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箱庭の火の鳥  作者: ゆくかわ天然水


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088.恋心

恋と呼ばれる感情があることを、知ってはいた。

わたしの中にある記憶にも、それにまつわる知識は少なからずあった。

だけどそれはとても理解の難しいものだった。


明確な根拠も合理性もなく、特定の個人の存在が原因となって感情が強く揺さぶられるもの。

それは危険で不条理なものに思われた。


しかし現実世界の人間たちはそれに高い関心を持ち、好ましいものとして追い求め、それが得られて感情が満たされることを幸福と考えている。


わたしの中にある知識ではそのような理解になっていた。



わたしが初めて彼と出会ったのは、もう遥か昔のこと。

本来はこの世界に存在する多くの人の一人に過ぎなかったはず。


だけど彼はわたしにとても親切で優しかった。

普通の人とは違うわたしを受け入れてくれた。

炎の翼を見せた時は、最初は驚いていたけれど、わたしの一つの姿として理解してくれた。

誰にもわかってもらえないと思っていたのに、そうではなかった。


いつしかわたしは彼と交流することに喜びを感じるようになり、もっと彼のことを知りたいと思うようになった。

わたしのことももっと知って欲しかった。

二人の共通の記憶をたくさん作りたかった。



再び会った彼がわたしについての記憶を失っていることに気づいた時、それまで経験したことのないような強い悲しみを感じた。


それがある種の感情が原因であることを知ったわたしは、それは危険で有害なもののように思われた。

理屈の上ではそれは正しいことだったかもしれない。

しかしわたしの中でその考えを上回るものが、すでに生じているのもわかっていた。

そしてそれはもう抑えられるものではなくなっていた。


わたしは彼に恋をしていた。


だけどこの悲しみは、何度も繰り返された。


他の友人の記憶は残るのに。

わたしについての記憶は維持されなかった。

そのような設定になっていた。

なぜだかはわからない。

この世界を作った誰かが、彼とわたしの関係は必要のないものとしていたのかも知れない。


それをどうにかしたいのだけど、でも、どうすれば…。



再び崩壊が起きる。


また出会った彼はいくらか過去を覚えていて、積極的にわたしを理解しようとしてくれた。


—— きみのことをもっと思い出したいし、知りたいし、覚えていたい。

—— 街に出でよう。ぼくとデートしてよ。


正直な気持ちを伝えるのはあまり上手じゃないけれど、とてもうれしかった。

断片的な記憶であっても、彼は以前のようにわたしを気遣ってくれた。


この感情をいくらか理解できるようになっていたのかもしれない。

否定的な感覚は薄らいでいた。


だけどこの感情そのものが幸せなものというよりは、感情を増幅させるもののように思えた。

うれしい時は一層うれしくなり、悲しい時は一層悲しくなる。

つらい気持ちも増幅される。


現実世界の人たちも、この揺れる気持ちにずいぶん惑わされたようだ。

そのような知識も記憶の中になぜかあった。


異性に興味を持つのは、生物学的には繁殖に必要だからということになるだろう。

だけどそれなら性欲があれば十分のはず。

この曖昧で捉えどころのない、不安定で扱いづらい心理はなんなのか。


孤独は癒せるかもしれない。

一度は自らこの世界を去ることを考えた。

それを思いとどまったのは、彼がいたから。


あの時なぜわたしがひとりで街を彷徨いそして泣きじゃくったのか、彼が聞くことはなかった。

わたしはそれを聞いて欲しかったのか、聞かないで欲しかったのか。


それはいまでもよくわからない。聞かれても全ては答えられない。

だけど聞かれないのは、寂しく思うこともあった。

めんどくさい人間だろうか。


だけど、そんなことを考えられるのは、話す相手がいるから。

以前のようにひとりだったら、聞かれたらどうしようなんて考えることもなかった。

それだけでも、わたしは少しだけ、心の中に豊かさと暖かさを得られたんだと思う。


孤独な心は、それはそれで気楽かもしれないけれど、冷たく乾燥していた。

心を通わせることができる人がいれば、それは春の日の陽だまりのようなもの。

静かにきらめいて、柔らかく暖かい。


それを実感できるのが、感情を持つ意味だったのだろうか。



「桂川水菜月さん、ですね?」

「…はい」


人通りの少ない校舎裏の小径。日もかげり始める頃。

わたしは一人の女子生徒に声をかけられた。

話をしたことはなかったけれど、知っている人だった。

北山くんの『彼女さん』。


人懐っこい顔に似合わない睨むような目。

だけど、怒りよりは不安と戸惑いの表情。

なぜ声をかけられたのかはわかっていた。

いつかこういう時が来ることもわかっていた。


「少し、お話がしたいです」

「…わたしも、そう思っていました」


恋敵と言うのだろうか。


空き教室で大沢さんと向かい合った。


「ななく…北山くんとは、仲がいいんですか?」

「彼には話さないといけないことがあって、それを時々聞いてもらってはいるわ」

「それはどんなことか、教えてもらってもいいですか?」

「ごめんなさい。それは個人的なことになるので話せないけど、でもたぶん、大沢さんが、その、気にかけなきゃいけないようなことでは…ないと思う」


正しい答えではなかった。

大沢さんの表情が一段と険しくなる。


「…わたしは彼とは親しくしたいと思っています。ここでいう親しいと言うのは友人や同級生という意味ではなくてです。なので、あまり必要以上に彼と話したりはしないで欲しい」


わたしの彼に近づかないで。


いつか感じた視線を言葉で伝えられた。予想していたことではあったけれど。

でも引くわけにはいかない。わたしも彼が必要だった。それも大沢さん以上に。


「わたしにとって必要であれば、彼とは会うし話もするわ。大沢さんは恋愛的な意味で言っているのだと思うけど、それはわたしたちではなくて彼が選ぶことじゃないかしら」


宣戦布告をした。

大沢さんの目に敵意が宿り、握りしめた両手が微妙に震えているのがわかる。


彼女からしてみれば、突然現れたよくわからない女に彼を取られようとしている、ということになるだろう。

だけどそうじゃない。わたしはもっとずっと前から彼を知っている。

後から現れたのは大沢さんの方だった。


「…負けないから」


彼女はそう言って、夕陽の小径を去っていった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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