4.好みのタイプ
「ああ、緊張した。誘うときが一番緊張した。奥様が怖い、本当に怖い」
二人で庭を散策してくると言って、外に出た。淑女モードである。日傘も忘れない。
ちらりと屋敷の方を見ると、母が目を光らせている。二人になったとたん訓練を始めるのではないかと疑っているのだろう。
「今も見ているよ」
シュタインは慌てて背筋を伸ばし、エスコートの形を美しく整える。
しかし声は聞こえないと判断したのか、口調はいつもの調子に戻っていた。
「しかし、よかった。奥様が難関だったからな。少しは良い男に見えただろうか」
おどけたように笑うが、バチバチに決めた正装姿のせいか、気障な紳士のように、妙に様になっている。
「シュタインはダンスできるのか?」
「できる。覚えた」
「いつの間に?」
「リーゼが練習していると聞いたから、この三ヶ月で。師匠に習ったからひどくはないと思う」
「父上、仮にも子爵だもんなあ。元英雄だから結構やらされたらしいよ。お母様もそのあたり厳しいし」
父とダンスをしているシュタインを想像して、堪えきれず、はははと笑ってしまう。
……おっとこれは母に怒られそうな笑い方だな。
いかんいかん、淑女はしずしずと歩き、声を上げずに笑うものなのだ。
慌てて扇子を口元に当てて「ふふふ」と笑い直した。
ふと、シュタインが立ち止まった。
「ん? どうした? ……どうなさったの?」
シュタインはじっと私を見つめている。真剣な目で。
そして、意を決したように、静かな声で言った。
「……なあ、俺は、貴女に勝った、よな」
ぐっと胸が詰まる。
今まで蓋をしていた感情が溢れそうになり、喉の奥が締めつけられるような感覚に襲われた。
「……そう、だな」
シュタインの目をまともに見ることができず、足元に視線を落とす。
喉の奥にせり上がってくる何かを感じて、私はとっさにそれを押し込んだ。ぐぐっと押し込んで、もう一度蓋をする。
扇子で口元を隠して、目を伏せる。天から吊られるように背筋を伸ばして優雅に立つ。
……なるほど、母はもしかしたらこのために淑女教育を急いでくれたのかもしれない。
「ええ、貴方は私に勝った」
そう言ってにっこり微笑む。
にっこり笑うのはこういう顔の形だ。伊達に二十年近く自分の筋肉と向き合っていない。表情だって筋肉だ。やってみたら、表情を作るのは意外と得意だった。
「だよな、なあ、次は、いつ挑戦してくれるんだ?」
少しほっとしたような声でシュタインは言う。
……しかし、何を言っているんだ。
「……挑戦は、もうしないよ」
「え?」
「騎士は辞した。もう剣を握る事もない」
シュタインは信じられないと言うように目を丸くした。
「剣術大会は」
「もう出ないよ」
「なんで」
「なんでって」
呆然とした様子のシュタインに微笑む。微笑む以外あるだろうか。
「もう、勝てないよ。シュタインには」
そう言ったとき、ぱつん、と、何かが切れたような気がした。
そうだ、もう勝てない。
向き合ったシュタインを見上げる。
ヒールを履いてもまだ上にあるシュタインの自信に満ちた顔。広い肩幅、厚い胸、太い胴。逞しい腕。
比べて、自分の身体を見下ろす。細い腕、柔らかい胸……目の前の男には、もう届かない。
そう思った瞬間、私の中で何かが静かに崩れていくのを感じた。
……なぜ、私はこれに勝てると思っていたのだろう。
「リーゼ!?」
視界が揺れる。眩しい、と思ったとき、ふらりと体が傾く。さっとシュタインの腕が伸びる。
「……すまない、大丈夫だ」
シュタインに支えられ庭のベンチに腰掛ける。
そのままシュタインに寄りかかった。ふう、と、息をつく。
大木のように安定した身体。体温が高くて気持ちがいい。少し鼓動が速い。
心配させてしまっただろうか。
「具合が悪いのか? だから、そんな、訓練もできずに」
「ちがうよ」
シュタインはいいやつだ。これは私の問題だ。
目を閉じて深呼吸する。二人の香水の匂いに加えて、自分の化粧の匂いとシュタインの整髪料の匂い。いつも汗臭い2人と随分変わってしまった。
もう一度、気合いを入れて笑顔を作る。シュタインから離れて、背筋を伸ばした。
「もう大丈夫だ。それより今度のエスコート、頼むぞ。結婚相手を真剣に探しているんだ」
話題を変えようと、舞踏会の話をする。
「え!?」
「まあ、少し前まで国内最強だったわけだからなかなか難しいだろうな。あまり強い女は好かれないだろ。でもシュタインといれば、少しは華奢に見えるだろうから……」
「リーゼ、待て」
少し焦ったような声で遮られる。シュタインの声は、ほんの少し掠れていた。
「リーゼの好みのタイプは、自分より強い男ではなかったのか?」
「は?」
何を言っているんだ?
