087.思い出を消さないで
もうすぐ来る。急がなきゃ。
でないと、彼の記憶がまた消えてしまうかもしれない。
いまでもわたしのことは、ほとんど忘れてしまっているはず。
わずかに残っているものも失ってしまわないように。
いた。横断歩道の向こう側。
信号が青になる。
わたしはまっすぐ彼に向かう。彼もわたしに気づいたようだ。
だけど彼はきっと、わたしが誰なのかはわからない。
すれ違いざまにその腕を掴んでわたしは叫ぶ。
「目を閉じてっっ!!」
街が一時的に消滅する前に、火の粉で彼を包み込む。
間に合った…。
けど、
「きみは…だれなの?」
やっぱり覚えていない。
また一から説明しなきゃ。
わかってはいるけれど、毎回打ちのめされる気分。
そしていつも不安になる。
彼はまた以前と同じように、わたしを受け入れてくれるだろうか。
次第に外部世界からの干渉が激しくなっていく。
崩壊と再起動は突然やってきて、この世界と人々の脳裏をかき乱す。
その記憶も思い出も、手のひらに舞い降りた雪のように消えていく。
わたし一人でそれをどうにかしないといけない。
とても手に負えない、無茶なことのようにも思えた。
だけどわたしはどうしてもそれを守りたかった。
そうしなければ、わたしはまた、自分で自分を消そうとしてしまうから。
◇
自分の本当の姿も役割も、誰にも話すことはできなかった。
やっていることも隠し通すしかなかった。
しかもそれは、罪のない人格を消すこと。
なんの迷いも感じずにやれることではなかった。
たとえそれがこの世界の害になる侵入者だとわかっていたとしても。
わたしが心を持たないただの機械であれば、苦痛を感じることもないのだろう。
ただ与えられた役割を期待通りに果たすことができただろう。
しかしわたしにも人格が与えられていた。人の心があった。
わたしのやることは、この世界を守ること。
この世界に生きる人々の生活を守ること。
たとえ生成された世界あったとしても、実体のないものだとわかっていたとしても、そこには笑顔があった。
平和に幸せに暮らす人々がいた。
それはやはり、守るべきものだと思っていた。
正しいことやるべきことをやっているのだと、信じてはいたけれど。
それでも、心の呵責は抑えられるものではなかった。
いつしか心をすり減らし、絶望を感じるようになった頃、わたしはあることに気づいた。
いつものように侵入者の一人を削除した時のこと。
自分の長い髪の先の一部が、切り取られたようになくなっていた。
うまく制御しきれなかった火の粉が、誤ってそれを削除してしまったのだ。
これは驚きだった。
わたしの火の粉はわたしの一部のように捉えていたが、そうではなかった。
それはつまり、自分自身を削除することも可能、ということだった。
生き続けることに希望を見出せなくなった者にとって、これは危険な誘惑となった。
◇
胸の痛む日々が続いた。
これは比喩的な表現じゃない。本当に胸元が痛んだ。
締め付けられるような、食道が焼かれるような。
行くあてもなくわたしは、冬の夜の街を歩いていた。
まだ春は遠く小雪が舞っていて、吐く息は白い煙となって視界を漂う。
どこまでも続く大通りの光のイルミネーション。
亡くなった人々の鎮魂のために、この時期に毎年行われるイベントだった。
光のゲートが幾重にも連なって、トンネルのようになっている。
そこを行き交うたくさんの人たち。
楽しそうに談笑しながら歓声をあげながら、友人や恋人と寄り添っている。
わたしは一人だった。
いまだけじゃない。
これまでもずっとずっと一人だった。
きっとこれからも、一人なのだろう。
だれもわたしを見ていなかった。
どの瞳にもわたしは映っていない。
だれの意識の中にも、わたしはいない。
この世界の人々の中で、わたしの存在はあってないようなものだった。
このまま闇の中に溶けるように消えてしまうのが、最善の選択のような気がしていた。
わたしがいなくなったとしても、きっと誰も気にも留めない。
この世界を作った誰かが、わたしの代わりをまた作るだろう。
人の心を持ってしまったわたしは、きっと失敗作だ。
それを持たない機械のような存在が、わたしの後を継ぐのだろう。
そしてそれが、この世界を守る。
わたしより、ずっとうまくやれる。
なにも気にすることはない。ただ消えてしまえばいいんだ。
どこか人目のつかないところで、終わりにしようか。
◇
「…桂川さん?」
喧騒の中で、わたしの名前を呼ばれたような気がした。
気のせいだろうか。
こんなところでわたしを見つける人なんているはずがない。
心を病んで幻聴まで聞こえるようになってしまったのか。
「あ、あの…」
また声がした。確かに聞こえた。
どこかで聞いたことのある声。
立ち止まって振り向くと、そこには見覚えのある男の子がいた。
少し戸惑ったような顔で、遠慮がちにわたしを見ている。
「覚えてないかな?同じ学校の北山です。何度か会ったことあると思うけど…」
北山七州くん。知っている。
それほど目立つタイプじゃないけれど穏やかで思慮深くて親切で、女の子たちからは安心できる、男の子たちからは信頼できる、と言われて密かに人気のある生徒だった。
わたしとは、違う存在。
どこにも馴染めないわたしとは、根本的に違う。
わたしは呆然とした表情をしていたと思う。
彼に視線を向けつつも、なんて答えればいいか言葉が見つからなかった。
「顔色が良くないみたいだけど大丈夫?気分悪くない?」
彼は不安そうな顔でわたしを見ていた。
わたしは彼に迷惑をかけていると思った。
この場を去ろうとしたが、足が動かない。
(なぜわたしに声をかけるの?あなたにとって何の意味もないことなのに)
これほど間近で誰かと目を合わせたのはいつ以来だろう。初めてかもしれない。
彼の瞳にはわたしの心の底まで映っているような気がした。
「あ…」
声が出ない。言葉が出ない。
(わたしを心配してくれているの?どうしてわたしを?)
