49.五章プロローグ~黒い竜
<プロローグ>
東の空が赤く燃えている。
「帰ってきたら、お前のパイシチューが食べたいな」
夫はそう言い残して門下生達を従え王宮を出て行った。元英雄、剣聖アレクシスとして。
声は穏やかに笑っていたが、目には覚悟の炎が宿っていた。
彼が魔王を倒した功績で爵位を賜り、二人で貴族の仲間入りをし、もう20年以上経つ。
いろいろあった。アレクシスは出自や魔力などで差別されない、誰にでもチャンスがある国にしたいと言って、貴族の中で戦い抜いた。
私も必死だった。生まれついてそうだった人たちの真似をして、流行りのドレスに茶会にパーティに……華やかな裏にある駆け引きや情報戦に必死だった。
その結果手に入ったのは、高い地位と権力、立派な屋敷、大勢の使用人、豪華な食事。そして、労働を知らぬ美しい娘……生まれついての貴族として育った、国一番美しいとまで言われた娘、リーゼロッテ。
ヘルデンベルク家の凋落は、ヴィンツェルからの一方的な婚約破棄から始まったのは確かだ。
リーゼロッテは東の森に追放され、アレクシスは軍事統括から騎士団の指南役という名の閑職に落ちた。
歯車が狂い始めたのはいつなのだろう。リーゼロッテがアリシアを恨んだときか、ヴィンツェルがアリシアに出会ったときか、アレクシスがフォルクライ卿の地位を奪ったときか、それよりもっと前なのか。
どちらにしろ、私の元にはもうリーゼロッテもアレクシスもいない。私も今できる事をしようと、王宮のホールへ向かう。
ホールは人で埋め尽くされていた。
町から逃れてきた女たち、子どもたち、老人たち。座る場所すらないほどの混雑の中に、ざわざわと不安が蔓延している。
皆一様に赤く染まった東の窓を気にしている。凝視している者、見ないように顔を背けている者。
私は剣聖の妻として、努めて明るい声を出し、一人一人に声を掛けていた。
「お前の娘のせいだ!」
突然、金切声とともに、背中に拳が飛んできた。泣いている女の力はそんなに強くなかったがその言葉にぎょっとする。
そのうち誰かが言い出すのではないかと思っていたから。
「お前の娘が、魔王を呼び起こしたんだ!!」
ちがう、リーゼロッテはそんなことはしない!
そう言いたいのだけど、……確かに東の森の城がおかしくなったのは、リーゼが嫁いでからだ。
シュタイナー・クラウゼヴィッツ辺境伯は、リーゼを離さず、結婚式から一度も会わせてもらえていない。だから何があったのかは、私達にもわからない。
でも、リーゼロッテは強い子なのだ。親の言いつけをよく守って、自分の役割を見失わない。美しく、気高い子だ。
逆らったのは一度だけ。幼い頃、剣を取り上げた時だけだ。それも最後にはちゃんと飲み込んで、道場には立ち入らなくなった。
道場の木剣を抱えて、泣きじゃくる幼いリーゼロッテ。
……なんで今、そんなことを思い出すのだろう。
もし、あの時、剣を取り上げなければ。
もしリーゼが戦えたら、魔王すら倒せていたとでもいうのだろうか。
──きゃああああっ
その時、大きく悲鳴が響いた。顔を上げると黒い影が東の窓を覆っていた。
それは巨大な黒い竜だった。
「グオオオオオォォ・・・」
竜は不気味な声を上げる。その衝撃でステンドグラスが粉々に割れた。
色とりどりのガラスの破片が舞い散り、きらきらと美しく輝く中、黒い竜がこちらを見たような気がした。
麻痺してしまったのだろうか、不思議と恐怖は感じない。向かってくる竜の目が、ふと愛しい娘のように見えた。
リーゼ、ごめんね
──そして、私の意識は闇に飲み込まれた。
++
次に気がついた時、私はベッドの上にいた。
胸元に暖かい塊を抱えている。
見ると赤子のリーゼロッテが、張った乳房を咥えたまま、目を閉じていた。
「え?」
みじろぎすると、リーゼロッテの口がぽんとはずれる。赤子は半分眠っているようで、乳房がはずれたことにきづかず、ふくふくとした唇をもにゅもにゅと動かし続けている。
そのうち小さな口をちょっと開けて止まった。そしてそのまま、何の憂いもない顔で、リーゼロッテはすやすやと寝息を立て始めた。
部屋の中は暗いが、蝋燭の灯りが暖かく寝顔を照らしている。
その寝顔を見ていると、心から幸せな思いが込み上げて、愛おしさに涙が溢れた。
止まらない涙と共に、それまでの事は、一夜の悪夢のよう消えていく。
しかし、一つだけ。
──剣を許してやればよかった、と言う気持ちだけは残った。
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