066.水菜月と図書館
一月も終わろうとしていた。
天気予報曰く、この冬一番の寒波が来ているらしく、一段と寒さが身に染みる。
今年も自由研究の提出時期が近づく。
毎年のことだが、一部の段取りのいい者とあきらめのいい者を除いて、多くの生徒たちが追い込みでばたばたしている。
そんなわけで、今日は珍しく図書館のラーニングコモンズに水菜月といる。
それはいいのだが、向かいに座る水菜月が室内だと言うのにずいぶん着込んでいるように見える。
アイボリーの冬服ブレザーの下に厚めのニット。
マフラーを巻いてさらにあったかそうなショールを羽織っている。
ふかふかのダウンジャケットが隣の椅子に掛けてある。
左手には使い捨てカイロ。
「風邪気味とか?」
「寒いの苦手なの」
暑いのも苦手って言ってたような。
「今夜から大雪みたいだけど」
「明日は休もうかしら」
ぼくもどちらかといえば寒いのと冷たいのは苦手なのだが、さらに上を行くようだ。
今日ここに来たのは天気に話をするためじゃない。
水菜月の自由研究のレビューを頼まれていて、論文のドラフトを事前に受け取っていた。
パソコンを開いてテーブルに備え付けのスクリーンに投影する。
テーマは、暗号技術について。
…何故このテーマを?
「いろいろ必要だったりするの」
なにに必要になるのか。
陰で諜報活動でもしているのか。それとも実は凄腕ハッカーなのか。
あまり踏み込まない方がいいのだろうか。
「整数論が得意だったっけ?」
「…そんな人はあまりいないと思う」
と言いながらも理論的なこと技術的なことが主な内容で、暗号技術の背景として次のようなことがまとめられていた。
◇
暗号の歴史は古代までさかのぼる。
ジュリアス・シーザーがアルファベットをシフトさせる方法で、機密文書を暗号化していたことが知られている。
古典的な暗号は平文と暗号文を変換する方法自体が秘密だった。
普通は暗号といえばそのようなものを想像するだろう。
コンピュータを利用する近代的な暗号は数学理論に基づいた学術的なものであり、通常そのアルゴリズムが公開されている。
現在一般に普及している共通鍵暗号や公開鍵暗号の理論は、Webで検索すればその仕組みを知ることができる。
本屋に行けばそれの実装の仕方を解説した本が売られていたりする。
なぜ暗号化アルゴリズムを公開しても解読されないのか。
暗号化または復号化する場合に使われる「鍵」と呼ばれる数列を秘密にするのである。
アルゴリズムそのものを秘密にする必要があるのであれば、それが知られればすべての暗号文が解読されてしまう。
鍵を秘密にするのであれば、適度にその鍵を変更していれば、特定の鍵がばれたとしても解読される暗号文は一部に限られる。
ある国の国立研究所が脆弱性を指摘された旧式の共通鍵暗号の後継として新しい暗号を募集した際には、詳細なアルゴリズム仕様を公開することを条件としていた。
アルゴリズムをオープンにするには訳がある。
そうすることにより、世界中の専門家や学者が脆弱性を検証することができ、解読され被害が出る前に対策をすることができる。
これは世の中には悪意のある者より、善意の者が圧倒的に多いことを前提としている。
暗号化アルゴリズムがオープンなのであれば、なぜ暗号関連技術が輸出規制対象になるのか。
暗号が解読される場合、大抵の場合は理論そのものの脆弱性ではなく、実装や運用の不備が原因となる。
例えば鍵を生成するのに乱数を発生させる必要があるが、機械で理想的な乱数を発生させるのは実はとても難しく、これに偏りがあると暗号は脆弱になる。
適切に暗号機能を実装する技術や運用するための知見は機密事項となる。
鍵を秘匿したとしても、大抵の暗号化技術は理論的には解読不可能ではない。
ただしそのために膨大な計算が必要となり、現実的に解読困難であることから実用的には安全とされている。これは計算量的安全性と呼ばれる。
量子コンピュータの出現が暗号化技術の脅威になる理由はここにある。
