026.水菜月の趣味
ある日の定例会。
昼間はまだ暑さが残るものの、いくらか過ごしやすくはなった。
以前のような不信感や不安感は消えて、最近は彼女に会うことが楽しみになっていた。
今日はお店の前で手を振って迎えてくれた。二人ともまだ夏の服装だった。
入り口の扉を開けて二人で中に入ると、いつものように窓際のテーブル席に向かい合って座る。
窓の向こうには明るい街並みと、青い海に澄んだ空が見えていた。
水菜月が肩にかけていたトートバッグをテーブルの上に置こうとしたところ、反対側に座っていたぼくの方に向かってバッグが勢いよく倒れてきた。
バッグから飛び出した小物やノートなどが、テーブルの上を滑ってくる。
落ちそうになるのを慌てて受け止めてたら、ノートの中身が目に入った。
「え?」
そこに描かれたものを、思わずまじまじと見てしまった。
が次の瞬間にはノートを取り上げられた。
水菜月はそれを胸元につかんだまま、目を見開いて気まずそうな表情でこちらを睨んでいる。
「…見た?」
「あの、ちょっとだけ見えました」
「忘れて」
「なにか見ちゃいけないものだったかな?」
「恥ずかしいから」
「でもたぶん、そんなに卑下するものじゃないように思うけど」
「…」
「絵本の…下書き?」
「…」
「鉛筆で描かれたかわいい絵と、ひらがなの文章が一瞬見えた」
「…」
「でもとても上手に描けているようだった…という気がする」
軽く目を閉じてため息をついている。
「まああの、趣味というか興味というか、以前からこういうの見るのも描くのも好きだったから」
「いい趣味だね。創造的で」
「本当にそう思ってる?子供っぽいとか思ってない?」
「子供っぽいとは思わないよ。絵本を読むのは主に子供かもしれないけど、描くのは大人だし」
「心の中で笑ってそう」
「笑わないけど、興味は湧いた。もし差し支えなければ読んでみたい」
「差し支えあるからだめ」
「一番自信がある作品だけでいいから」
断固たる拒否の意思表示。思いっきり首を横に振っている。
うちわを側頭部に括りつけたら涼しそうだ。
あまりしつこく言うと嫌われそうなので、仕方なくあきらめる。
だけどちょっと意外な一面を見た気分。
クールなイメージだけど、子供好きだったりするのだろうか。
とても興味が湧いてくるのだが、この日はこれ以上はこのことには触れないことにした。
またなにかの機会に見れることもあるかもしれない。
何事もなかったように、当たり障りのない話題をつなぐ。
「気候も徐々に秋の気配になってきましたね」
「そうですね」
「新米の出来具合いが楽しみです」
「自宅は米農家なの?」
「そんなわけありません」
たまに自炊することぐらいはあるが。
「水菜月さんはいかがお過ごしですか?」
「水菜月って呼んでくれるんだ」
顔が緩む。
「以前はそう呼んでいたみたいだから」
自分でもどういう心境の変化なのかよくわかっていないのが、名前で呼ぶ方が自然だという気分になっていた。
深層心理的な記憶が復活しているのだろうか。
音の響きというか、いい名前だとは思う。
「もっと呼んで」
「水菜月」
「もう一度」
「水菜月」
両手で頬杖をついて満足そうにニヤニヤしている。
なにこのやりとり。
自分の名前が相当お気に入りのようだ。
スイーツの類を注文することの多い水菜月が、今日はフルーツの盛り合わせを食べている。
「どうしたの?」
「そんな健康的なものを食べるなんて」
手が止まる。
「普段はそんなに不健康かしら」
「糖分と炭水化物の塊のようなものが多いかと」
「あれは心の健康を保つために必要なの」
甘党らしい見解。
生クリームで精神が安定するならそれもいいと思うが、あれだけ甘いものを食べていてなぜ全く太らないのだろう。
「普段の食事はどうしてるの?」
「学校以外では自分で作ることが多いかな」
話を聞くと野菜や果物を中心にした食事で、タンパク質は大豆や乳製品と魚あるいは鶏肉。
肉類を食べるにしても脂肪分の少ないものを選ぶなど、かなり気を使っている様子。
炭水化物は摂りすぎないように注意して、自宅では甘いものは食べないらしい。
美容は努力の賜物なのか。
「冷蔵庫にカップ入りのスイーツが並んでいるのかと思ってた」
「普段はほとんど食べないよ。お出かけした時にお店で食べるぐらい」
「一人でお店に入って食べることは?」
「あまりないかな。だから北山くんとこのカフェに来るのはとても大事なの。スイーツのためには」
ゴールドキウイが突き刺さったフォークを握りしめて力説している。
この場は糖分補給のためでもあったのか。
そのあたりのメニューが充実した店にしておいて良かった。
牛丼屋とかカレーハウスを指定していたら機嫌が悪かったんだろうな。
「では今日はなぜスイーツではなくフルーツを?」
「スイーツも食べるよ」
両方なのか。
「さっき新作のカヌレがあるのを見つけたから。抹茶とゆずシトラスフレーバーの」
いつの間に。
「入口のところのブラックボードに書いてあったよ。気づかなかった?」
そんなところまで見てません。
甘党なのに自宅では食べない派の水菜月のために、スイーツが美味しいお店を他にもいくつか探しておくべきだろうか。
水菜月は抹茶とゆずシトラスのカヌレを平げた後、店員さんから裏メニューで試作段階のマンゴーとシャインマスカットのカヌレがあることを知らされ、それも完食してご満悦になっていた。
これでしばらくはスイーツを摂取しなくても精神の安定を保てるだろうか。
学校でもケーキバイキングに行く女の子たちの話を聞くことがあるが、甘いものって多く食べるものではないと思うのは、甘党でない人間の発想なんだろうな。
胃袋が別にあるって言うし。
◇
次の週末の定例会。
昼間もちょっとだけ涼しくなってきた気がする。
空の青さの透明感も増しているような。
今日の水菜月。
秋っぽいベージュ色のブラウスとスカート。
「一つだけ見せてあげる」
「なにを?」
「なにって先週見たいって言ってたじゃない」
そう言ってノートを一冊手渡される。
あ絵本の話ね。見せてくれるんだ。先週は断固拒否の姿勢だったのに。
気の利いたコメントをしなくては。
「他のページは開かないでね」
丁寧に描かれたかわいい絵。かなり手慣れた感じの描きっぷり。
その横にはきれいな手書きの文字が並ぶ。
「デジタルじゃなくてアナログなんだね。こだわりがあるの?」
「パソコンやタブレットも使うけど、こういうのは紙と鉛筆の方がいろいろ考えやすい気がして」
ぼくの周りでもアイデア出しを手書きでやる人は結構いる。
利便性はデジタルの方が高いのだろうけど、感性的なところではアナログの方が向いていることもあるのかもしれない。
見たいって言っておきながら、実際に見せてもらうとなるとドキドキする。
実はエグかったりシュールな内容だったらリアクションどうしよう。
童話でも原作は残酷だったりするものもある。
でもそれは杞憂だった。
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