を見繕ってきてノアを着替えさせた。これまたクラシカルな服だったが、ノアのエキゾチックな雰囲気にはよく似合っていた。
「まあ、素敵。似合うわね」
「シュタイナー様の幼少の頃のお召し物をお借りいたしました」
ぶっ
吹き出すのをこらえた私、偉い。
まって、これ? これを、あいつが?
……想像もつかない。道場に来た頃のシュタインを思い出したって、こんな、ザ、愛玩用のお稚児さんみたいな格好……あの、シュタインが?
「では、ご案内致します」
私とノアはマーサに連れられて、城の廊下を、しずしずと進む。