048.絵に込めたもの
美術品というのはその見た目だけでも強い印象を与えるものだが、それだけではそれがどんな意味を持つのか十分には理解できないと思う。
深く知るためにはそれが作られた背景とか経緯とか、製作者の意図やその人柄も含めて考えることになる。
図書館のエントランスホール。
パブロ・ピカソのゲルニカの複製画があった。
本物は巨大な作品だが、それの半分程度の大きさ。
モノトーンで描かれた独特の絵柄は、それでも強烈な存在感を放っている。
「あの絵の正体がなんなのか、学校の授業では教えてくれなかったわ」
有希葉が話す。
「絵の正体?」
「そもそもゲルニカってなんなのか知ってる?」
「絵の名前」
「その由来は?」
「知らない」
ゲルニカとはスペイン北部の街の名前。
第二次世界大戦が始まる少し前に勃発したスペイン内戦において、反乱軍を支持するナチスドイツ空軍による空爆を受けて街は壊滅状態となった。
これは一般市民を巻き込んだ大規模な無差別都市爆撃の、世界初の事例とされる。
それを知ったピカソが抗議のために描いたのが絵画のゲルニカであり、現在では反戦の象徴となっていた。
同じ図柄のタペストリーがいくつか作られており、そのうちの一つが国連本部の安全保障理事会議場の前に飾られている。
「そんなことを知らずに、この絵を見てもわけわかんないよね?」
左端に子供を抱いた女性が描かれている。
子供は魂が抜けたような顔をしていて、女性はものすごい形相。
彼女たちが不細工だったわけじゃない。
突然の空爆で子供を失った母親の気持ちを、ピカソが描いたらこうなったというだけだ。
「政治的な意味合いの強いこの絵を、芸術的に評価することには色々意見もあるみたいだけど」
戦後もこの絵はアメリカで保管され、スペインに返還されたのは独裁政権が終わって民主化されてからだった。
「絵画というのは、キャンバスに絵の具を塗っただけのものじゃないの。それ以上の意味を作者は込めるし、見る人もそれ以上のことを読み取るの」
街を破壊され家族や友人を失った人々の気持ちは、ぼくたちが実感できるものではない。
だけどそれでも、この絵が後世の人々に語りかけるものは大きいはず。
「ゆきもなにかを込めて絵を描いてるの?」
「これほどのものはとても無理だけど…」
有希葉風のぱあぁぁーって感じの日の光には、なにを込めるんだろう。
「技術的に複雑なだけの絵であれば、いまなら人工知能を使えばいくらでも描けるわ。人手で描けば何時間もかかるような精緻な絵も短時間で作れてしまう。娯楽として消費するような絵であれば、それでいいと思う。安く多く作れるし」
「戦争に怒りを感じて絵を描くというようなことを、機械にできるのかな。やったとして、それが人の心にどれだけ響くのかな。ゲルニカを機械が描いていたとすれば、ピカソが描いた場合と同様に人々は反戦の象徴として受けれていたのかどうかってことなんだけど」
その作品に作者の意思が伴っているかどうか。
機械の意思は人の意思と同様に受け入れられるものなのかどうか。
きっと機械は怒りも喜びも感じない。
人がどのようなものに怒りや喜びを感じるのかを、学習することはできる。
人が怒りを感じるものに対して人が言うところの怒りというものを表現する、ということはできるかも知れないが、それは機械が怒りを感じたということにはきっとならない。
だけど、表面的にはそのように見えるのかも知れない。
感情を持っているように見えるのであれば、それは感情を持っていることと等価なのだろうか。
機械が描いたものであったとしても、ある人が自分の作品として自分の意思とともに公表したとすれば、人の意思が伴っているものと考えていいのか。
少なくとも見る人がそれを、機械が描いたものであることを知らなければ、人が描いたものと同様に受け止めることになる。
たとえ同じものを見たとしても、それにどのような背景があるのか、どのように説明されるのかで、受け止めはわかってくる。
あるキッチンナイフを提示されたとして、「著名な料理人が名門レストランの厨房で使ったもの」と説明されるのと「殺人鬼が人を刺すのに使ったもの」と説明されるのでは、聞いた人の受け止め方がまったく異なる。
そのもの自体は同じだったとしても。
機械の意思は意思なのだろうか?意思としては受け入れられないのだろうか?人の意思との違いは何なのか?
表現されているものが同等だったとしても、それを作ったのが人か機械かで扱いが異なるべきなのか?
なにを言ったかではなく、誰が言ったかで判断すべきなのか?
とても共感できる内容であったとしても、それを作ったのが機械であれば、無価値になるのだろうか?
凡庸な内容でも人が作ったのであれば、価値が認められるのだろうか?
機械はあくまで人が人のために作った道具であって、人と同列にはなり得ないのだろうか?
しかし機械が人と同等の意思、または同等の意思のように見えるもの、を持つようになれば、どうなるのだろう。
それは、人と同等に扱われるべきなのだろうか。
あくまで人とそれ以外は別なのだろうか。
機械が苦しみを訴えた場合、それをどう捉えればいいのか。
ただ警告灯を点灯させるのとはどう違うのか。
それは機械が苦しんでいるのか、そうではなくて人がどういったものに苦しみというものを感じるのかを学習し、それに対して人の苦しみというものを表現しているだけなのか。
どれだけ機械が人間的であったとしても、人とそれ以外は明確に分けるべきだとは思う。
それは倫理とか道徳といった議論ではなく、もっと原始的というか生物学的なもの。
ホモ・サピエンスという生物種は、ホモ・サピエンスという生物種を維持することが大前提としてあると考えられるから。
それを崩してしまえば、自然の摂理を崩すことになる気がする。
「いつか一緒に本物を観に行こうねっっ☆」
そう言って有希葉が制服の袖を引っ張っている。
「どこにあるんでしたっけ」
「マドリードのソフィア王妃芸術センター」
バルセロナに行こうって話もあったな。
エントランスを抜けて階段を上がっていく。
今日は有希葉と一緒にお勉強の日だった。
自習室で並んで参考書を開く。世界史。
さっきゲルニカの話をしていたけど、今日のお題はちょうどそんなところだった。
ヨーロッパ大陸はむかしから戦争が多かった。
限られた土地に多数の民族が住むと、対立が生じやすいのは仕方がないのかもしれない。
第一次世界大戦前は各国がそれぞれ同盟関係を結び、絶妙なバランスでなんとか平和を維持していた。
積み木を無造作に積み上げて、何とか倒れずにいたようなものだ。
サラエボ事件が積み木を崩してしまう。
オーストリアとセルビア間の問題が、芋づる的に世界大戦を引き起こした。
敗戦国のドイツは負けた側の主要国ということで、いろいろ制裁を受けてしまう。
しかしドイツはロシアに宣戦布告をしたものの、戦争に向かうそもそもの引き金となったのはサラエボ事件だった。
第一次世界大戦後、ドイツ国内で悶々とした不満が募る。
それを利用して政権を取ったのがナチスドイツだった。
で第二次世界大戦が勃発。
今度はドイツが引き金を引いた。
独裁政権のせいで弱体化していたソ連との泥沼の戦いになる。
戦いは太平洋・アジア地域でも繰り広げられた。
六年におよぶ戦いの末に、七千万人もの犠牲者をだして終結する。
負傷者は何億人にもなっただろう。
人類史における最大の惨劇。
戦争も迫害も人災であって、自然災害とは違う。
どうにもならないことではなくて、人の選択によるもの。
そこから人類はどれだけのことを学んだだろうか。
いまでも世界のどこかで戦争しているのだけれど。
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