003.北山七州と桂川水菜月
あっけに取られるぼくに、目の前の女の子は押し殺したような声で話しかけてきた。
「そのままじっとしてて。動いてはだめ」
ぼくは頷きもせずただそれに従った。ただ固まっていた。
目の前にあるのは、なにもない真っ白な空間。音もない。そこにはいるのは、ぼくたちふたりだけ。
さっきまで当然のようにあった地面も空も道路も建物も、クルマも行き交う人々もいまはどこにもなかった。
ただ火の粉のようなものが、ぼくたちのまわりを取り囲むように舞っていた。
それもやがて消え失せた。
全部消えてしまったのか?それともぼくたちがどこかに飛ばされてしまったのか?
どちらにしても、なぜそんな非常識なことが突然起こる?
というか、この女の子はだれなのか?
凍りついたように、その場で立ち尽くしている。
それから何十秒経っただろうか。感覚的にはとても長い時間。ようやく周囲の変化に気づいた。
視界の下の方に地面らしきものが現れはじめたかと思うと、空・道路・建物などが霧が晴れるように見えてくる。
やがてクルマや人が現れ、元のように音を出して動きはじめた。
気が付けば全てはなにもなかったかのように、元通りの世界に戻っていた。
真夏の日差しが街を照り付け、蝉が騒がしく鳴いている。空は青く雲は白い。
女の子はぼくの腕を掴んだまま、大きく息を吐いている。
「いま…のは?」
「どう説明すればいいのか、毎回困るんだけど…」
女の子は視線を外したまま答える。
いまのがなんなのか、知っているのだろうか。
毎回って、何度も起こっているってことなのか。
「きみは…だれなの?」
ぼくは呆然として女の子を見る。だけど彼女は周囲を気にしていた。
人通りの多い横断歩道の上での立ち話は、迷惑でしかない。
「少しだけ、時間いい?」
女の子は道路沿いにある大手チェーンのコーヒーショップを指差した。
◇
カウンターで飲み物を受け取って、フロア中程のテーブルに向かい合って座る。
そこでようやく気づいたのだが、女の子はぼくと同じの学校の制服を着ていた。
うちの学校だったのか。でもこれまで見かけたことがなかったような気がする。
全校生徒は千人以上いるし、知らない子がいたところで不思議ではないのだけど。
女の子はカップをテーブルに置き、ぼくをじっと見て、そしてやや緊張した表情で話しかけてきた。
「北山七州くん」
なぜぼくのフルネームを知っているのか。
「あなたは危険な状態にあるの。それでわたしはあなたを守りたくて、今日みたいに時々付きまとうことになるのだけど」
淡々と突拍子もない非日常的なことを語りだす。
「ぼくを守るって、きみはなんなの?」
「それについては、あなたも全く心当たりがないわけではないでしょ?」
「…どこかで会ったことがある?」
「あるよ」
「どこで?」
「あえて答えるなら、あなたの前世で」
思わず吹き出しそうになる。話の内容はまったく現実的じゃない。
赤の他人にいきなり何の話をしてくるんだ。普通に考えればいかれた不審者でしかない。
なんでいきなりこんなのに絡まれているんだろう?今日は厄日だろうか?
だけどしかし、なにかが頭の中で引っ掛かっている。この目、この声、どこかで…。
記憶を必死に掘り返そうとするのだが、だめだなにも思い出せない。
なんというか気持ちの悪い感覚。
「危険な状態というのは?」
「簡単に言うと、あなたはもうすぐ死んで記憶を失うの」
初対面の人間にいきなり言うことだろうか。
怪しすぎる占い師ぐらいだろそんな話するのは。ぼくはこの子の名前すら知らないんだけど。
とてもすんなり聞ける話じゃない。
「正直な印象を率直に話すけど、きみの話は全く荒唐無稽でとても信じられない。そもそもきみとは初対面のはずだし、それが路上でいきなり腕を掴んできて、危険だとかもうすぐ死ぬだとか、行動だけを見ていると不審者でしかないのだけど…だけど…」
女の子は黙ってぼくを見ている。
ぼくが否定しきれないことを見透かしているようだ。
それにさっきの横断歩道でのあれは何なのか。
「さっきの不思議な現象と、確かにぼくにもきみと過去に会ったような感覚があって…なんと言えばいいのか」
「突然のことで理解が追いつかないのはわかるわ。でもお願い。これからも時々わたしはあなたに関わらなくてはならないの。でもそれはあなたを害するのではなくて、あなたを守ることなの。わたしが何者なのかは、そのうち思い出すよ」
思い出す…ぼくはどう返事していいのかわからず、ただ不自然に頷いていた。
よくわからない既視感が、思考を混乱させる。
「色々理解できないけど、きみが言うには、ぼくはもうすぐ死にそうでそれをきみが助けてくれるってことなんだね」
投げやりな感じで話を返す。
「今日のところはそれだけわかってくれればいいよ。だけど荒唐無稽なんて言うけれど、さっきのこと考えたら全く信じないわけにもいかないんじゃない?」
「きっとなにかトリックがあるのでは」
「じゃあわたしに会ったことがあるようなっていうのは?」
「それは…きっと気のせいだ」
かなり苦し紛れな返答。
気のせいとは思えない程度のものがぼくの脳裏にはあった。
「信じられない気持ちはわかるけどね」
なんて言いながら、女の子は微妙な笑いを浮かべて抹茶ラテを啜ってる。
桂川水菜月。女の子はそう名乗った。
聞き覚えのない名前だ。
それなのに、初対面のはずなのだが、そう考えるのには違和感が明らかにあった。
よくわからないのだが、興味があるというか無視はできない気はしていた。
そういうことにして、連絡先を交換してこの日は別れた。
女の子はそのまま中央駅に向かっていった。
ぼくは繁華街の方に用事があった。
◇
アーケード付きの商店街にある大型書店。学習参考書を買いに来たのだが。
書棚に目を走らせて適当なものを手に取ってみる。しかし中身を見ても全然頭に入ってこない。
さっきのことがずっと脳裏をぐるぐる回っている。
横断歩道でいきなり見知らぬ女の子に腕を掴まれたこと。
気がつけば周りは真っ白でなにもなくなっていたこと。しばらくしたら元通りになったこと。
コーヒーショップで聞いた訳のわからない話。
そしてあの女の子が初対面のはずなのに既視感があること。
しかもそのことを彼女が知っていたこと。
(...何者なんだろう?)
少なくとも彼女はぼくを知っていた。街が一瞬消えた現象もわかっていたようだった。
理解が追いつかないが、考えてもなにかがわかる気もしなかった。
頭が痛くなるのであえて考えようせずに、平常心を保つように心がける。
何冊かの参考書と新刊の小説を買って帰路についた。
◇
自宅。
通学用のバッグを床に置いてベッドの上に寝転がる。
今日のことは、いろいろ現実のこととは思えない。
突然なにもかもが消えたのは、なんだったのか。
あの女の子も実在している気がしない。
ぼくを知っているようだったが、前世で会ったとか言ってたような…だいぶやばいやつじゃないのか。
白昼夢ってやつだろうか。幻覚でも見ていたのか。
早く風呂に入ってさっさと寝よう。
きっと猛暑が続いて頭がいかれているだけだ。
明日になれば全て忘れているだろう。
と思い込もうとしていた。
無駄な抵抗かもしれないのはわかってはいたけれど。




