055.彼女が部屋に
寒い冬の日。
先日のお茶会の時の雪は、すでにすっかり溶けてなくなっていた。
この辺りでも積もるほど雪が降ることはあるが、それほど多くはない。
冬場はどちらかと言えば晴れた日が多いのだが、しかしむしろ雲のない日の方が気温が下がる。
放射冷却とかいうそうだが、夜間に地表の熱が宇宙へ逃げて失われてしまうのだ。
そんなわけで夜は特に温かいものが食べたくなる時期ではあった。
“Mein Name ist Katze. Ich habe noch keinen Namen. Ich habe keine Ahnung, wo ich geboren wurde. Ich erinnere mich nur daran, dass ich an einem dunklen, feuchten Ort weinte und miaute….”
なんで第二外国語なんてあるんだろう。
高校なのに。
放課後の図書館。
有希葉と勉強をしていた。
“Nana-kun, hast du keinen Hunger?”
ドイツ語で話しかけてくる。
「日本語でお願いします」
「わかるでしょ。このくらい」
鉛筆を器用に指で回している。
もうお腹が空いてくる時間になっていた。
「今日はこのくらいにして、どこかに食べに行こうか」
「うん」
帰り支度をしていると、有希葉が耳元で小声で話しかけてくる。
「今度、ななくんの家に行っていい?」
しかもいきなり大胆な発言。
「今日?」
「今日じゃなくていいよ。散らかった部屋を片付けないといけないでしょ?」
それはその通りなのだが。
実はいままでお互いの家に行ったことがなかった。
それがいきなりどうしたのだろう。
ちょっとそわそわしていると押しの一手がくる。
「晩ごはん作ってあげるから」
断ったら晒し首にされそうだ。
しかし有希葉って料理は得意だっただろうか。
あんまりそんな話はしたことなかった気がするのだが。
「ななくんの家って、土鍋ある?二人だから小さいのでいいけど」
あ鍋料理なんですね。
「あるよ。宴会用の大きなやつ」
「なんでそんなのがあるのよ」
同級生が集まって、鍋パーティーをすることが時々あった。
スーパーで好き勝手に買った具材を、適当に切って放り込むだけの雑なものなのだが。
がしかし女の子と二人でなんてことは想定していなかった。
とはいえ抗う理由があるはずもなく、今週末は有希葉とうちで鍋をつつく流れになった。
「あの」
「なに」
「でもなんで急に」
「楽しそうじゃない。うれしいでしょ?」
有希葉はなんでもないことのように話しているが、なにかあるのだろうか?
うちに来てなにをする?金目のものなんてなにもないのだが。
私生活に探りを入れてくるとか?十分な生活力があるのかどうかとか?
ゴミ屋敷にするほどにはひどくないつもりだけど。
それとも、盗聴器かトラッカーでも仕掛けて行動を監視する?
最近、水菜月に束縛されそうなことを言われたのを思い出した。
有希葉には水菜月のことはほとんどなにも話していない。
過去に何度か聞かれたことはあるが、軽くかわす程度ですんでいる。
表面的な印象では、有希葉は水菜月を特に気にしていないようには見える。
(いろいろあって水菜月とはたびたび会ってはいるけれど、それだけのこと。別になにがどうって話じゃない。というか有希葉だって友達の延長みたいなものだし)
またどうせ自意識過剰で考えすぎなだけだ。
有希葉もきっと深い意味なんてなくて、一人鍋が忍びなかっただけだろう。
友達と家で鍋をするだけ。
普通にみんながやっていることじゃないか。
「じゃあ週末に」
「うん。楽しみだね」
部屋を片付けなければ。
見つかって困るようなものはなかったはずだけど。
◇
週末。
午後から自宅の最寄り駅で待ち合わせして、近所のスーパーへ買い出しに行く。
有希葉はいつもよりもカジュアルというかラフなくつろいだ感じの服装。
「二人でスーパーで買い物なんて初めてだね〜☆」
確かに普段はスーパーやドラッグストアには一人でしか行かない。
シャンプーやトイレットペーパーを携えて一人で帰り道を歩くのは、いつも哀愁じみたものを感じてはいた。
なので二人で料理するために食材を買うというのは新鮮で楽しいのだが、なんというか姉か妹と買い出ししているような気分。
「お米と塩こしょう醤油とかの基本的な調味料はあるよ」
「七味は?」
「ある」
「味ぽんは?」
「それはなかったかな」
昆布で出汁を取るシンプルな水炊き。
味ぽんに大根おろし。
具は主に魚介類系。もちろんカニはない。
あとは白菜とか豆腐とか。
ぼくがカートを押していると、有希葉が手際よく商品を手に取ってかごに入れていく。
めちゃ手慣れているようにも見えるが、気のせいだろうか。
◇
買い物袋を両手に持って自宅マンションに到着。
「お邪魔しま〜す」
女の子が部屋に入るのは初めてのはず。覚えている限りでは。
この辺りの記憶も消えたりするのだろうか。
見られたらまずいものがあるのにその記憶が消えている、なんてことがあったらどうしよう。
という不安が脳裏をよぎる。
「きれいに片付いている」
「午前中に片付けて掃除もしました」
「正直だね〜」
鍋とガスコンロをクロゼットから出してくる。
買ってきた食材をテーブルに並べる。
