第七節【裏】
「盗まれた鞄を取り戻す為にここまで……災難だったね」
説明を終えたイチガに対して少女は同情した様子を見せる。
「ほんとに災難だった」
「だからあの時の後に地上にはいなかったんだね」
そして少女は何かの得心を得ている様子を見せた。気になったイチガは何の事か尋ねる。
「あの時?」
「きみと地上で二回出会ってるよね? 二回目の時だね」
と、言われたイチガは何の事かと考えると即時に光景が浮かび上がった。
「契約武装に触れるなと叫ばれた後か」
イチガの返しに対して少女は「そうだね」と答える。だが自身の行動を恥じているのだろうか? 声色が大人しかった。
「あの時、わたしはきみを探していたんだよね」
「俺を探してた? どうしてだ?」
「いきなり叫んで驚かしたからだね」
「確かに驚いたな、だけどあの時の俺は不用心だったからな」
今反省しても仕方ない事である事を重々と承知の上でイチガは語る。
「だから驚いたんだよね、きみが地下で倒れていた事に」
少女が『地下』と口にした瞬間、疑問が湧き上がり尋ねた。
「地下か……何なんだここは?」
今いる場所がどの様な場所なのか一切知らないイチガは根本的な部分から尋ねる事にした。
「地下街より深い地下に存在する。地下水路だね」
「まあそれは分かるけど」
少女の答えは半ば予想できるものであった為に少し呆れた物言いで対応したイチガだが気になる事を口にした為にその点を突く事にした。
「地下街もあるのか」
何かに襲われる以前の自分はこの場所が地下都市だと思っていたが、襲われた事で今は違うと認識している。
故にイチガは本当に地下街がある事に驚いた。
「うん、あるね。わたしが住んでいる場所だね」
と楽し気に話した少女だが「地下水路であるのはきみにも分かる事だろうけど」と真面目な声で地下水路に関する話に変える『地下街』に関して今は話すつもりがない意志を端的に表す。それに気づけたイチガはそのまま話を聞く事にした。
「基本的に立ち入り禁止なんだよね」
イチガはこの地下水路に入り込んだ後に何かに襲われてしまった。だから『立ち入り禁止』と少女が話した事に得心する。だが気になる事も口にした為に尋ねた。
「基本的ってどういう意味だ?」
「……それはわたしも知らないんだよね、そう言われただけだから」
そう少女は話した。その声風が納得していない様子であると一声聞くだけで把握できるものであった事から、イチガはそれ以上の追及をする事を止めた。
「だから門は閉じている筈なんだよね」
少女の言葉と同時にイチガの脳裏には町で見た黒く染まった巨大な扉が浮かび上がり「門なのか」と口にした。
「きみは扉、なんて言ってたけどあれは門らしいね」
「まあ言われてみればあれは扉にしては大きすぎるか」
指摘された事が肯定したイチガは、少女が話した事の中で気になる部分を訊ねる。
「門が閉じてるとか口にしていたけど、やっぱり普段は閉じてるのか」
「うん、そうだね。閉じてる所を見た事あるよ」
「そうだよな、閉じておかないと俺を襲った何か分からない奴が町に溢れるかもしれないしな」
そうイチガが話した直後「もう溢れたんだよね」と少女は零した。
「なっ!」
地上で一度も異形な者と出会ってなかったイチガにとっては不意打ちの言の葉であり、驚きを露にした。
「町にはスケルトンが現れていたんだよね」
唐突に『スケルトン』と言われたイチガだが、歩く人の骸骨の姿が即座に想像出来た事から、その点は指摘する事はなかった。
「じゃあ今は街は大騒ぎに……」
「それはないね、目に見えるのはわたしが全部倒したから」
淡々と流れた言葉に「君が倒したのか」とイチガは驚くが少女は反応する事なく口を走らせる。
「他にいても今日の町には魔獣狩りの専門家の傭兵がいるから問題ないと思うよ」
「なんていうか、俺が知らない事は色々とあるんだな」
連鎖する様に流れる情報に対してイチガは抱いた所感を口にした。
すると少女は不思議そうな口調で「もしかして」と口にした後に言葉を続ける。
「その様子だと、きみは魔獣スケルトンと出会ってないみたいだね」
歩く人骨を見かけた覚えがないイチガは少女の指摘は正しいものであった為「出会ってないな」と答えた、しかし妙な事を言っていると同時に思った為にその部分を訊ねた。
「スケルトンは魔獣なのか? 正直違和感があるんだけど」