シュタインを見ると、至極真剣な顔をしている。目の奥にはかすかな焦りも見える。
「俺は、貴女に勝って、聖冠騎士になった。この国に俺より強い男はいないんだ」
「それは、そうだが……?」
シュタインはずいっと身を乗り出してくる。片手をガーデンベンチの背に置き、後退る私に覆い被さるように、上から顔を近づけ覗き込んだ。
不満げに口をへの字にして拗ねたように言う。
「好みの男がエスコートすると言っているのに、他の男を探すのか」
「いやいや、シュタイン何を言っている。好みのタイプと結婚する事は別問題だろう?」
そう言って笑うと、シュタインはむっと、眉間にしわを寄せた。
「そんな事はない」
低い声でつぶやくように言う。
やれやれ、分かってないなあ。
「そんな事はあるさ。君も三男とはいえ貴族の人間、しかも当代の……最強の騎士だ。よりどりみどり選び放題だろう?」
「……それは、そうなのだが」
笑って諭すと、困ったように顔を顰めた。素直な奴だ。
シュタインの家は辺境伯で、東の国境に広大な領地を持つ。しかし、長男と次男がしっかりしているため、彼が家を継ぐことはない。幼い頃、騎士として身を立てられるようにと、父の元に預けられた。
父は彼の気骨を気に入り、直に稽古をつけた。シュタインは父の愛弟子の一人となった。私もその見学や補佐をする形で、ちゃっかり稽古をつけてもらった。
だから、シュタインが弟子入りした頃から、私たちは本当に姉弟のような関係だった。
「しかし、リーゼより強い男なんて、俺しかいない。だから、好みだろう」
好みの男、か。
こんな私だが言い寄られる事も稀にあった。そんなときは、「私より強い男が好きだ」と言ってはねのけていた。しつこい相手なら倒した。
そう考えてみると、最強のシュタインが好みの男、ということになるのか?
そんな馬鹿な。どんな理屈だ。
「あははは!」
「……わ、笑うな! わかったリーゼ、こう、考えてみてくれ」
笑っていると、シュタインは少し顔を赤くして私を覗き込んだ。低い声で内緒話をするように言う。
「俺は、家を継ぐことは出来ないし、騎士として生きていくしかない。だが、リーゼと結婚できれば子爵になれる可能性がある」
私は瞬きをした。
なるほど、そうかもしれない。父はシュタインを気に入っている。もしかしたらシュタインを婿に迎えて後継にと、本当にそう思っているのかもしれない。
「シュタインも男なのだな」
私はからかうように言ってやった。
「意外と地位とか爵位とか、興味あったんだ」
「っだから! 俺も……その……」
シュタインは何かもどかしそうに言いかけて、口をつぐむ。確かに、聖冠騎士という国内最強の称号は、そういう上昇志向の現れなのかもしれない。
しかしシュタインは家柄も良く、その上当代聖冠騎士だ。領地を持たない子爵家より、もっと上を狙えるはずだ。
そういえば、思い出した。訓練場に応援に来る令嬢の中に伯爵家の一人娘がいたはずだ。
「わかったよ、考えておく」
そう言ってやるとシュタインは見たこともない赤い顔をして私から目をそらした。
鷹のようだと言われる鋭い目が形無しである。
戸惑う子犬のように見えて、正装に合わせてきれいに整えられた濃い茶色の髪を、崩れないようにぽんぽんと撫でてやった。