2.淑女の始まり
「おーい、リーゼ!」
置いてあった私物を受け取るため、王宮に向かって石畳を歩いていると、シュタインが追いかけてきた。
「先ほどは良い試合だったな、これで俺の365勝364敗だ」
いつもと変わらない口調で、機嫌よく適当な数字を言う。シュタインにとっては、いつもの試合の一つだったのだろう。
「これで俺が、王国最強というわけだ。リーゼから追われる身になったと思うと、最高の気分だ!」
俯く私の頭上で、シュタインの嬉しそうな声と朗らかな笑い声が響く。いつもならほっとする優しい低い声が、やけに耳障りだった。
シュタインとは幼いころから何度も何度も手合わせをしてきた。
公式な剣術の試合では負けた事はなかったが、日常の組み手や半分遊びの手合わせも含めれば、勝敗は五分五分といったところだ。
組手でも剣でも力で押すシュタインに対抗するために、こちらは相手の力の流れを利用したり速さや隙をつく方法を考えたりと、あらゆる手を使ってきた。
しかし、体格の差、経験の差は広がるばかりで縮まらない。
この試合では、努力や工夫ではもうどうにもならないという現実が突き付けられたのだ。
先程の試合。
シュタインの剣が私の手元をすくうように迫ってきた瞬間、私は確かに反応できた。シュタインの狙いは外れたはずだ。それなのに。
ほんのわずかに剣先が刀身にあたっただけで、私のレイピアは手から離れて飛んで行った。
背後でカランカランと鳴る音は、暫く頭から離れそうにない。
その光景を思い出し、私はシュタインの目が見られないでいた。
できるだけいつも通りに返事をしようとしたが、声が喉に詰まって出てこない。
「お、ついに、リーゼも負けを認めたか? なあ、覚えてるか? ……約束、しただろう?」
仕方なく無視して早足に去ろうとしたが、シュタインは興奮気味に話しかけてくる。
この鈍感男め、察してくれ。
「リーゼ、俺さ……」
「……すまない、シュタイン。今日は一人にしてくれ」
私は吐き捨てるように何とかそう言うと、逃げるようにシュタインを置いて走った。
シュタインは追ってこなかった。
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帰宅すると、予想通り母がドレスを並べ、宝石を並べ、靴を並べ、うきうきと待っていた。
「約束は覚えているわね、リーゼ。聖冠騎士の間は騎士として認めるけれど、任期が終わったら淑女として、我が家を背負って立つと」
「……お母様、今日くらいは静かに休ませてくださいませんか」
「だめよ、私が何年待ったと思っているの! 一日も早く、その男のような振る舞いを修正しなければならないのですよ!!」
確かにそうなのだが、何だか気力が入らない。母の声もどこか遠くから聞こえているようだ。
「……」
「いいですか!? 我が家は新興の家、しかも男子がいないのです。婿養子か、あなたが継ぐか。どちらにしろ、先ずはお相手を捕ま……見つけなくては!!」
今の我が家は剣聖と呼ばれる父の威光で盛況だが、いつまで持つか。
私が継ぐなら相手は中途半端な貴族では駄目だ。後ろ盾になってくれるような……爵位を複数持っていて、子爵くらいは妻にくれるくらいの大貴族でなければ。
それなら、貴族の次男や三男に、婿に来てもらう方が簡単だ。私の子がその後を継げば血は繋がる。両親は満足だろう。
「世の中の殿方のほとんどは自分より強い女など好まないのです! あなたはもう最強という称号を手に入れてしまったのですよ!」
その言い方だと、私より強い……シュタインなら今まで通りでいいのだろうか。
ああ、ちょうどいいではないか。あいつも貴族だし。婿養子の話も耳を貸しそうだ。
何とも投げやりな気持ちで思う。
……まあ、あいつは弟のようなものだし、シュタインだって私などより、もっと守り甲斐のある女が良いに決まっている。
「さあ、早くドレスに着替えて! 剣ができるのだから、ダンスができない道理はないわ!」
そう言って、母はパチンと扇子を鳴らした。 それを合図に侍女たちが一斉に動き出し、私はあっという間に連行された。
あれよと言う間に着せられたのは、大きく胸元が開いた赤いドレス。高いヒールの靴。
先ほどまで聖冠騎士のサークレットを結い付けていた髪は、丁寧に梳かされて艶が出ている。花を模した宝石が飾られ、華やかさを添えていた。
侍女がほうっとため息をつく。
「お美しいです、お嬢様」
「胴と頭にだけ鎧を付けたような感じだ……急所が隠れていないじゃないか」
つい、文句を言ってしまうが誰も取り合ってくれない。
立ち上がり、姿見の前へ。
……我ながらなかなかの、美女である。
豊かな金髪、深い青い瞳はは母譲り。
今まで悩みの種でしかなかった大きな胸のおかげで、逞しい胴回りが目立たない。きちんと化粧をしてみれば、まあなんと美しいことか。
しかし、背が高い。これはどうなのだろう。侍女が小さいのだろうか。ヒールのせいだろうか。
「さすがお嬢様、安定感がおありですわ。ただ、すり足ではなくて天から吊られたように優雅にお立ちなさいませ」
「こう?」
「さようでございます」
ヒールは高く歩きにくい。しかし、体重のかけ方やバランスなどを考えればどうにかなった。自分の身体を操るのは得意なのだ。
「……あと、のしのしではなく、しずしずと」
「なるほど、こんな感じかな」
試しに頭に本を載せて、すり足ではなく、のしのしでもなく、すいすいと軽やかに歩いてみる。
「あまり速くお歩きにならないように」
「わかった」
新しい体術? を覚えるようで少し面白くなってきた。
なんだ、意外と何とかなりそうだ。
こんな格好をするのは何年ぶりだろうか。デビュタントも男装で逃げ切ったので、きちんとしたものは経験がなかったかもしれない。
この国では貴族の子供は十五になると国王に謁見する。その後の舞踏会は、紳士・淑女の仲間入りの儀式のようなもので、デビュタントといわれている。
私は淑女になるのを避けるために、直前で男友達と衣装を交換し、紳士の装いでしれっとやり切ったのである。おかげで社交界ではおかしな令嬢と噂になり、結婚の申込などは全くなかった。
そして、その年から剣術大会に出場し始めた。
母はその一件で諦めたらしい。ついに何も言わなくなった。しかし、王宮騎士団にはどうあっても入団できないとなったときに、約束させられたのだ。
二十までは聖冠騎士への挑戦を許す。
もしなれたら任期中は騎士でいることを認める。
それが終わったらヘルデンベルク家の長女としての役割を全うすること。
「さあお嬢様、奥様がお待ちです」
侍女に促され、私は大きく息を吐いた。
──こうして、私の淑女教育が幕を開けたのである。
2025/9/14 シュタインの台詞を足しました。