50.目覚めと魔力
<第五章 ご挨拶は療養から>
身体が動かない。
意識はあると思う。先程から少し湿った花束のような甘い匂いがするし、ぼそぼそと話す声も聞こえる。
しかし目が開かないから、これが夢だと言われれば否定もできない。
どうやら暖かい柔らかいところに横になっているようだ。私の自分のベッドよりずっと柔らかく、まるで天使の翼に優しく包み込まれているようだ。肌触りの良い、どこも締め付けない服を着ている。顔に当たる空気もちょうど良い暖かさで、全てが気持ちの良いもので囲まれている……ような気がする。
「まさかシュタイナーがこれほどの女性を連れてくるとは」
「確かに驚いた。フォルクライ家が幼い頃から目をつけていたというのも納得だ」
「それに憔悴してなおもこの美しさ。……クラウゼヴィッツ家に相応しい」
二人の男の声。どこかシュタインに似ている気がする。でもシュタインの声はもっと、朗らかで優しい。春の草原の陽だまりのような、明るくて心地よい声だ。
ここはどこだろう。シュタインはどこにいるんだろう。何で身体が動かないんだろう。
それに……
この、身体の中を巡るような、感じたことのない流れ……甘い蜜が血と一緒に流れているような……これは何だろう。
「あのう」
ノアの声がする。
「おじょうさまの、ようすを、みさせていただけませんか」
一生懸命、礼儀正しくしようとしている。それがわかる、緊張した声だった。それなのに、男の声は冷たくそれをあしらった。
「話の邪魔をするなと主人から習わなかったか?」
「アデル、幼子だ。言っても仕方ない」
バカにするな、ノアは一生懸命で本当に良い子だ。早く起きて、ノアに、よくやったなと言ってやらないと……
そう思うが、だんだん声は遠ざかっていく。
そして何も聞こえなくなって、ただ湿った甘い匂いだけが残った。
それからどのくらい経ったのか。
激痛を感じて意識が戻った。
全身が痛い。さっきは動かないだけだったが、今は激痛が全身を貫いている。しかし、相変わらず身体はぴくりとも動かない。
甘い匂いはしない。その代わり、病室特有の薬草の匂いが鼻についた。
痛い、痛い……!
「リーゼおねえちゃん」
しばらくすると、ノアの声が聞こえたが、身体が動かないので何も反応できない。まつ毛の一本も動かないのだ。
「ごめんね、遅くなって……痛いでしょう、いま、楽にするから」
子供の湿った手が私の手に触れた。そこからじんわりと、重い何かが入ってくる。それは身体をゆっくりと流れて、痛みを押し流していく。
痛みが引いて、ただ身体の重さだけが感じられるようになった。また甘い匂いが漂い始める。どうやらそれは、私の身体から出ているようだった。
「リーゼおねえちゃん、聞こえてるよね?」
ノアが耳元に口を寄せて、内緒話をするように囁く。
「今ね、おれの魔力をお姉ちゃんの身体に流して、傷を閉じたりとか、骨を支えたりしてるんだよね。だから、普通には動けないと思うんだけど、魔力で身体を操れば動けると思うんだ」
何か難しいことを言い出した。この、ノアから流れてくる、重くて甘い蜜のようなものが魔力なのだろうか。
「初めて会った時、おれがそうやって動いてたの、覚えてる? 今流れてきてるチカラみたいなものあるでしょ、それ、コツを掴めば自分で動かせるから」
コツ……? これを動かせる? 試しに腕に意識を向けて、動け動けと念じてみたが、全く動く気配はない。
「……そうだ」
ノアが思いついたように呟く。
そっと、今度は私の目の上に、ノアの片方の手が乗せられた。じんわりと暖かい。そちらからもふわりと魔力が入ってきた。
「おれの手を感じて、魔力は意識しないで……それで、瞬き、してみて」
うーん、なかなか難しいことを言うな。
意識をせずに瞬きをするなんて、考えてみればいつもやってることのはずなのに、言われてできるものでもない。
ただ、目の上に暖かく適度に重いものが乗っているようで気持ちが良い。力を込めず、むしろ微睡むような気持ちになった時に、ふと、瞼が動いた。
「おねえちゃん!」
ノアの翠の双眸が視界に飛び込んでくる。
ああ、そんなに嬉しそうな顔をして。私まで嬉しくなってしまう。
そう思うと、今までピクリともしなかった顔が、自然と綻んだ。
「よ、よかった……っ」
ノアの目に涙が溜まり、私の身体の上に突っ伏した。
「ノア、……ついていて、くれたの?」
化鳥にやられて、あれからどのくらい経ったのだろう。喉が張り付いて、うまく声が出ない。
腕も、とても重いが、なんとか持ち上がった。ノアの黒い髪に手を置く。さらさらの絹糸のような髪は、きちんと整えられているようだった。
ノアはしばらく何も言わず、私の手を握ったまま、肩を震わせていた。




