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箱庭の火の鳥  作者: ゆくかわ天然水


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025.ずっと前のこと、遠い存在

終演後のコンサートホール。

大きな長い拍手が響き渡り、それが収まる頃には指揮者と演奏者はもう舞台からいなくなっていた。


退席する観客でホワイエも階段もやっぱり混んでいる。


「しばらく席で待っていた方がよかったかな」

「いいよ。ゆっくり行こ」


混み合う通路で彼女はぼくのすぐ横にぴったりくっついていて肩が触れ合う。

エントランスに着いたときは、階段の混雑だけで疲れた気分だった。


大勢の人の流れに乗ってコンサートホールを出て、最寄り駅までの並木道を歩く。

もう夕暮れ時になっていた。


来る時にも見かけた年配の夫婦が、またぼくたちの少し前を歩いていた。

さっきと同じように手を繋いで二人で楽しそうに、コンサートの感想でも話しているのだろうか。


「素敵なご夫婦ね」


彼女も気づいていたようだ。


「わたしたちって、他の人にはどう見えているのかしら」


どこかのお嬢さまと使用人じゃないですかね。


「どこかのお姫さまと召使いね」


格差が広がった。

だけど側から見たらそんな感じなんだろうな。

この危うげなお姫さまを、冴えない召使いはどうしたらいいのやら。


「わたしたちも、いつかあんな風に…」


彼女が小声でなにかを言おうとしていたが、ぼくには聞き取れなかった。



太陽は西の地平線に沈もうとしていて、空は茜色に染まっている。

夏の名残のような色づいた入道雲が遥か彼方に小さく見えた。


「お腹空かない?」

「そうだね。なに食べようか」


もう晩ごはんを食べたくなる時間だった。

しかしコンサートホールの最寄り駅周辺にはあまりお店がなく、しかたがないので列車に乗って繁華街のある中央駅まで移動する。


列車の中。

お腹が空くと喋る元気もなくなる。

二人並んで無口なまま、車窓の向こうの暮れゆく街並みを眺める。

向かいの席では、疲れたOL風の女性が列車の揺れに合わせて頭を揺らせながら爆睡していた。

週末なのに仕事だったのだろうか。

その横の中年のおじさまは、隣の揺れる頭が気になって迷惑そうな顔をしている。


改札を浜側に出る頃には日は沈み、空には群青が広がり始めていた。

この時間帯になると、街の空気は秋の気配が強くなる。


信号が青に変わり、歩行者が一斉に横断歩道を渡る。

ここは夏の初めにぼくが彼女と始めて遭遇した場所。

来るたびにあの時のことを思い出して落ち着かない気分になるが、横にいる栗色の髪の人は特に気にする様子もない。


晩ごはんを求めてアーケード付きの商店街を歩いていると、彼女が寿司屋の前で立ち止まる。


「寿司好きだったっけ?」


期待に満ちた顔をして頷いている。

確かに先日そんなことを言っていたような。


「じゃここにしますか」


引き戸を開けると、威勢の良い声に迎えられる。

二人であることを告げるとカウンター席に案内された。


ここは廻らない寿司屋さん。

壁の高い位置に品書きの札が並んでいる。

いまどきのタッチパネルではなく、口頭で直接注文する。


まぐろやはまちを食べながら、先ほどのコンサートの話をしていた。


「同じ曲でも指揮者や演奏者が違えば印象が大きく変わるね」

「楽譜に書いてあることは曲の一部でしかないってことなんだろうな」


指揮者はそれをどう解釈して、演奏者はそれをどう表現するか。

人によって変わってくる。

同じ人でも時と場合によって違うのかもしれない。


作曲者の意図に忠実であるべきなのか、解釈する人の裁量や創作がどの程度まであって良いのか。

きっと唯一の答えなんてなくて、それぞれの人たちがそれぞれの考えで理解と表現を試みているんだろう。

音楽だけでなく、絵画でも小説でも。


ひらめにしめ鯖。いくらに甘えび。

食が進む。皿が積み上がっていく。


「今日は誘ってくれてありがとう」


改めて礼を言われると、なんとなくくすぐったいものを感じてしまう。


「また機会があれば」

「うん」


控えめだけどうれしさが浮かぶ笑顔。

こうしていれば、気を揉むようなことなんてなにもない素敵な女の子なのだが。


それはいいとして今日の反省は、まずは服装だな。

お連れの方とバランスが取れていない。

有希葉はいつもカジュアルな感じなので、あんまり気にならなかったのだけど。

今後はもう少し身だしなみに気を使うべきか。


(召使いはなんとか脱出して、王子さまは無理でも騎士かせめて近衛兵ぐらいには…)


身の程知らずのような気がしてきた。

服装だけでなくて中身にもだいぶ差があるじゃないか。


間近で見る彼女の横顔。

なにを食べたらこんなに整った作りになるのだろう。


「どうかしたの?」


なんでもないです。



お店を出て中央駅まで大通りのイルミネーションの中を歩く。

空はすっかり暗くなって、歩道に並ぶ街灯に照らされた街路樹がずっと続く。


「前から気になっていたんだけど」


歩きながら声をかけると、栗色の髪を揺らしてこちらを向く。


「なんでぼくのことを…名前とか知ってたんだっけ?」


ふふっと小さく笑って答える。


「ずっと前から知ってるから。あなたのこと」


これまでにも何度か聞いた答え。

普通、女性からこんなこと言われたらドキドキするものなのだろうけど、彼女が言う「ずっと前」は、かなり不自然な意味のはず。


「ずっと前?」


聞き返してみる。


「ずっと前」


答えは同じ。


(ぼくの「前世」を知っている、ということを言っているんだろうな)


それ以上は聞かなかった。


ずっと前。どのくらい前なんだろう。

二人のことで彼女は知っているのに、ぼくが知らないことが多くある。

というかぼくはほとんどわかっていない。

ぼくと彼女の間に理解の差というか、知っていることに大きな差があることが苦しく感じられる。

今日だって彼女のことをもっと知りたくて誘ったはずなのに、二人の理解の差を改めて認識している。


彼女の話すことが正しいとして、ぼくはそれらをいつか思い出すだろうか。

こうして会話をしていれば、記憶の差は埋められるだろうか。


相変わらず彼女は遠い存在のように感じられた。

二人の間に広くて深い真空があるような。

それはぼくの脳裏から消されてしまった記憶のせいなのかもしれない。


そばにいるのに近くない。

それは雑踏の中ですれ違う他人とは異なるもの。

近かったはずなのに、なにかによって引き離されてしまったような。


この距離を埋めなければいけない。

ぼくは彼女のそばに戻らないといけない。


そんな感覚が不安定な脳裏に浮かぶのだが、これ自体が単なる気の迷いなのではという考えもよぎる。


彼女はぼくの横で黙ったままで歩いていた。

ぼくも彼女の横で無言だった。



「じゃあ、また来週ね」

「うん。それじゃ」


彼女を乗せた列車がホームから出ていくのを見送る。

遠い彼女がさらに遠くなるような、そんな気がしないでもなかった。

最後まで読んでいただきありがとうございました。

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