3.紳士淑女と赤い薔薇
三か月が経った。
母の詰め込み教育のおかげか、落ち込む暇もなかった。
父がたまに心配そうに様子を見に来てくれたが、「たまには息抜きに稽古でも」など言おうものなら、母に死ぬほど怒られていた。剣聖も妻には勝てないのだ。
「あのリーゼロッテが剣を捨てたという印象が大切なのよ!」
と、母は力説する。
なるほど、騎士を辞め、心を入れ替え淑女になるならば、英雄の娘、貴族の一人娘、未婚の美女という肩書をフル活用できるはず。
……まあ、サイズはだいぶ大きく、すでに二十歳だ。行き遅れと言うべきだが、騎士よりは淑女の方が勝ち目はあるかもしれない。
淑女の動きは意外と何とかなった。立ち振る舞いはコツさえつかめばすぐに変えられた。伊達に二十年近く自分の体の使い方と向き合い続けていない。
優雅な体重移動、流れる扇子捌きは朝飯前だ。ダンスなど得意なほうである。
問題は……
「いてっ」
「痛いですわ!でしょう!?」
母にギュッと足先を踏まれ、「痛いですわ……」と、つぶやきなおした。
「剣があれだけ上手にできるのだから、針など可愛い物でしょう」
針とは。何なのであろう。
しかも布にくぐらせるのだ。針先がどこから出てくるかちゃんと予想しているのだが、なぜ外れるのだろう。
剣は大きいのだ。細身の剣を愛用していたが、自分を刺すことはまずない。
刺繍は淑女の嗜みと、こうしてちくちくやっているわけだが、これだけはどうもいけない。
幸いにも厚い手の皮、血は出てないが、刺しすぎてじんじんしている。
そこに、父が入ってきた。何やらそわそわしている。
「リーゼ、お前に客人だ」
助かった、刺繍の時間から解放されるかも、と、期待に胸を膨らませるが、母が父を睨む。
父は母にとって、娘を悪しき世界に引き摺り込もうとする悪魔なのだ。
「またですか? またシュタイナー?」
「また?」と、母は顔を顰める。
シュタインは、私が騎士を辞した後何度も訪ねてきた。
国王の護衛を行う聖冠騎士である彼の職場は王宮。そして我が家は父の仕事の関係で王宮の片隅にある。シュタインは暇さえあれば道場へ通い、ついでに私を訪ねてくるのだ。
だが、母に門前払いされ続けていた。
父に聞いたところ、シュタインは、私に女がやるようなことをやらせるなどもったいないと母に言ったらしい。
ああ、これはもう駄目だ。悪魔の手下ポジションである。
「ああそうだ……いや、違う、ええと、訓練ではないぞ……ええと、」
今日もやはり、シュタインが来たようだ。父は母の迫力に、しどろもどろで言い訳している。
「ほら、お前、舞踏会でのリーゼのエスコート役を探していただろう? それに誘いに来たと言っている」
「ええ!? ……エスコートは貴方がするものだとばかり……しかし、本当にシュタイナーが? あの子にエスコートなんて出来るのですか?」
「大丈夫だ、彼も一応貴族の息子だからな。リーゼとは息も合うだろうし。当代の聖冠騎士であるから注目度も高い」
ああ見えてシュタインは辺境伯の三男だ。長男、次男がしっかりしているので家を継ぐことはまずないだろうと、幼いころから父の元に預けられている。
母は、ふむ、と少し考える。そして父に告げた。
「……いいでしょう、お通しして」
私の意見は何も聞かれない。私のパートナーの話ではなかったのだろうか? まあ、聞かれても、どうぞとしか言いようがないのだが……
母に許可されてシュタインがやってきた。
何があるわけでもないのに正装だ。勲章はまた増えていた。私が唯一持っていた、聖冠騎士の勲章だ。
濃いブラウンの髪をこれまた綺麗に整えて固めて、まるで式典に出る時のようである。しかし何やら緊張気味で、金色の鷹のような目には戦いに赴く時のような覚悟が見える。
そのシュタインは、見惚れるほどに美しい一礼をすると、ふと、私を見て目尻を緩めた。
いつもの暖かい目にほっとする。
「ああ、リーゼ、やっと会えた」
「シュタイン、久しぶりだな」
立ち上がって迎えようとすると、母に見えないところを抓られた。
おっと、久々の弟弟子の顔に、淑女モードを忘れるところであった。
「ようこそお越しくださいました、シュタイナー・クラウゼヴィッツ様」
私はドレスの裾をつまみ上げて膝を折り腰を落とす。カーテシーというやつだ。
「え、っあ、ああ、ええと……」
それを見てシュタインはかあっと赤くなる。
照れているんじゃない! やっている私の方がよほど恥ずかしいのだ。照れられるとこちらがもっと恥ずかしくなる。
シュタインは気合を入れるようにフッと一つ息を吐き真顔になると、胸に手をやり、紳士らしく上品に頭を下げた。
「またお会いできて光栄です、リーゼロッテ・ヘルデンベルク嬢。どうか再会の証にこれを」
ばさっと取り出だしたるは、真っ赤なバラの花束。シュタインの耳も真っ赤になっている。
「ふっ」
「笑うな」
思わず吹き出しそうになると真顔で制止された。すまない。しかしあのシュタインがこうも格好をつけているとどうしても可笑しい。お前は泥だらけの肌着でタンポポでも持っている方が似合う。
「ありがとうございます。素敵だわ」
私も負けじと、できるだけ淑女らしく受け取る。
その紳士仕草に対抗しようと、気取って花にキスして微笑んで見せた。
「ぁぅ」
小さなうめき声。
シュタインは、さらに赤くなって口を押さえた。
……そんなに引くこと無いじゃないか。せめて笑え。
やるんじゃなかった……と後悔しつつ、私は侍女に花を渡す。
「……早速飾って頂戴」
わかっている、私だってバラの花よりタンポポだろう。
そう思ってシュタインを見るが、驚いたことにいたって真面目な顔をしている。真剣な瞳。赤面は根性で抑えたようだ。
私も負けていられないな。
「早速ですが、ヘルデンベルク嬢」
「リーゼで良くってよ、クラウゼヴィッツ卿」
「ありがとう、リーゼ。俺の事もどうかシュタインと」
「わかりましたわ、シュタイン」
なんなのだこの茶番は。シュタインが父の弟子になってからすでに十年。その期間本当の姉弟の様に過ごしてきた。今更呼び方の確認など、おかしくなってしまう。
「本日は、来週のパーティーでエスコートさせていただけないかとお願いに参りました」
きちんと礼儀正しく手を差し伸べるシュタイン。目の端で父母を確認する。
父は何故か得意げに髭を撫でている。
母は驚いたような顔でシュタインを見ていた。心なしかぽーっとしているように見える。
「お母様?」
つつくと、我に帰ったように慌てて頷いた。合格、のようだ。
母は感心したようにシュタインを見ている。母も父の妻だ、強い男が好きなのだろうか。
確かにこうしてみると、長身できりりとした色男と言えなくもない。
「ええ、喜んで」
差し出された手を見る。何度も掴んで引いては転ばせた腕。そして野山を駆けたときに繋いだ手。
その手にそっと手を置いた。シュタインの手はごつごつしていて硬い。
私の手はこの三か月、クリームを塗られパックをされ、大分柔らかくなった。
私の手の変化に驚いたのだろうか、シュタインは少し目を丸くして、こわごわと、壊れ物を扱うように、そっと手の甲に顔を近づけた。