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箱庭の火の鳥  作者: ゆくかわ天然水


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096.葛野橘香

「今日はお一人なんですね」


橘香さんがオーダーを取りに来る。

今日はいつもより早い時間帯に一人で来ていた。お店も空いている。

本とパソコンを開いて勉強をしている学生らしき客が二人ほどいるだけ。

壁掛けの大型テレビにはサッカーの試合の様子が流れている。


今日はいい天気。

窓からは街のあちこちに、花びらの散り始めた桜の木が並んでいるのが見える。


「水菜月さんとはなにかあったのですか?」

「別に喧嘩したとかじゃないですよ。この前も一緒だったし」

「そうでしたけど、お二人ともいつもより元気がないように見えました」


前回来たときは、ほとんど会話していなかったと思う。


「身近で悲しいことがありまして…」


橘香さんは両手でメニューを胸元に抱いてぼくの方を見ている。


「最近ニュースになっていた件ですね。玲奈さんが行方不明になったという…このお店にもよく来てくれていたのに」

「ご存知でしたか」

「ニュースで見てすぐにわかりました。身近な知り合いであんなことがあるなんて」

「水菜月は親しい友人があまりいなかったし、玲奈がいなくなってしまったショックが大きいみたいで…」


玲奈を亡き者にしたのが水菜月本人で、玲奈があの一連の四角く切り取られ事件に関係していたらしいなんてことはとても言えない。


「それで元気がなかったんですね」

「学校でも不安を感じている人は多いです。彼女にどうしてあげればいいのかずっと考えていて…」


少し間をおいて橘香さんが答える。


「お二人の関係であれば、ただそばにいてあげるだけで十分だと思います。七州さんが水菜月さんのことをいつでも気にかけていることが伝われば、それだけでいいのでは」


だいぶ前に同じような助言を玲奈からもらった気がする。


「閉じこもっていると気持ちも沈みますね。二人でどこかにお出かけするのはどうですか?深く考える必要はないと思います」


「気の利いた言葉などもなくて大丈夫です。どこか特別な場所とか、なにかサプライズなども不要です。静かな二人の時間が作れればそれでいいので」


一緒にそばにいるだけで安心してもらえるのなら…だけどぼくは彼女にとってそれほどの存在だろうか。

そんな自信のない考えも脳裏に浮かぶが、橘香さんの提案に乗ってみることにする。


「そうですね。彼女をどこかに誘ってみましょうか」

「海を見に行くのもいいかもしれませんね。いまの時期なら、静かであまり人もいませんよ」


中央駅から列車で30分程ほど行ったところに海水浴場があった。

まだ肌寒いこの時期であれば、橘花さんの言う通りおそらく空いている。


いつもの騒がしい街を離れて静かな海辺、というのは自分的にもいい気がしていた。

ここ最近のざわつく気分を落ち着かせることができるかもしれない。


なんてことのない近場の日帰り小旅行。

それでも水菜月と共通の記憶を作れるのはうれしく思えた。



「ご注文はいつも通りで?」

「それとあとチョコタルトも」


アッシュグレーのボブが去っていく。

ちょっと髪が伸びた気がする。


誰もいない向かいの席が寂しく見える。

以前はいつも一人で来ていたのに。

いまはもう誰かと一緒にいるのが普通になっていた。


窓の横にはアイボリー色の鉢に植ったパキラの木。

平和な静かな時間。なのに。

心の底でずっと、なにかが波を立てていた。



クラフトジンジャーエールの入ったグラスとチョコレートタルトの乗った皿がやってくる。


「橘香さんからみて、水菜月とぼくってどんな風に見えますか?」


少し間をおいて、


「とてもお似合いですよ」


笑顔でそう言ってはくれるのだが、


「あの、そういうことではなくて…」


橘香さんはすこし困った表情。


「なにか気になることはないかってことですね」

「はい」

「…お二人の間になにか障害になるものがあるのはわかります。おそらく人に説明するのも困難なことではないでしょうか」


やはり気づいていたんですね。


「それが何なのかわたしにはわかりませんし、知るべきことではないとも思います。ですが…」


ですが?


