078.年度末の研究発表会
うちの学校にも講堂があった。
それもかなり立派なのが渡り廊下の向こうに鎮座している。
本校の卒業生でもある著名な建築家の設計らしく、帆船の帆か貝殻または甲殻類を彷彿させる象牙色の独特の形状は、高コストなのとその実現性への懸念から企画段階からかなり物議だったとか。
おかげで完成が当初の計画から大幅に遅れることになった。
メンテナンス費用が高くつくことから、いまでも学園の経営陣の悩みのタネになっているらしい。
一方で学園の象徴的な建物であり、生徒たちには人気があった。
よくある学校の講堂とは正面に舞台があって、その手前の平らな床にパイプ椅子が並ぶようなイメージだと思うが、そういうものではなかった。
前方にある広い舞台を取り囲んで見下ろすように、階段状の観客席が全校生徒の数だけ並ぶ。
オーケストラが演奏するコンサートホールかオペラハウスのようなもので、ホールへの出入り口も二重扉になっていた。
舞台の奥にはパイプオルガンがあり、プレゼンテーション用に使用する場合はその手前に巨大なスクリーンを設置できるようになっていた。
毎年、生徒が提出した自由研究論文のうち特に優秀なものについて、全校生徒を対象にプレゼンするのが恒例の研究発表会だった。
1件20分の持ち時間で、各学年6件ずつ合計18件を朝から夕方までかけて発表する。
聴く側の参加は任意だったが、興味深いテーマが多数選ばれるため人気のあるイベントで毎年盛況だった。
ぼくは今年、初めてプレゼンターに選ばれていた。
◇
舞台裏の控え室で待機中。
発表テーマに選ばれること自体は評価が高かったということで結構なことなのだが、やはり大勢の前で話すのは緊張する。
他の登壇者たちも同様の様子で、プレゼン内容の最終確認に余念がなかった。
運営担当者に呼ばれて舞台袖に移動。
ヘッドセットを頭にバッテリーを腰に付けられる。
次はぼくの番だった。
映像は舞台奥のスクリーンに投影されるが登壇者はそれを背に話すため、舞台手前の床に登壇者に向けて設置されたモニターにも同じものが表示されるようになっていた。
司会者に紹介され舞台にあがる。四方からの照明が眩しい。
拍手に続く静寂の中、講堂中の視線を集めているのだろうけど、その実感がわかないまま話し始める。
スライドを送るコントローラを握る右手も、舞台の袖にいる時から緊張していたがそれも最初だけ。
自分の発する声が、マイクとスピーカーを通じて広い講堂の全体に広がっていく。
話がのってくれば、大勢の前で語るのはむしろ楽しい体験だった。
ちょっとしたパフォーマンスショーのようなもんなんだろう。
一方的にプレゼンするだけで、質疑応答がないのは負担が少なくて助かった。
質問に答えるのはアドリブになるので、想定でしか準備ができない。
20分間の独演会。
話し終えて盛大な拍手を受ける。
やり切った感を味わいながら聴衆に向かって手を振って、舞台袖に戻って行った。
◇
「疲れた…」
全ての発表が終了した後、教室に戻って机に突っ伏していた。
「いい発表だったよ。なかなか面白かった」
旗章がご褒美に温かいというか、ちょっと熱すぎる缶コーヒーをくれた。
「今年度もあとは、終業式まで流すだけか」
「期末考査がなければな」
嫌なことを思い出さされた。
「だいぶ練習はしていたのか?」
「練習もしたけど、その前になにをどう話すかを考えるのに苦労したよ」
限られた時間で聴衆になにをどれだけ伝えられるか。
「論文を棒読みするわけにもいかないしね。聞いている側が退屈してしまうし、わけわからんだろうし」
ただ話せばいいってものじゃない。
プレゼンテーションというのは聞き手が理解して新しい知見を獲得し、その考えや行動に影響を与えられなければいけない。
大事なのは世界観だと思う。
世界観なんて言い方すると大げさに聞こえるけど、話の対象をいかに捉えるかということ。
あらゆるものはそのままだとカオスでしかなくて、それについて考えるにはカオスに秩序を見出して構造化して捉える必要がある。
座標軸をどう引くか。そもそもなにを座標とするか。
どこに境界を設けて分類するか。
まず二分するとしたら、なにとなにに分けるのか。
この世界には電磁波というものがある。
あるらしい、と言ったほうがいいかも知れない。
人にはそれがほぼ実感できないからだ。
可視光線も電磁波の一種だが、人が捉えられるのは表面的に目に見える光としてのみだ。
ジェームズ・クラーク・マックスウェルが、電磁場の振る舞いを定式化した。
この場が波動となったものが電磁波である。
これにより人は電磁波というものを理解できるようになり、利用することも可能になった。
質量と質量の間には重力が働く。
アイザック・ニュートンは二つの質量と、その距離による比較的シンプルなモデルを示した。
万有引力の法則として知られるものであり、高校で習う物理学にもこれが出てくる。
この解釈だと、例えば地球と月の間では38万kmのなにもない真空の空間を超えて、魔法のように力が働くことになる。
このような考え方を遠隔作用という。
アルベルト・アインシュタインは違う形で重力をモデル化した。
一般相対性理論である。
質量が存在すればその周囲の空間が歪み、それが広がっていって他の質量に重力として作用する。
このような考え方を近接作用という。
この歪みが静的ではなく動的な波動として伝わっていく場合、それは重力波と呼ばれる。
人工衛星が地球の周りを周回する場合、地上との相対速度と重力の影響により時間のずれが生じるのだが、ニュートンのモデルではそれを表現できない。
これではGPSの測定位置が、どんどんずれていってしまって役に立たない。
しかしアインシュタインのモデルではそれが可能であり、適切に補正を行うことができる。
同じものをモデル化するにしても、やり方次第でやれることが変わってくる。
なんらかのテーマについて語る場合、それをいかにカオスな状態から理解して利用できる状態に構造化して表現するか。
そしてそれをどう伝えるか。
「てな感じかな」
「やっぱり暇なんだな」
暇ではないのだが。
「構造化、定式化、モデル化というのは同じ意味で使っているのか?」
「なんて表現するのが最適なのか悩むところだけど、いずれも対象の状態と振る舞いを定量的かつ論理的に表現して分析や利用が可能になることを言っているつもり」
あらゆるものがそのようにできれば、悩みも少なくなるのかも知れないけれど。
どうにも理解のしようのないものは、いたるところにある。
それは人の理解力の限界なのか、それとも対象そのものがそういう性質のものなのか。
人の悩みの多くはきっと、構造化なんてできない。
「晩めしは焼肉でも食べにいくか?」
「いいね」
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