魔獣と聞いたイチガの脳裏に映り込むのは全身が毛で覆われた凶悪な獣である。だから突き詰めれば骨であるスケルトンを魔獣と呼ぶのはどうなのかと抱いたのだが、それを聞いた少女は心底楽しそうで少し嬉しそうな笑い声を上げる。
「えっ」
特に笑える様な事を言った覚えがないイチガは困惑を覚えて、表情と声にもそれが出る。
「あ……うん、大丈夫」
その表情を見た為なのか、声色を真面目なものに戻すと少女は喋り始める。
「きみもわたしと同じ事を考えるんだねって、だからついね」
「同じ事?」
「スケルトンが魔獣に分類されている事にわたしも違和感があるんだよね」
「君もそうなのか」
「うん、だから……その、同じ意見の人がいた事が嬉しくて」
少女が笑う理由に納得できたが意見が同じで嬉しいと言われた事に何故か恥ずかしさを抱いた。それをごまかす為にイチガは「そうなのか」と素っ気ない返答をする。
「そうなんだよね」
「同じ意見か、もしかして俺ときみ以外に気にしている人はいないのか?」
「うん、わたしが聞いたのは三人だけだけど、そんな事を気にするのはわたしだけだって言われたんだよね、だからこの大陸に住む人は殆ど気にしていないと思うね」
「魔物と魔獣にはそこまで差もないみたいだからかな?」
――魔物もいるのか。
魔獣が存在する以上、魔物が存在するのは当然だと感じたイチガだが、魔物と魔獣が並行して存在している事に少しだけ疑問を感じる。
「今は門の事だね」
だが思い出したかの様に話の方向を変える言を少女は言い放つ、抱いた疑問がそこまで気になる事ではなかった為にイチガは無言で応じた。
「きみが門の所に到着した時には、門は開いていたんだよね?」
「開いてたな」
今も鮮明に覚えている事であり、イチガは即答する。
「だよね」
その返答に少女は驚く事はなく、納得した様子を見せた。
「誰にも開けられる筈がないのに……どうして……」
しかし疑問の色で満ちた独り言を口にする。それが聞こえたイチガは「開けられない?」と呟いた。
「あ……聞こえてたんだね」
その声に対して少女は驚きを露にする。その反応から耳にしたら駄目な事を聞いてしまった事を自覚したイチガは考えあぐねて、言葉を失う。
「でもきみは契約者だから大丈夫だね」
だが突然明るくその様な事を言い切る。声は明るいが話している事が妙な言い回しであった事から「どういう事だ?」とイチガは訝しげに問う。
「今は説明できないね」
問いに迷う事無く問い返した少女は、更に驚いたイチガを尻目にそのまま話を続ける。
「いきなりこんな事を言うのも変だと思うけど、これから話す事は誰にも言わないでね」
少女から前触れなく卒爾な事を頼まれたイチガであるが、助けられた恩があり、相手側にも何らかの理由があると思った。
「分かった、誰にも言わない」
故に従う事を約束する。
「あの門に鍵があるんだよね」
いきなりの発言であるが門に鍵穴がある事を確認済みであった為に「使いそうな穴を見かけたな」とイチガは応じる。
「ならあの門が開いていたのは誰かがその鍵を使ったからか?」
「それはわたしも考えたけど、違うね」
自身の考えを否定されたイチガであったが、咄嗟の思いつきであった事から気にしなかった。
「時間的にもありえないんだよね」
次に口にした言葉の意味が分からなかったイチガは意味を訊ねる。
「時間的?」
「詳しくは今は言わないけどと、あの門の鍵を取り出すには一日掛かるんだよね」
「一日か、厳重に保管されているのか」
鍵が大事な物な印象を受けたイチガの言の葉に対して「そうだね」と少女は肯定する。
「魔力はもちろんだけど物理的な仕掛けもあるって主は言っていたね」
少女は明るい口調で語る。その内容に先から時折姿を現す気になる事が含まれていた為にイチガは訊ねる。
「さっきから主って言っているけど、人の名前なのか?」
先から口にしている『主』の意味をイチガは何となくだが察している。しかし知らない間に齟齬が生じる事は避けたいと思った為に聞く事にした。
「違うよ、裏で動く時は主と呼ぶ様に言われているからだね」
「裏……」
少女がさりげなく口にしたそれがどの様な意味合いがあるか分からないイチガだが深い暗闇を覗く様な感覚を抱いた。
「うん、わたしは裏側の人間だね、遷移したばかりで何も知らないきみと違って、わたしはここが立ち入り禁止な場所と知りながらいる。それが証拠になるかな?」
それは表に出る躊躇しかねない内容であった。しかし少女は屈託のない明るい声で言い切り、それを聞いたイチガだが驚きの感情が現れる事がなかった。
――なんで?
