52.アデルハルトの礼儀
「ああ、その子供。入らないように気を付けていたのですが、なにか致しましたかな」
冷たい目でノアを一瞥して、その、シュタインに似た男は横柄な口調で言った。ノアは身を固くしている。私が寝ている間に虐められたのだろうか。シュタインは何をしていたんだ。
「おい、リーゼロッテ嬢のお世話は我々がすると言っているだろう。お前は邪魔だ。シュタイナーと大人しくしていろ」
「待ってください」
その態度に腹が立った。状況からして、この男がこの家の者だろうが、ノアを馬鹿にするのは許せない。
「この子は私の大切な、私の命の恩人です。そのようなことはおっしゃらないでいただきたい」
「命の、恩人?」
男はあざけるような目をすると、馬鹿にしたような声で言う。
「こんな、何もできない子供が? 魔力も少なく、力もない。礼儀もなっていない。貴女は騙されているのでは?」
……? 何を言っているんだ、この男は?
まだ子供なんだ、力がないのは当然だし、礼儀は今覚えている最中だ。それに、……魔力が少ない? ノアが?
……私に魔力を送っているからか?
「さて、お目覚めになって私が真っ先にお会いできてよかった。貴女を我が家へお迎えしたい」
コツコツと足音を立てて、男は遠慮もなくベッドに近づいてくる。
「森の城へようこそ、リーゼロッテ・ヘルデンベルクお嬢様。私はアデルハルト・クラウゼヴィッツ。どうぞよろしく」
男はそう言って慇懃に頭を下げる。クラウゼヴィッツ、という事はシュタインの兄の一人だろうか。それにしてはひ弱そうで、なんだか嫌な感じがする。
アデルハルトは気障な仕草で、勝手にベッドに腰掛けた。
……礼儀がなっていないのは、どう考えてもこいつだ。状況からして、私は世話になっていたのだろうが、それにしても初対面で、淑女が寝ているかもしれない寝室に入ってくるだろうか? ましてやベッドに腰掛けるなど……
どうしたものかと思っていると、アデルハルトは私の方へ身を乗り出し、顔に手を伸ばしてきた。
「な、なにをする」
避けようとしたが、まだうまく動けない。アデルハルトの手が私の頬をするりと撫でて顎を掴んで持ち上げた。
「ああ、なんと美しい! シュタイナーは女の趣味は悪くなかったのだな」
ぞぞっと、背筋に悪寒が走った。
アデルハルトはうっとりと私の顔を見ている。確かに好意的な視線なのかもしれないが、陳列された宝石を気に入って、手に取ったような顔をしている。
その目はシュタイナーと同じ金色で、しかし、魔力を帯びて深い輝きを放っていた。目を逸らせたら襲いかかってくるような、そんな気がして睨みつけた。
「気丈な女は嫌いではない」
僅かに笑顔が引き攣った。女に睨まれた事など無いのだろうか。
「おい、その子供も連れて出ていけ」
面白くなさそうな声に、アデルハルトが連れてきた従者がノアを引っ立てるように掴んだ。
「ねえちゃん!」
「ほんとうに、礼儀がなってないな」
叫ぶノアに、アデルが一瞥をくれると、従者がノアの口をふさいで担ぎ上げた。
なんなんだここは、山賊のアジトか? 私の常識では測れない、暴力的な何かが、この場を支配している。
「んー!!」
じたばたと暴れるノアをものともせず、従者たちは出て行ってしまった。ばたんと扉が閉まる。部屋には私と、アデルハルトが残された。
しん、と静まり返った夜中、贅を凝らした寝台の上、男と二人……しかも私は寝間着姿だ。さすがに、身の危険が迫っていることは理解した。
「大丈夫だ、悪いようにはしない。父上は貴女を家族に迎えると決めた。貴女も跡目を継がない三男坊より、次期当主のほうが幸せになれるだろう?」
「……いや、私は」
「シュタイナーなんぞより、いい思いをさせてやる」
アデルは唇を重ねようとしているのか、顔を近づけてくる。
「や、やめろ」
気持ちが悪い。それを避けようと顔を背けているうちに、気が付くと寝台に押し倒された形になっていた。
「拒むか、まあそれも、一興」
くくっと獲物を捕らえたように喉で笑う音がして、シュタインと同じ色の目が、薄い唇が、三日月型にいやらしく歪む。
──嫌だ。
困った、いつもならこんなヤツ脅威でもなんでもない。
だって、隙だらけで力も弱い。蹴り上げただけで、あっちの壁に激突させることだってできるはずだ。
なのに、さっきから体がうまく動かない。ノアが言っていたように体力が弱っているからだろうか。コツが掴めていないから? それともこいつが、何か魔法を使っているのだろうか?