「お二人ならそれを乗り越えられると思います」

「それはどうして?」

「どうしてでしょうね。勘なのか、それとも希望なのか」


「だけど不思議とそこに疑問は感じません。きっと大丈夫です」


根拠のない言葉のはずなのに、安心を感じるのはなぜだろう。


「ぼくもそう思っていました」


返事にも根拠がない。

そんなもの、必要ないかもしれない。


「なら心配はいりませんよ」



「橘香さんはここでアルバイトして長いんですか?」

「大学に入学してからなので、もうすぐで1年ですね」

「なぜこのお店を?」

「一番の理由は窓から見える景色がきれいだからです。特に夕暮れの、次第に昼から夜になっていく曖昧な時間が」


「日によって空も海も街も違って見えるんですよ。季節とか天気とかでも」


「太陽が地平線の下に沈んだあとも、しばらくの間は西の空の雲は地平線の向こうから照らされるんですよね。それがきれいで」


「今日もいい天気ですが、少しかすんでいますね。柔らかい春の空です。秋から冬にかけては透き通った深い青色の空になるのですが」


「窓から見える景色はとても平和です。こんな時間がずっと続けばいいのに」

「なにか不安を感じることがあるんですか?」

「よくわからない事件がたびたび起きているじゃないですか。漠然とした不安ですが…わたしたちが知らないなにか大きな、おかしなことがあるのでは…なんて思うことはあります」


大きなおかしなことは、起きている。

しかも悪化している。


なにかがおかしいことに、みんな気づき始めている。

以前からたびたび起きている行方不明事件もそうだが、しばらく前に起きていた四角く切り取られる事件なんて、あきらかに異常だ。


崩壊自体には気づいていなくても、ときどき記憶がおかしくなることに勘づいている人は少なからずいるはずだ。

このままだといずれ大きな騒ぎになるかもしれない。


窓越しに彼方に見える街の中心部。

片方だけになったツインタワーが佇んでいる。

これだけのことが起きているのに、むしろ人々は冷静を保っている方だと思う。



橘香さんにいろいろ質問をしてみる。


「未来に不安を感じますか?」

「未来はいつだってわからないものです。自分たちの前には道なんてないんですよ。自分たちの後ろに道はできるんです」



「愛情…とは何だと思いますか?」

「誰かのために傷付くことができることだと思います」


誰かのために、傷付くこと。


「七州さんにも、そんな誰かがいますか?」


これまでにそのような経験はなかったと思う。

自覚している限りでは。


「自己犠牲ということでしょうか」

「犠牲ではありません。人を思いやることから生まれる強さです」



「…親しい人が亡くなってとても悲しい思いをした場合、もしその人についての記憶を消してしまえば、苦しむことはなくなります。そんな選択はありでしょうか」

「そうする人はまずいないでしょう。七州さんはそれを選びますか?」

「ないですね」

「その人のことを忘れないために、悲しみに耐えるのも愛情でしょうね」



「生きることとは?」

「それは…まだわたしにはわかりません」


橘香さんが窓の外に視線を向ける。


「だけど、悩みが多い人ほどその答えに近づけるのではないでしょうか」



「大人になるということは?」

「失敗を積み重ねること」

「それは残念すぎるのでは」

「学びを得るってことですよ」



「わたしからも質問していいですか?」


橘香さんは両手を体の前で重ねてぼくを見ている。


「いいですよ」


もちろん断る理由なんてない。


「もしこの世界があと一週間で消滅するとしたら、どうしたいですか?」


この質問に人々はどう答えるだろうか。

有り金を全て使い切って遊ぶ?

行きたかったところへ旅行する?

仲のいい人達と最後の時間を過ごす?

お世話になった人たちにお礼を言いにいく?

それとも逆に恨みのある人たちに復讐しに行く?


「たぶんなにも変わらずいつも通り過ごして、最期の時を迎えると思います」


気の利いた答えが考えつかなかった。


「ではその最期の時に、誰と一緒にいたいですか?それとも一人ですか?」

「それは…」


答えにつまる。


「もし誰かの顔が思い浮かんだのなら、その人を大切にしてあげてくださいね」


橘香さんは柔らかい笑顔を残してアッシュグレーを揺らしながら去っていった。



最期の時に誰と一緒にいたいか。

これは一人では決められない。その誰かもそう望んでくれなければ。


もしこの世界があと一週間で消滅するとしたら。


これはきっとたとえばの話ではない。

あれ以降は大きな異変は起きてはいないが、いずれさらに深刻ななにかが起きる。


それがわかっていたとしても、なにも変わらずいつも通り過ごす以外にやれることはないのか。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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