感情と涙が溢れてくる。止まらない。止められない。止めたくもない。
まなじりからこぼれた液体が、頬を伝いあごから滴り落ちていくのがわかる。
彼の困惑した表情が、滲む視界の向こうに見える。
わたしは人目も憚らずに、大声を張り上げて泣きじゃくった。
そのあとのことはよく覚えていない。
わたしが泣き止むまで彼はそばにいてくれていたと思う。
自宅に帰った後は着替えもせずに、そのままベッドに倒れ込むように眠りに落ちた。
◇
彼はそれ以降、たびたび連絡をくれるようになった。
だけどまだ、気軽には会話できなかった。
学校で見かけても、こわばった表情で挨拶するぐらい。
仲良くなりたいと、思ってはいたけれど。
同性の友達さえいないわたしに、いきなり異性の友達というのは無理があった。
それでも少しずつ話せるようになった。
初めてあの高台のカフェに行ったとき、わたしはひどく緊張していた。
男の子と二人でそんな店に入るのは初めてだったから。
店員さんがオーダーを取りに来る。
アッシュグレー色の髪をしたきれいな女の人。
わたしたちよりも少し年上だろうか。
「お伺いしましょうか?」
落ち着いた穏やかな声に、柔らかい笑顔。
大きな窓から差し込む静かな午後の光が、それを優しく包んでいるような感じ。
天使のような、という言葉はこういう時に使うのだろうか。
わたしにも、あんな笑顔ができたらいいのに。
◇
たびたび二人で会うようになり、その頻度も多くなっていった。
彼といると気持ちが和らいだ。彼と過ごす時間は楽しかった。
消えてしまいたいなんてことは、考えなくなっていた。
もっと一緒にいたいと思うようになった。
きっとなにかが彼をわたしに引き合わせてくれたのだと考えた。
わたしのことも話した。
人とは違う能力と記憶を持つこと。人とは違う役割があること。人とは違う姿があること。
彼はわたしの話に最初は驚いていたけれど、その後も変わらず接してくれた。
それでもわたしは、彼に全てを話すことはできなかった。
◇
服装にも髪型にも無頓着だったわたしに、彼はもっとお洒落してみたらどうかと提案してきた。
—— きみはとても素敵なんだし、きっともっと明るい気持ちになれると思う。
彼はわたしに小洒落た小箱を手渡した。
中に入っていたのは、三日月の形をした銀色のピアス。
光をきらきら反射してとてもきれい。
人からの贈り物なんてこれが初めてだった。
うれしさという感情。これまでのわたしには無縁だったもの。
だけど、こんなにかわいらしいものが、わたしに似合うだろうか。
彼はわたしを名字ではなく、名前で呼んでくれた。
—— 水菜月。いい名前だね。音の響きというか。
それまで名前を褒められたことなんてなかったし、名前で呼ばれたこともなかった。
それなのにわたしは、なぜか気恥ずかしくて、彼を名前で呼べなかった。
◇
遠いあの日の彼は喧騒の中で、なぜわたしに気づいてくれたのだろう。
会ったことはあるけれど、それ以上の接点があったわけではなく。
名前と顔は知っていたけれど、二人だけで話をしたことはそれまで一度もなかったと思う。
あの場所ですれ違うこと自体が、思いもよらないことだったのに。
自失していたわたしに、彼はなぜ声をかけてくれたのだろう。
あの時のわたしは、思わず彼を避けようとしていたのに。
彼はそれでもわたしを気遣ってくれていた。
あのときのことは、彼にとっては取るに足らない些細な話だったのかもしれない。
たまたま知っている人間を見かけて、気分が優れなさそうだから声をかけてみただけ。
そしたら大声で泣き出したから仕方なしに付きあっただけ。ただそれだけのこと。
そうだったとしても、わたしにとっては忘れられない出来事だった。
わたしにとっては、歩む道を変えた出会いだった。
そして初めての崩壊が起きた。
再会したとき、彼はわたしを覚えていなかった。
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