097.アッシュグレーの天使
「新しいメニューを試してみますか?」
気がつけば橘香さんがまたそばに立っていた。
手には細長いグラス。茶色い泡だった液体が入っている。
「それは?」
「カフェシェカラートです。悩める七州さんに店長からおごりだそうです」
橘香さんがグラスをテーブルに置く。
「どうぞ」
見たことのない飲み物。シェカラートってなに?
しばらく眺めていると、橘香さんが斜め前でにこにこしている。
早く飲め若造、という圧を感じる。
恐る恐るひとくち飲んでみる。
細かく砕かれた氷にエスプレッソの独特の苦味とシュガーシロップのほのかな甘さ。
(おいしい…)
「いかがですか?」
「おいしいです」
「それはよかったです」
アッシュグレーの髪を持つ天使の笑顔が眩しい。
「次は水菜月さんと飲みに来てくださいね」
晴れた気分で飲める時に一緒に来たいけど、そんなこと言ってたらいつになるのやら。
でもこれは水菜月の好みにも合う気がする。
甘党とか言ってもだた甘いものが好きなわけでもなさそうだし。
◇
さらに色々聞いてみる。
「生まれ変わりとか、前世とか来世とかは信じる方ですか?」
「どちらかというと、信じない方ですね」
「わたしが生まれる前はわたしがいない世界がずっと続いていたわけで、わたしが死んだ後はわたしがいない世界がまたずっと続くだけですから」
「でもあればいいなとは思います」
「それはなぜ」
「やれなかったことや叶わなかったことを、諦めるのは辛いですよね。いまは無理だったとしても来世で叶えようと思えたら、少しは気が楽になりませんか?」
「一度きりの人生ではなかったとしたら、もう少し気楽に生きられるのでは、とも思います」
「だけど、これは危険な考えになり得るかもしれません」
「危険な考え?」
「自殺を正当化してしまうかもしれないので」
いまの境遇に絶望した場合に、次があるのであればそれを選択する動機になるのではということ。
生まれ変わったとしても過去の記憶がないのであれば、そうでないのとなんら変わらないのかもしれないけれど。
「自殺を考えたことは?」
「ありませんよ。いまでも十分幸せですから。それはとても恵まれたことだと思います」
そう言えるのは確かにその通りだろう。
ただ生きているだけでも、多くの人にとって楽なことじゃない。
「将来の夢はありますか?」
橘香さんならきっとスコープドッグとかバルキリーを作りたいなんて言わないはず。
「夢というか、やりたいことは…小説を書いてみたいですね」
こういうのを期待していた。
「それはなぜ」
「人の心を揺らすものを作りたくて」
「音楽とか絵画とかいろいろ手段はありますけど、文章を書くのが自分には一番向いている気がして」
「言葉は不思議ですよね。文字なんてただの線の組み合わせなのに、それを並べたものを見るだけで喜怒哀楽を感じるなんて」
「知らない国の言葉であればそれを見てもなにも感じないのに、理解できる言葉であれば心が動くんですよね」
「自分が感じたこと考えたこと経験したことをもとになにかを書いて、それで人の気持ちを心地よく揺らすことができたら、なんて思います」
うちのロケットガールどもとは違うまろやかな話が聞けて心安らぐ気分だ。
橘香さんならきっと優しく穏やかな言葉を紡いでくれるだろう。
「どんな感じの物語とかは?」
「そうですね…」
人の心を揺らすって言ってたな。
となるとヒューマンドラマ系で、純愛物か友情とか家族愛とか。
「銀河系の支配を目論む帝国軍とそれに抵抗する同盟軍の戦いなんてどうでしょう?主人公たちが覚醒してサイオニクス戦士になるとか。迫力のある壮大な戦闘シーンなんて書いてみたいです」
…え。
「七州さんは、なにか夢はありますか?」
当然返ってくるこの質問。
だけど将来のことなんて、ほとんどまともに考えたことがなかった。
昨日の延長が今日で、さらにその延長が明日だった。
その繰り返し。
「まだこれがしたいと言えるものはなくて…ただ平穏無事に過ごせれば、なんて消極的なことしかいまは思い浮かばないです」
橘香さんが微かに笑う。
「だけどそれは、当たり前のことではないですよね。心穏やかに過ごせる時間というのは、贅沢なものだと思います」
それが当たり前であって欲しいと思う。
心穏やかでない方が普通なのであれば、多くの人が生きていくのを辛く感じてしまう。
でもいまはそれが贅沢なのかもしれない。
「『未』って漢字があるがありますけど、どんな意味ですか?」
「未定とか未確認とか、否定の意味だと思います」
「じゃあ、未来は来ないんですか?」
「来ますね」
「未来はこれから来るんですよ。来ないんじゃなくて」
「『未』という漢字はこれからの希望と期待の意味なんです。否定の意味ではなくて」
これから来るもの。
来るんだろうか。ぼくたちにも。明るい未来が。
そのためにいま努力するのだけれど。
「お二人をうらやましく思うこともありますよ」
「うらやましい?」
「今日だって七州さんは水菜月さんのことを真剣に考えていますよね?」
「ええまあ」
「わたしにはまだそういう人がいないので」
橘香さんといい玲奈といい、世の男どもはなにをしているのだろう。
真剣には考えている。
水菜月だけのことじゃなく、ぼくのこともそれ以外のことも含めて。
なので自分のためでもある。
「幼いことの記憶はありますか?」
「おぼろげには」
「その記憶に実感ありますか?」
「あまり感じないですね。まるで植え付けられたもののような印象はあります」
やはりみんなそんな風に感じているのか。
「それに違和感は?」
「遠い昔のことだからそのようになるのかと思っていました」
「過ぎ去ったことはしだいに忘れていきますから。新しい記憶に上書きされてなにが本当にあったことなのかもわからなくなってしまいます」
そうだとしても、過去は忘れてしまうものだというのは寂しいのでは。
「過去の記憶は薄れてはいきますが、確かにあったことを忘れたくはないです」
「もちろんわたしもそうです。ですが人は過去に生きるのではなく、現在と未来に生きるんです」
「それでもいつまでも残るものがあります。それはきっと未来に必要だからです」
橘香さんの口調にいつになく力が入る。
「必要なことまで忘れてしまったら…」
「思い出せるはずです。何度でも」
「それが本当に必要なことなのであれば」
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