057.ひとの意識はどこから
意識とはどの段階で生じるのだろう。
人というか生き物の意識がどのように生じるのか、科学的な説明はまだ十分になされていないと思う。
脳で考える、ということは多くの人が漠然とは理解している。
脳というのは神経細胞の集まりであり、細胞はたんぱく質からできている。
たんぱく質は主には、水素、炭素、窒素、酸素、から構成され、各元素は主には、電子、陽子、中性子、から構成され、それらはさらに各種の素粒子からなる。
素粒子はクォークやレプトンなどと呼ばれる。
が、それらには「意識」はないと思われる。
もしあれば、非生物の物体にも意識が生じうることになる。
となると意識を持たないものが集合する過程で、どこかで意識が生じていることになる。
おそらくは、神経細胞が集まったあたりから。
神経細胞の一つ一つは単純な論理回路のようなもので、意識があるわけではなさそう。
しかしそれらが何億と集まって脳を構成すると、なぜか意識が生じる。
神経細胞の動作は、電気化学反応によるとされる。
個々の神経細胞自体が単純な論理回路なのであれば、人工的に作られた電子回路やソフトウェアロジックも、大規模な集合体となれば意識が生じうるのだろうか?
これは人工的に意識を作れるかの話になってくる。
もし人と同等の意識を作れるのなら、倫理的な問題が発生することになる。
それは人と同様に、喜びや悲しみを感じることになるのだろうから。
コンピュータ上で動く人と同等の意識。
いわゆる人工知能が高度化して、ある一線を超えたもの。
そんなものが存在しうるとすれば「彼ら」はなにを思うのだろう。
二つの考え方があると思う。
一つは物理主義的な考え方で、人間の意識も感情も複雑な情報処理の結果であるということ。
神経細胞による電気的化学的な仕組みにより、脳が意識や感情を実現しているのなら、コンピュータで人工的に意識や感情を実現するとも原理的には可能になる。
もう一つは、意識や感情は物理学的な現象や情報の処理を超えた現象であるということ。
昔から言われる魂や霊のような超物理的な、なにかの存在を仮定することになる。
これだと、人工知能がどれだけ高度化しても機械の動作である以上、本当の意識や感情を持つことはなく、あくまで擬似的に意識や感情があるように見えるだけ。それ以上にはなり得ないことになる。
しかしそうだとしても、観測されるものが本当の意識や感情と区別がつかないのであれば、それは本当の意識や感情と同等に扱われるべきなのだろうか。
苦しみを訴える機械を放置することは、倫理的な問題になり得るのだろうか?
それともただの機械の不具合、つまり警告灯を点灯しているのに過ぎないのだろうか。
「なんてことを考えたりするのだが」
「やっぱり暇だな」
旗章が珍しく図書館にいた。
「なんでそんなことを考え出したんだ?」
「まあその色々あって、人の感情ってどうやって生じるのかって考えてたら、それ以前に意識ってなんであるのだろうなんて思い始めた。人として生まれて成長するという過程を経ないで人と同レベルの知能をもつ意識が人工的に作れたら、『その人たち』はどんな気分なんだろう」
「コンピュータの中に作られた仮想世界の住人ってことか。メタバースに住むような。彼らはそれが全宇宙だと思うのかもしれない。井の中の蛙みたいに。SF小説か映画の設定としては面白いかもな」
「彼らは自分たちがそのような存在であることに気づくだろうか?」
「それに気づけるだけの情報を得られるかと、それを理解できるだけの知能があるかだろうな。宇宙の外側がどうなっているか、みたいな話だろ。蛙にとっては井戸の外かもしれんが。結局は認識できる範囲がその者にとっての全宇宙になるんじゃないか」
「もしぼくたちがそうだとすれば?」
「気づけないな。この世界がコンピュータの中の仮想の世界であることを示すものを俺たちは知らないし、俺たちが仮想の意識体であることを示すものも知らない。つまりそうであったとしても、気づける状態ではない。俺たちが認識しているのは、この世界は現実世界であり俺たちは生身の人間であるという理解だ」
「多くの人にとってそうだったとして、もし一人だけそれに気づける人がいたとすれば?」
「その一人の言うことが正しいと証明できるなにかを、多くの他の人と共有できるかどうかだな。できなければその一人はただの変人としてみられることになる。天動説が信じられている世界で地動説を唱えた場合、それを証明できる事実を多くの人が認めるまでは異端者扱いだ」
「他にも気づける人がいたとしたら」
「多数派になれば話が変わるな。どこまで行っても認識できること以上は考えられないんだ。多数派の認識が世界の認識ということだろうな。つまりそれが真実の世界だ。真実とされる世界、と言った方がいいか」
多数派の認識が、真実とされる。
旗章の考えに従えば、水菜月を救うことができない。
そしてそれは大局的にはきっと正しい。
ぼくだけがいくらかでも水菜月を理解できるのであれば、彼女をいくらかでも支えられるのはぼくだけになる。
ぼくが取りうる立場として他の人と同じ立場、つまり水菜月を理解しないという選択肢もある。
その方がぼくにとっては、少なくとも社会的な意味においては楽だろう。
多数派に合わせるわけだから。
だけどぼくはそうはしたくない。
水菜月はぼくを必要としていて、ぼくもそれに応えたいと考えている。
それは、人道的な使命感なのか義務感なのか、それとも玲奈や五十鈴が言うような愛情なのか。
どちらでもいいことのように思う。
理由づけがどうであれ、やることは変わらない。
ぼくは彼女を助けたかった。
彼女を理解してそばにいることしかできないとしても。
「少数派の考えを支持するのは異端か」
「かつてはそのように扱われて迫害の対象になったりしたな。だがいまはそれが社会問題でも引き起こさない限りは『変わった人たち』という程度だろ。むしろ多様性とも言えるかもな」
確かに変わった人たちってことにはなると思う。
ぼくだって信じられずにいる。
そして否定もできないでいる。
「支持したい少数派がいるんだろ?」
「…」
「しかも信じがたいような」
旗章は無骨な見かけによらず鋭い。
「なにかは知らんが、そうすべきと考えるのであればそれでいいんじゃないか。間違いに気づくことがあれば、その時に引き返せばいい」
間違いだと気づくことがあった時、ぼくはどうするのだろう。
水菜月を一人にはしたくなかった。
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