30.改変された世界
その日の夕食時。今日は父も家に帰ってきていた。久しぶりに家族がそろった。
ノアもちゃっかり同席していた。
「お、パイシチューだ」
父は嬉しそうに、器に蓋のようにかぶせられたパイ生地をスプーンで割っている。
寛いだ格好は威厳が無くて、気取ったヒゲの武器屋のオヤジのようだ。事実上の軍事統括にはとても見えない。
父も母ももとは平民だ。母は気位の高さから貴族らしく振舞おうとしているが、父は家にいる時くらいはのんびりしたいと言ってきかない。
なので、父がいる時は、使用人が給仕することもない。一皿盛でまとめてテーブルに並べて、好きなように食べる。
いつもは楽しいひと時なのだが、今日はまだ心がささくれ立っていた。
アリシアの話だ。あの「お話し」がどこかにあるのだ。アリシアが考えたとは思えない。お話の作者は、我が家にうらみでもあるのだろうか。
「『聖女は森の城で眠る』って聞いたことありますか?」
「いや、聞いたことないな」
「何かしら、小説? お芝居?」
「小説、のようなのですが。今日アリシアが話をしていまして。何やら、私やシュタインの名前が勝手に使われているようなのです」
その場での怒りは収まったが、考えると暗い気持ちになってくる。実在の人物を当てはめていい内容ではないだろう。特に、魔王にされたシュタインと私。そんな風刺をされるほど、シュタインも私も恨まれているのだろうか。
「魔王が復活するようなシーンがあるのだとか……しかも、復活する魔王はシュタインなのだそうですよ、つい笑ってしまいました」
私が騎士団に一目置かれているのは女を使った結果で、シュタインの強さは魔王のよう、そして父が国を救ったのは嘘だと言いたいのだろうか。
「はは、それはすごいなあ」
苦笑する私に、父は笑いかける。そして諭すように言った。
「そんな顔するな、リーゼ。もし本当に出回っているのなら、それは本当のシュタインがそんなことをするはずがないからだ。だから『物語』として楽しめる。それはシュタインが信頼されているからだよ」
私は随分、つらそうな顔をしていたらしい。まるで幼い子に言い聞かせるような優しい声だった。
だって悔しいだろう。父の偉業やシュタインの人格がそんな風に否定されたら。
「ですが……魔王が復活するなどという話を広めるのは、やはり良くないと思うのです」
「それだって、復活するわけがないと思われているからだろう。それに、ない事を証明することは難しい。あの魔王は完全に消滅させたはずだが、似たようなものが出てこないとは限らない。危機感を持つと言う意味でも悪い事ではないかもしれないね」
そうかもしれないと思うが、理屈ではなく心がつらいのだ。それをどうしたら伝わるか。そんな風に思ったのかもしれない。
あまり楽しい話題でもないが、私はつづけた。
「その話の中で、私は随分と鼻持ちならない人間に描かれているようです。友人を虐め、魔王となったシュタインとともに、……黒い竜となって王都を焼くのだとか」
かちゃん、と、食器が触れ合う音がした。見ると母が青い顔をしている。
「お母様?」
「ああ、いえ、」
母は私を見つめてほっとしたようにほほ笑む。
「何でもないわ」
++
鏡に映る、豊満な胸と細い肩、白い肌の美女。
ああ、これは夢だ、と、気づく。
豊穣祭からたまに見る、森の城の夢。
しかし、起きるとその気分だけを残し、記憶は消えてしまう。なのに、夢の中ではこちらが本当の事のように思えるのだ。
もしかしたら、アリシアもこの世界の夢を見ていて、それを覚えていたのかもしれない。
森の中の城は、あまり日が入らない。
昼間でも、ランプ代わりに設置された、美しくカットされたルミナミュラーナの魔石が、静かに石造りの城を照らしている。
私は少し変わった形の豪奢なドレスを身にまとっている。これは社交界で流行中のデザイナー、ルシーダのドレスだ。
ウエストを絞り、脚のラインも美しく見せるシルエット。ハートカットの胸元は豊かな谷間を強調し、肩と背中は大きく露出している。
肌に溶け込むようなシャンパンゴールドの生地は、ネクタリスパイダーの糸状の魔石を織り込んでいて、それだけでくらくらするような香りがした。
細く折れそうな首の上に、上品な小さな顔と盛り上げたような髪。
左の薬指には、サンクティアの指輪。
「リーゼロッテ! ああ、やはりよく似合う」
髪の長いシュタイン……クラウゼヴィッツ卿が上機嫌で入ってくる。
「ありがとうございます。このような、高価で貴重な物を」
