卵は、孵らない。
団地のベランダ。
「……────♪」
「姉さん。またベランダに出てるの?」
「あら、ゆきくん。ええ。お日様に当たるのは、大事でしょう?」
今日も機嫌が良さそうだ。僕は姉さんの笑顔にほっとしながら、
撫でる腹には目を逸らす。
また……大きくなっているな。
「姉さん」
「なぁに? ゆきくん」
「先生は、何て?」
「ああ! 順調だって!」
ああ、そう言うことにしているのか……僕は笑顔が崩れていないと良いなと思いながら、複雑な気持ちになる。
本当に……たいせつそうにしている。姉がやさしく撫で擦るお腹は、真実その中に赤子がちゃんといるようだ。
中身は、空っぽだと言うのに。
『想像妊娠』────現在、姉が通院する病院の医師はこう、診断した。
……姉は、新婚旅行で義兄を亡くした。
数年付き合った彼との、しあわせの絶頂で未亡人となった当時の姉は、とても憔悴し切っていて。
見ていられなかった。
ところが、義兄の葬儀から一箇月が過ぎた辺りで、姉が奇妙なことを言い出す。
「赤ちゃんが、いるの」
いきなり明るい調子で笑う姉の発言に、聞いた家族の皆が耳を疑った。
そんなこと、在るはずも無いのに。
姉自身、義兄が亡くなった日に緊急入院して一命を取り留め、あらゆる精密検査を受けている。
妊娠の兆候は無かった。もしかしたら、とまた病院で検査したけれど、やはり結果は同じ。
陰性。
一時的な乖離症状、逃避行動だろうと言われた。
だと言うのに……。
現実に、腹が膨らみ始めた。
“想像妊娠”────書いて字の如く、つまり思い込みで、妊娠したみたいな症状が出ている、と。
主治医は、難しそうな面持ちで語った。
信じただけで実際に悪阻や体調不良、食欲減退は当然、生理も止まって腹も大きくなった……。
姉の腹は空っぽのくせに、日々膨らんで行く。
「────ねぇ、ゆきくん」
「なぁに? 姉さん」
「どんな子が産まれるか」
楽しみね?」
「……。
そうだね」
たいせつな、本物の卵を撫でるように、姉は自らの腹を摩る。
鳥も……無精卵でも自分が産んだ卵を、あたためるんだっけ。
今の、姉さんみたいに。
姉さんの抱える卵が、有精卵ではなく無精卵だと言うことを、
孵ることは、どれだけ掛かっても絶対に有り得ないのだと。
姉さんのうれしそうな笑顔の前に屈する僕は
未だ、言えないままでいる。
【 了 】