従来型のコンピュータでは使えなかったアルゴリズムを利用することにより、暗号解読の計算量が飛躍的に減らせる可能性があるからだ。
◇
「暗号化アルゴリズムが公開されることが前提になっているのは興味深いね」
「悪者が脆弱性を見つければ悪用されてしまうけど、それよりいい人たちが先に見つける確率の方がずっと高いはずっていうやり方が成立するなんて、いい世の中だと思う」
あらゆる場面でそんな風であればいいのだが。
「理論や技術よりも、そういう倫理的な話に着目したまとめ方にしてもいいかも」
「わたしもそんな気がしてて、最初は理論を勉強しようと思っていたんだけど、そもそも暗号って戦争で使われたりとか社会的な意味が大きくて、最近だったら電子商取引とか。そんな観点の話にしようかと思ってた」
暗号。
文章でも画像でも当事者間でしかわからないものにすること。
第三者には知られないものにすること。
当事者と第三者の間に情報を遮断する壁を作るようなものだろうか。
実際に壁があるのとは違って、そのものは第三者も手に入れ得る。
だけどそれが何なのかがわからない。
理解の壁ということになるかもしれない。
「たとえばぼくと水菜月の会話を暗号化するとして」
「何でそんなことするのよ」
「第三者に知られないように」
「聞かれたら困ることなんて話さないでしょ」
きみの浮世離れした話は結構あれだと思うけど。
「暗号化した言葉で話すってこと?意味不明な言葉を発していたら不審者じゃない」
それは確かに。
だけどオンラインの会話は暗号化されたりするんじゃないのかな。
「それとも、わたしと内緒の会話がしたいの?」
声と表情が調子に乗り始めた。
両手の指を組んで顎を乗せて微妙に笑っている。
「もしそうだとしたら?」
「暗号化したら雰囲気なくなるからだめ」
「日本人同士がギリシャ語で話したら、会話を暗号化しているみたいなもんじゃない?」
「ギリシャ人にはわかるんだから暗号じゃないでしょ」
「ギリシャ人がいない環境であれば暗号と同等では」
「暗号は復号して完全な元の情報に戻せないとだめなの。日本語とギリシャ語の完全な翻訳って無理じゃないかな」
「スマホのメッセージを暗号にするとしたら」
「機械が暗号化して通信するのじゃなくて、書くメッセージそのものを暗号にするの?」
「手間がかかりすぎるか」
「そこまでしてわたしと内緒の会話がしたいのね」
なぜそっちに話を持っていくのか。
水菜月がだんだん玲奈的になっている気がする。
「でもそういう会話って、雰囲気とか微妙なニュアンスとか、あとリズムって大事じゃない?だから暗号なんかじゃなくて普段通りの言葉がやっぱりいいんじゃないかな。人に聞かれるのが嫌なら二人きりになって話せばいいんだし、それに…」
どうしたんだ、水菜月。
「今日って自由研究のレビューをするんだよね?」
「そうだよ」
本来の作業が捗らなさそう。
細かい話はレビューしようにもぼくが専門知識が不足していて無理なので、全体の論調や扱う課題の定義と論理展開およびその結論などを整理していった。
そんな作業がしばらく続く。
「…役に立ったかな?」
「うん。ありがとう。人に見てもらうと、自分じゃ気づかないことに気づけるから」
◇
薄暗くなり始めた校舎の外は、一段と冷え込んでいた。
空は濃い灰色の雲が垂れ込めて、いまにも雪が舞い始めそう。
強めの風がさらに体感温度を下げていく。
さっきまで隣にいた水菜月が、いつの間にかぼくのコートを掴んで背中に貼り付いている。
「…なにをしている?」
「盾になって」
風除けにされていた。
「このまま歩くの?」
「ゆっくりね。隙間が空かないように」
側から見たらかなり変なのでは。
と言ってもやめてくれそうにない。
「じゃあ行くよ」
「右脚から」
二人三脚しているわけではないのだが。
街を行く人の視線が気になりつつも、結局そのまま中央駅まで歩いて行った。
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