礼を言う私の声がうわずっている気がする。腹に力が入らないからか、それとも、この男が恐ろしいからか。
クラウゼヴィッツ卿は愛おしげに目を細め、まじまじと私を見つめる。
「よい、このドレスが世に出て、美しいと評判になったのは、其方を飾るためだったのだろう」
躊躇いもなく伸ばされた大きな手が肩に手がまわり、抱き寄せられた。
肩も背中も大きく開いているドレスだ。素肌に革手袋の感触が這う。手袋越しの温もり。
腕の中閉じ込められて、私は自らその胸にしなだれかかった。
耳に唇を寄せ、クラウゼヴィッツ卿は少し得意げな声で呟く。
「……あの男は処分した」
「まあ」
「もう煩わせる事はない。安心しろ」
それは、数日前に私が頼んだ事だった。王都から来た男で、私のことをとんでもない悪女であると噂を流したのだ。
その男が死んだとしても、すでに噂は広がっている。……逆に、あの男が死んだことで信憑性が増しただろう。
どこか他人事のようで、嬉しくも悲しくもない。でも、こうして、こういうべきだ。
私は上目遣いに見上げると唇の端を上げて控えめにほほ笑む。
「嬉しい。ありがとうございます」
「其方に何かをねだられるのは心地よい。他にはないか、何でも叶えてやる。そうだ、あの顔だけの男の皮でも剥いでこようか」
「いいえ、御手を煩わせることはありませんわ。それに以前の事は……忘れさせて下されば」
誘うような囁く声に、クラウゼヴィッツ卿は金色の目を細め、首筋に唇を落とした。
「あ……」
私は甘く、微かな声を出してみせる。それに気をよくしたのだろう、首筋を生暖かい湿った感触が這った。
恐ろしい大男が私の思うままに動くのがおかしい。濃茶のすこし硬い髪に頬を寄せるとくすぐったくて、私はくすくすと笑った。
こうして、クラウゼヴィッツ卿のお気に入りであれば……私はこの狭い世界の女王でいられるのだ。気に入らない人間は消し、心地の良いものだけにしてくれる。
……それは、「国で一番美しいと言われていた女」「剣聖の娘」であるモノを気に入っているからにすぎないのだろうけれど。
ここに来てから、大切に大切に閉じ込められ、この城から出る事もできないが、望むことはクラウゼヴィッツ卿が何でも叶えてくれる。
「ああ、其方は美しい。この城の……いや、この国のどのような絵より、彫刻より、宝石より……」
クラウゼヴィッツ卿は、ご機嫌よろしく、私を抱き上げゆっくりと寝台に向かう。
その腕は力強く、逃げられない絶望と守られている安心があって、どこか心地よさを感じた。
私をそっと寝台に横たえて、男は愛おしそうに髪を撫でる。
……私を捨てたすべてのものを、きっと彼は消してくれる。
その対価になるなら、この身など安いものだろう……
そう思って、何かを諦めて、目を閉じた。
以前にもこんなことがあったような気がする。この男の前で、何かを諦めて、目を閉じたことが。
あの時彼は、「こんなのリーゼではない」と言って泣いたのだ。
……あれ? 何かおかしい。
そうだ、私はこんな女ではない。男に媚びて、言われるままに望まれるままに振舞って……敵を自分で倒そうとも思わないなんて……
「どうした?」
急に身を固めた私を不思議に思ったのか、クラウゼヴィッツ卿が覗き込む。
その金色の目は確かに愛情らしきものが宿っていたが、言葉とは裏腹に思いやる気などはないようだった。お気に入りのおもちゃを見るような目。……何と答えても、私は逃がしてもらえないだろう。
背筋がぞくりと粟立った。ここにいては、取り返しのつかないことになりそうな気がする。
「震えているのか? ふふ、案ずるな。優しくしてやる」
獲物を捕らえた鷹のような、満足そうな瞳が細められた。
怖い。だれだ、これは。シュタインはこんなじゃない。
せっかく私をベッドに押し倒したのに、ぐしゃぐしゃの顔で泣いたアイツはどこだ。
「……こ、こんなのリーゼじゃないって、言ってくれたじゃないか」
恐怖に抗うように喉の奥でつぶやいたとき、ぐるんと世界が反転したような気がした。
++
「……っ!!」
目を開けると、自分の部屋のベッドの中だった。慌てて起き上がるがまだ外は暗い。
「あれ」
心臓が早鐘のようにドキドキと打っている。なんとか逃げられた、と、安堵して、はあ、と息をついた。
ん? ええと、なんだっけ。
今……何か取り返しがつかなくなるような……二度と起き上がれなくなるような気がして……無理やり目を覚ました、ような気がする。
……しかし……
私は自分の身体を抱きしめた。
……それまでは、……なんとも心地の良い夢を見ていた気がするのだ。