キッチンで野菜や魚を適当な大きさに切って、大皿にのせていく。
セットしておいた炊飯器がすでに炊けている。
テーブルに向かい合って、二人鍋を始める。
「野菜は火を通すのに時間がかかるから先に入れたほうがいいよ」
そのあとは各種白身の魚に貝柱やつみれなど。
煮えるまでしばらく休憩。
「友達とよく鍋したりするの?」
「五十鈴たちとはよくやるよ」
「こんな感じで?」
「うん」
それで手慣れていたのか。
だとしても男と二人でその部屋でこんなことは、それなりの思いと考えがあってのことではないか、なんて想像してしまう。
どうしたらいいんだろう。
なんて考えても、楽しく無難に穏便に済ませる以外の方策は浮かばない。
いつものパスタ屋さんで一緒に食事をする時のような、なんでもない会話。
学校のこと、友人のこと、最近の出来事とか新しくできたお店とか。
それで有希葉も楽しそうにあれこれ話している。
これで満足してくれればいいんだけれど。
マロニーが地味においしい。
最後は雑炊。具の旨みが染みている。
二人して全ての食材を平らげた。
「おいしかったねえ〜」
二人でシンクの前に並んで皿洗いしていると、有希葉が肘をつついてくる。
「あとはわたしがやっておくから、ななくんは休んでていいよ」
「でも後片付けって大変じゃない?」
「買い物の荷物持ってくれたし、こんなことで遠慮しなくていいから」
背中を押されてキッチンから追い出される。
仕方なく、リビングで寝転がる。
両手両足を伸ばして力を抜いて天井を眺める。
真っ白な天井と電球色の照明。
最近は自由研究の追い込みとかで睡眠不足気味だったからか瞼が重い。
しかも空腹が満たされて、くつろぐにはいい条件が揃っていた。
クッションを枕にしていると、次第に意識が遠くなっていく。
有希葉はまだ後片付けをしている。
キッチンから聞こえてくる水の流れる音と、皿が置かれる音が次第に薄れていった。
◇
どのくらい経ったか、お腹の辺りに重みと柔らかくて温かい感触があるのに気づいて目を覚す。
部屋の照明が薄暗くなっていて、目の前には有希葉の顔があった。
彼女は仰向けになったぼくの体にまたがって、両手をぼくの両肩のそばについている。
灰色の天井を背景にふわふわの髪が垂れ下がり、大きな瞳でぼくを覗き込むようにじっと見つめていた。
口が半開きになったその顔は、なぜかほぼ無表情だった。
驚きのあまり、ぼくは声も出せずに硬直していた。
(有希葉は、なにを…?)
そのまま、数十秒。
もっと長かったかもしれない。
いや長く感じただけかもしれない。
やがて彼女は黙ったまま体を起こして立ち上がると、照明のリモコンを操作してもとの明るさに戻した。
「じゃあ、そろそろ帰るね」
そう言っていつもの笑顔に戻った有希葉は、コートを羽織るとバッグを手に玄関へ向かう。
我に返ったぼくは、慌てて追いかける。
「駅まで送っていくよ」
「うんありがと」
駅までの暗い夜道。
二人とも無言だった。
「じゃまた来週ね〜☆」
両手を元気に振って改札を抜けていった。
◇
日の暮れた緩い下り坂を一人で歩く。
先ほどまでとは違って孤独な道程。
かわいい彼女と二人で部屋の中。
仲良く鍋を囲む。
間違いなく幸せな楽しい空間と時間。
彼女はどうしてぼくを気に入ってくれたのだろう。
きっかけは覚えているけれど、なにか特別なことがあったわけでもなく。
有希葉といる時間は、穏やかな日常。安らげる空間だったと思う。
水が流れるように雲が行くように、自然と一緒にいる時間が増えていった。
うれしさとためらいが、入り混じるのを感じながら。
ぼくはどうしたいのだろう。どうすべきなのだろう。
彼女は何を望んでいるのだろう。
ぼくがこれ以上踏み込めないのは、なにかが引っ掛かっているからなのだけど。
それはなんとなくわかっているのだけれど。
だとすれば、ぼくは彼女に話さなくてはならないことがあるはず。
だけどなにをなんて伝えればいいのか。
有希葉といれば、平和な世界。
でもそれは不都合なことを知らない、不都合なことから目を逸らしているということになるのかもしれない。
水菜月は…不安で落ち着かない世界。
だけど、それがおそらく現実。見えにくい不都合な現実が、水菜月といると見えてくる。
そしてそれはきっと、目を逸らしてはいけないこと。
有希葉は、ぼくがいなくてもきっと大丈夫だ。
彼女にはたくさんの選択肢がある。
だけど水菜月は…彼女が言うようにぼくが必要なんだと思う。
彼女にはきっと、他に選択肢がない。
痛々しい自意識過剰でなければだけど。
だからもし仮に、有希葉と水菜月のどちらかを選ばなければならないとなったら。
そのときはきっと、水菜月を選ぶだろう。
だけどそれはぼくの気持ちや都合というよりは、ぼくをより必要とする人に応えなければという選択。
だとすれば、それは義務感による選択なんだろうか?
誰かのために、誰かを助けたいのであれば、その人に対する想いというか。
そこに愛情はあるだろうか?あるべきだろうか?
そもそも愛情ってなんなのか。
いままで考えたこともないような疑問が脳裏に取り憑いた。
最後まで読んでいただきありがとうございました。
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