そんな自分自身に対して驚きながらも原因があると思い冷静に脳裏で思案する。すると思い当たる点が浮上する。
――時々言葉が乱暴なのはそれが理由か?
それなりに少女と言葉を交わしており、その最中に明るい声質に相対する様に言動が物騒。その様な印象をイチガは抱いていた。
――まあこの子は普通じゃないよな……。
その点を踏まえると少女がこの異世界の裏側に関わる人間である事を知った事に対して驚きが少ないのにも合点がいく事に気づけた。
だがあくまで自身の推測であり、それを正直に話すのは少女に失礼だと思ったイチガは「確かにそうかもな」と言葉を濁す事にした。
「それにそもそもわたしは契約者だからね」
そう少女は付け加える様に口にする。
「契約者だからか……」
少女が口にした言葉を反転する様に呟いたイチガは同時に抱いた事を話した。
「俺も契約者らしいけど……俺も君と同じ裏側になるのか?」
明るいながらも少女は真剣な様子であり、虚言に属する事を話している様子はなく、イチガも真剣に受け止めていた。故にそれを聞いた自身がどの様な扱いとなるかと考えての発言であった。
「強制はしないよ」
淡々と少女は応える。
「契約者だから強制的になんて主は言ってないからね、わたしも選ぶ様に言われたから……」
思い返す様な色で言い、その様子は儚げであり、触れたら崩れそうな雰囲気であった。
――聞かない方がいいな。
それが言葉に出さなくてもひしひしと感じ取れた。どうしてなのか分からないが少女にどの様な経緯があったのか気になっていたイチガだが、その様子から尋ねるのは駄目だと思えた。
「まあどんな事をするか分からないと考えようもないしな」
その為に思いついた場当たりな事を話して話題を変える事を試みる。
「どんな事……」
すると少女はイチガの言に応じる様子を見せて、一瞬静かになる。
「契約者なら問題ない事かな」
そして声が明るくなった。だが少女が口にした事の意味が分からずにイチガは困惑し「なんだそれ」と言の葉として表した。
「言葉どうりだね」
疑問に対して少女はさらりと答えるが答えとしてイチガは疑念を抱いて、それは顔に現れる、
「後々に分かるね……分からない方がいいと思うけど」
すると少女は追加する様に言い放ち、それを聞いたイチガは今は言う気がない事に気づいた。
「契約者か……俺が殺されかけてなかったら、契約者になってなかったんだよな?」
同時に気になった事があり、それを聞く為の前提条件を尋ねる。
「うん、きみを契約者にする気はなかったから」
「? その言い方だと俺以外ならしたのか」
悲しそうな色合いであったが言い方が言い方であった為にイチガはその点を突いた。
「…………」
すると少女は沈黙する。しかしそれは僅かな間であり、再び話し始める。
「少しだけどあの三人の誰かに渡そうかなって思ったんだよね」
「あの三人から、君は何を?」
三人組に対していい感情を抱いていないイチガはその誰かに武器を渡そうする発言に唖然となる。しかし「ちゃんと意味はあるよ」と少女は続ける。
「あの三人の誰かが契約者になったら、きっと大変だからね……契約者にした後にちゃんと殺すよ……他の二人もね」
冷静な声で少女はさらりととんでもない事を口にする。イチガは意図が一切分からない為に驚くが三人を皆殺しにすると口にした点には驚きはなかった。
「なんで契約者にした後に殺す必要があるんだ?」
故にイチガは少女の考えの意図に疑問の言を投げかけた。
「新たな契約者を増やさない為だね」
しかしながら少女はイチガを新たな混乱に繋ぐ言葉を口にする。
「増やさない……」
把握出来ない事を言われたイチガは更に驚いた。しかし少女の声は真剣なものであり、威圧感を抱かされる為に下手な事を言う気も起きなかった。
「気になるかも知れないけど……殆ど過ぎた事だから後で話すね」
そう少女は今の話を打ち切る事を宣言。少し言い方が気になったイチガだが頷いて応える。その動きを解と受け止めた少女は「ところできみは何を聞きたかったのかな?」と先の話をする事を促し、その流れに乗る形にした。
