046.きみとぼく
忘れた過去があったとしても、それを覚えてくれている人がいて、その過去を大切にしてくれているとしたら。
それを忘れてしまったぼくは、薄情だろうか。
冬の日の高台のカフェ。今日もいい天気。
乾いた空気が少し冷たいけど、登り坂で火照った体には気持ちいい。
「多くの友達のことは覚えているのだけど」
抹茶ラテを片手に水菜月と話している。
窓から差し込む冬の日光が、チェリーウッド製のテーブルの端を照らしている。
「きみの記憶だけはあいまいなのはなぜなんだろう」
水菜月がストローでグラスの氷をくるくる回す。
「わたしたちは想定されていない関係ってことなんだと思う。だから崩壊が起きると記憶が消されてしまう」
誰の想定なんだろう。
「断片的な記憶だけどきみとぼくは、なんというかその、大切な関係だったんじゃないかって気がしたりして」
水菜月の表情が少し緩む。
「ひょっとしてきみはそれを、修復しようとしてくれているんじゃないかって、気がしていた」
そしてそれは困難が伴うことなんだろう。
「ぼくはどうしたらいいんだろう?なにかできることってあるのかな」
少し間を置いて水菜月が答える。
「もしわたしのことを気にかけてくれるのなら、二つお願い。一つはときどきこうやってわたしの話を聞いてくれること。いろいろおかしなことを言うと思うけど、聞いてほしい。それと、二つ目はわたしがあなたを必要としていることを知っていてほしい」
「…わかった」
話を聞くと言っても、ただ黙って聞いていたらいいってものでもないだろう。
きっと彼女は普通じゃないことを抱えている。常識的に考えて理解しがたいようなこと。
彼女が抱えているものが何なのかは、いずれぼくにもわかるだろうか。
過去にはそれを理解していたのだろうか。
でもそれを受け止めて欲しいと、彼女はぼくに期待している。
彼女を知りたいのであれば、それはぼくがやらなくてはならないこと。
窓の外は単一色で染めたような青空。
室内に籠っているのはもったいない気がしてくる。
気持ちが沈むようなことを抱えているのであれば、気分転換になることでもしてみるのはどうだろう。
お店でじっとしているよりは、外を歩いたほうがいいかも。
今日は少し寒いけどいい天気。どこかに誘ったら来てくれるだろうか。
マグカップをテーブルに置いて、思い切ってみた。
「今日ってこのあと時間ある?」
「うん、大丈夫だけど?」
「ちょっと出かけようか?」
「どこへ?」
「街に出でよう。ぼくとデートしてよ」
「デート?」
少し驚いた顔。
でもすぐ笑顔になってOkしてくれた。
「ふ〜ん。前は不審者扱いだったのにね」
「覚えてないな。そんなこと」
◇
お店を出て、駅までの坂道を二人で降りていく。
風もなく穏やかな天気。それほど寒さは感じなかった。
「ベイエリアに行こう」
駅から列車に乗る。
中央駅の手前で一旦地下に入るが、それを過ぎると再び地上に出る。
窓から差し込む冬の低い日差しが少し眩しい。
ベイエリアの最寄り駅で降りると、街中がクリスマスの飾り付けで華やかな感じ。
デパートに各種大型店舗や専門店。
海に面した洒落たショッピングモールにレストラン街。
ぼくはあちこち水菜月を連れ回した。
彼女も楽しそうだった。栗色の髪に笑顔がこぼれる。
ずっと前からの仲のいい友達であるかのような雰囲気を、少しは感じられたかもしれない。
旅行用のカバン売り場で水菜月が釘付けになっている。
小型の手さげのキャリーケース。
「これかわいい」
ポリカーボネート製の明るいパステルな色合い。
丸みのあるシンプルでちょっとレトロなデザイン。
水菜月ってどちらかと言うとクールでシャープ系かと思ってたけど、こういうのも好みなのか。
店員さんとなにやら話してる。
ショルダーストラップをとりつけて肩からかけてみたり。
カバンを開けて中の作りもあれこれ。
戻ってきた。
「高かった…」
ここのお店って海外の高級スーツケースブランドでしたね。
日が西に沈み、東の空から夕闇が広がっていく。
この時期は夜が来るのが早い。お腹が空いてくる。
晩ごはんはベイエリア内の古い煉瓦倉庫を改造したイタリア料理店。
「もう開いているかな」
「たぶん」
お店の中はアンティークな雰囲気。
若い店員さんがテーブルまで案内してくれる。
二人でパスタのコースをいただく。
気になっていたことを一つ聞いてみた。
「記憶が消えてしまうとしても、物は残らないのかな」
「物?」
「一緒に撮った写真とかプレゼントとか。二人が写っている写真なんてあれば、知り合いだったことがはっきりするよね。プレゼントとかが残っていれば親しかったことがわかるし」
少し沈黙してから答える。
「残らないと思う。想定されていないことはそれに関わるものも消えてしまうみたいで」
「そうか…」
いまのこの世界には、ぼくたちの過去の手がかりはなにも残っていないということ。
それで記憶まで消えてしまえば、本当になにもなかったことになってしまうってことなのか。
あったはずの事実も、なにも残らなければなかったのと同じ。
残念な気分になりつつも、運ばれてきた料理はいい匂い。
パスタは美味しいんだけど、それにしても硬めのパンが切りにくい。
苦戦していると、水菜月が慣れた手つきで切ってくれた。
お店を出ると、すっかり暗くなった空を背景にクリスマスのイルミネーションが街全体を彩っている。
駅までの歩道もお洒落に照らされていて、少し前を話しながら歩くカップルが映画かなにかの一場面のように映えている。
ぼくたちも側からはそんな風に見えているのだろうか。
「パンの切り方、また忘れていたね」
「また?」
「そう。また忘れてた」
「前にも二人で来たことがある?」
「あるよ。そしてパンの切り方をいつも忘れてる」
そう言うことか。
笑ってはいるけれど、少し寂しそうな声と顔。
きっと過去に何度も二人でここに来ているのだ。だけどその度にぼくは記憶を失っている。
と言うことは、いまのぼくにとっては水菜月と二人で出かけるのはこれが初めてだったけど、本当はそうじゃない。
あちこち連れ回したつもりになっているけど、きっと水菜月にとってはいつものことだったんだ。
初めて二人でここに来たかのように振る舞うぼくを見て、彼女はどう思っていたのだろう。
覚えていないことに思い出せないことに、悲しさと申し訳なさを感じていた。
水菜月の中にはおそらく、二人の記憶がたくさんある。
そしてそれを大切にしてくれている。
ぼくの中には、ないのだけれど。
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