……魔法?
身体の中にさっきノアが残していってくれた魔力の流れがある。今私を動かしているのは、この魔力だということだった。
重くて甘い、蜜のような流れ。
それをまた意識した時、自分の身体が、なにか見えない鎖のようなものに拘束されているのに気が付いた。
そしてそれは、今私の中に流れているもののほうがずっと強くて、量も多い事にも気が付いたのだ。
「!?」
夢中だったから、どうしてそんなことができたのか分からない。でもその鎖は、ぐいっと引いたら粉々になった。
腕が自由になる。随分細くなってしまった腕だが、とても重く感じられた。
筋力は今は頼れない。身体の中にうごめく魔力の流れを掴んで押し出すように、私はアデルハルトを突き飛ばした。
「うわっ」
不意をつくことができたようで、アデルハルトは間抜けな声を出してベッドから転がり落ちる。
残念ながら、壁に激突させるほどの力は出なかった。
「な、貴様」
私は広いベッドの上を後退り、距離をとる。
アデルハルトがベッドにすがって立ち上がろうとした時、
ドンドン!!
と、強く扉が叩かれ、「リーゼ!」と、外からシュタインの声がした。
「シュタイン!!」
シュタインの声に身体の力が抜け、へなへなと再び倒れ込む。
──ああ、でも、これでもう大丈夫だ。
「……シュタインっ」
自分の声が情けなく響いて、目に涙が滲んで、自分が恐怖を感じていた事に気づく。
「はははは」
アデルハルトはその音と声を聴きながら、愉快そうに笑った。
「あの扉は魔力がなければ開けられない。あの出来損ないに、この扉は開けられない」
そして再び私に手を伸ばしながら、勝ち誇ったように言った。
「わかっているだろう、シュタイナー! お前は兄には勝てない。そこで大人しくしていろ」
私は逃れようと、慌てて足を引く。そして、思い切り叫んだ。
「シュタイン、扉は開かない、壁を破れ!!」
もう魔法の鎖もない。自分で抵抗することもできただろう。なのに私は、咄嗟にシュタインを頼った。
それはそうだ。だって、そこにシュタインがいるのだから。
そして、
──ドゴン!!
と、屋敷を揺るがすような派手な音がして、扉の横の壁に穴が開いた。
「はあ!?」
呆然とするアデルハルトを私は蹴っ飛ばす。
「なっ!!?」
今度は魔力をうまく乗せられたようで、狙い通り壁まで飛ばせた。アデルハルトは壁に背中を打ちつけて、叩かれた羽虫のように崩れ落ちた。
ドゴン!!
もう一撃が壁に加えられる。打ちこんだところが良かったのだろうか、前の穴とつながって、大きな穴が開いた。
……ん? あいつ、何をつかって殴っているんだ? さすがに拳ではないよな?
「リーゼ!!」
ドゴン!!
もう一撃。
壁は崩壊し、がらがらと崩れた。
粉塵の向こうには、長い柄の打ちこわし用のハンマーを携えたシュタインが、今までにない焦った顔をして立っていた。