「俺がもし契約者じゃない時に地下で君と出会っていたら、どうなっていたのかなと思ってな」
もう存在しない未来である事は承知のイチガであるがその様な道筋があった場合、少女がどう動くのかが気になった。
「きみが普通の人でわたしと地下水路で出会ったら……」
イチガが言いたい事を要約しながら少女は考える仕草を見せた後に答えた。
「とりあえず言える事はきみは地下水路にはいないね、気づいたら別の場所って感じだね」
明るい声で告げられたイチガは「いない?」と疑問を出しながら首を傾げる、しかし少し考えると少女が何を言いたいのか、自ずと理解出来た。
「もしかして俺はきみに出会う事ないままに気絶しているのか」
少女の言い回しはまるで自身の意識が無くなる事を前提にしている事から、その考えに辿る。
――間違いないだろう。
心の内で確信していたイチガであったが対照的に少女は「その……」と言葉を詰まらせる様子を見せる。
それを見て、またやらかしてしまったと後悔の感情が浮上したが……
「うん! そういう事だね」
しかし明るい様子に様変わりしながら少女は返答した。
その変容や明るい様子で自身を気絶させる事を肯定する姿にイチガは予想していた答えであったが返す言葉を探せなかった。
「……あの」
その様子を見て、自身の異様な言い回しを気づいたのか気まずそうに一言呟いた少女はそのまま言葉を紡いだ。
「詳しくは言えないけど、わたしにも色々あるんだよね、ごめんなさい」
「別に謝らなくていいさ、俺が聞かなくていい事を聞いた事が原因だからな」
そう断言して、イチガは自身が撒いた話を終わらせる。
「けど、見る事になるかもしれないね」
その最中少女が独り言を口にしている事に気づいたイチガだがあまり聞こえなかった為に気に留める事はしなかった。
「実はわたしこういう時に人と話すの初めてなんだよね」
少しの間を挟んだ後に少女は唐突にそう口にした。
「こういう時ってなんだ?」
話を合わせる事にしたイチガはとりあえず話した内容の意味を問うた。
「自身が契約者である事を明かした事だね」
少女は粛々とした色が乗せられた声で語った。しかし特に重要な事だと思えなかったイチガは「それだけで?」と疑問の声を発した。
「それだけの事かもしれないね、だけどわたしにとっては初めてだから」
再び少女が口にした『初めて』という言の葉。一度目は軽く聞いていたが二度目の言の葉となると自然と意識する。そしてその言の葉に含まれる意味をイチガは汲み取る事が出来た。
「契約者である事は誰にも話したら駄目なのか」
イチガの言葉を肯定する様に少女は頷いた。
「そうだね、契約者になって一年経つけど明かしたのはきみが初めてだよ」
先に一度意味が近い言葉を口にしていた事を覚えているイチガだが、今回は先とは全く違う意味に聞こえた。
「なら俺以外にきみが契約者な事を知っているのはいないのか?」
「それは違うね、明かしたのが初めてなのがきみ、それだけだから」
「つまり君が明かす前から契約者である事を知っている人がいる。そして明かした人は俺が初めて」
イチガが確認する様に呟いた言葉に少女は相槌で答える。
「なら契約者である事を隠して過ごすのは難しくないのか……」
この世界出身であるか否かの差があるが、今の自身は少女と同じ立場である。そう安直に思った故の発言であった。
「そうだね」
少女はその発言を肯定的に捉える様子を示した。
「ならよかった」
現状の所、契約者になった事には文句が一切ないイチガだが、面倒事は出来るだけ避けたいと抱いていた為に安心する。
「この土地の温度なら契約の楔を見せる事とかも起きないからね」
しかし唐突に惑わす様な事を少女は口にした為にイチガは何の事を言ったのか尋ねた。
「契約の楔?」
「あ……うん、この事は先に話した方がいいね」
イチガの疑問に対して少女はそう言い切ると自身の手に視線を向ける様な仕草を見せる。
「わたし達、契約者の身体に刻まれた印みたいなものかな」
「刻まれた印?」
その様な事を言われたイチガだが身体に違和感が一切存在しない為に疑問を抱いた。
「感覚的には普段と変わらないから気づくのは無理だと思うね」
そう言いながら少女はおもむろに右手を包む手袋を外した。
外気を拒絶するかの様に衣服で全身を覆い尽くしている。それが今の少女の身なりを言い表すには相応しい言葉である。
その身なりの少女しか知らないイチガにとって、それが初めて肌を直に見る機会となった。しかし然して気にする事はなかったのだが――
遮るもの無き夜の空に停滞する光を帯びた月を思わせるきめ細やかな――それでいて太陽を浴びているかの様な健康的色合いな白い肌の右手。
「――――」
それが少女の右手であり、心構えを一切せずに見たイチガは見惚れてしまい思考と身体を制止させる。
「?」
それを見た少女は不思議だと感じたのか、言葉を止めて首を傾げる。
「どうしたのかな?」
「え……何でもない」
今抱いた感情を言葉として表す事、それを少女に直接伝える事は出来ないと思えたイチガは適当な事を棒読みな口調で言いごまかす事にした、
「そうなんだ」
特に気にする事柄ではなかったのか、それ以上踏み込む事なく少女を話を再開する。
「これが契約の楔だね」
少女が右手を前に出した瞬間、輝く赤い粒子が右手の中心部に灯される。それは六本の細い線となって奔り、五本の線は指に張り巡らされる。残った一本は手首を伝い衣服で隠された部分に消え去った。
「なるほどな」
自身の世界では直で見る事が不可能な現象を目前で見る事になったがその反応は淡泊なものであった。
反応とは対照的にイチガは驚いている。だが目前に存在する、少女の素肌を始めて見た動揺は未だに残っており比べるとそこまでの驚きがないのが実情であった。
その反応は想定範囲内だったのか、少女は特に気にする様子もなく手を軽く振る。すると粒子が霧散、そして再び手袋を身に着けた。
視界に惑わすものが去り動揺が静まり、ひとまず今思った事を口にする。
「俺も同じ事が出来るのか?」
契約者なら同じ事が出来る様な言い方であった為、イチガは訊ねた。
「うん! 出来るには出来るよ」
問いに明るく答える。だが含みがある言い回しだとイチガは感じ取る最中、少女は言葉を続ける。
「けど契約武装を出す感覚と似ているから、今のきみが出したら、契約武装も出てくるかもしれないね」
その様に少女は話した。そしてその意味をイチガはすぐに理解する。
「ここでは契約武装を出現させるのは駄目だから、俺がやったら駄目って事だな」
「そういう事だね」
少女の回答を聞いたイチガはこの場で試す事を断念した。その代わりに気になった事を訊ねた。
「君の手出ていた赤いあれが魔力なんだよな?」
「うん、わたしの魔力だよ」
「なら魔力の色は赤なのか」
単純に思った事をイチガは口にする、だが「違うね」と少女はやんわりとした語調で答える。
「違う?」
「うん、基本的に魔力は無色で、何らかの要素が加わって、色が加えられるみたいだね」
「つまり、人間だから魔力が赤になるのか」
「それは少しだけ違うね」
「少しだけ?」
「人間だから魔力の色が変わるのは間違いないけど、基本的には白になるみたいだね」
「なら契約者が関わって?」
イチガの問いに「契約者は」と反応する少女。しかし口を閉じて考える仕草を見せたが再び口を開いた。
「違うね、契約者も基本的に白だと思うよ」
と言い切った。しかし確信がないのか、不鮮明な声であった。何故かと思ったイチガだが、少女の魔力の色が赤い理由の方が気になった為にその事を聞こうしたが少女はそのまま言葉を繋いだ為にそれを聞く事にした。
「わたしの魔力が赤い理由は髪色だね」
「髪色か……それで個人差が出るって事か」
「うん、髪の色が関係しているみたいだよ、だけど魔力の色は白が多いね」
――ならこの子の髪色は赤系統なのか?
赤と口にしたイチガだが純粋な赤とは色合いが異なると抱いていた。しかし色彩に詳しくない事から、表に出す事を避けた。
「だから、きみの場合は黒か白だね」
「まあそうだよな」
髪に触れながらイチガは応える。
「しかし肌から白か黒い模様か、目立ちそうだな」
理由が未だに明かされていないが契約者である事を周囲に秘密にするべきと暗に言われているイチガは思った事を口にする。
「身体が無事なら顔に出る事はないから心配しなくていいと思うよ」
少女は助け船を出す様な声色で話しかけるが、言っている事が不穏な事からイチガは眉をひそめて、真剣に言葉の真意を確かめた。
「無事なら……どういう事だ」
イチガが鋭い声色を放った刹那、少し驚いた様子を見せた少女は反射する様に恐縮した声色で「ごめんなさい」と口にする。
その最中にテーブルに手を付けていない状況でありながらも置いてあるコップが揺れ、中の水が激しく波を打つ摩訶不思議な状況になっている事に気づいた。
しかし怯えさせる意図が一切ない事を伝える事が最優先だと考えていた為にその光景は脳裏を過ぎ去った。
「別に怒っているわけじゃないから」
出来るだけ優しい声でイチガはそう口にすると少女は水を一口含んだ後に喋り始めた。
「契約の楔は手だけじゃなくて全身に現れるんだよね」
その様に説明された瞬間、脳裏に浮かぶのは白い手に浮かび淡く光る赤い線であり、それは少女の腕に向かって奔っていた。それを鮮明に記憶していたイチガは「そんな感じだったな」と呟いた。
「詳しく言わなくてよさそうだね」
その言葉に少女は反応する。それを聞いたイチガは微妙な気持ちとなり――
「それが何なんだ?」
話を先に進めそうな言葉を口にすると少女は説明を再開しした。
「全身に現れると言ったけど契約の楔は顔に現れる事がない。それはきみにも分かるよね?」
真面目な口調で言われたイチガは頷いて応える。
未だに少女の顔を直接見ていない。しかしそれでも顔が先の手の様に赤い輝きを放つ動きを見せたのなら、何らかの変化に気づいていると思えたからであった。
「だけど、身体の一部を失うと契約の楔は残った身体に移植されるんだよね」
「移植? どんな感じだ」
そう言われたがイメージが湧かないイチガは疑問を口にする。
「離れ離れになった部分の契約の楔が粒子になって身体に入り込む感じだね」
すると少女はあっさりと説明した。
――もしかしてこの子、昔身体を……。
その話を聞いたイチガは少女は何かが原因となって身体の一部を失った経験がなければその様な事は話せないと判断した。故に深く追求する事は避ける事にした。
「つまり粒子が顔に入り込む事があるって事か」
その為にイチガは少女が言いたい事だと思われる結論を早々に口にする。
「そうだね、驚いたよ」
少女はイチガの言葉が正解であると返すと同時に実際に見た事がある様な事を口にする。
「だから楔なんて言われているのかな……」
何所か呆れた様な声調で少女はそう口にする。それに対してイチガは疑問を浮かべる。それに気づいたのか自ずと口を開いた。
「見た目だけなら、契約の模様とかの方がいいかな、なんて思ってたんだよね」
「まあ確かにそうかもな」
「だけど、離れた腕の楔が身体に移動したのを見たから分かったんだよね」
「分かった?」
「うん……楔は身体を離れる事ない、終わるまで楔として残り続ける……その事に」
――本当なら永遠に消えない。
――呪いみたいだな。
淡々と述べられた言葉を聞いたイチガは、脳裏でこの世界に存在するか分からない事を考える。だが同時に消える事が決してない模様が身体に残り続ける。自身は常時浮かび上がる訳ではない為に、気にならない。しかし少女はその事を気にしている様な素振りを見せている事からどう返せばいいのか分からずに口を閉ざす。
「だけどね」
しかし少女は先に口を開いた。
「けどそんな事、今考えても仕方ないよね!」
明るく元気に少女は断言する。その語調に虚言な要素を感じなかったイチガはその言葉に共感出来た事から「そうだな」と言葉を返した。
「この土地の温度とか言ってたけど」
話が一区切り出来たと思えたイチガは少女が話した事で今後に関わりそうな事を訊ねた。
「もしかしてここって一年中寒い場所なのか?」
契約の楔の輝きは衣服で隠す事が出来る。既にそれに気づいていたイチガは契約者が過ごすのに都合がいい状況は自然と素肌を隠す状況を生み出せる、凍える程寒い環境が常に根付いた場所だと思えた故の発言であった。
「うん! もうわたしはこの町に遷移してから一年経つけど、暖かい日は一度もなかったから、きっとそうだね」
すると少女はイチガの言の葉に合意した。
「そのお陰で契約の楔をいつも隠す事が出来るね」
そしてイチガが予想していた事を続けて口にした。
「毎日マイナスの気温か」
寒い地域で暮らしてい為に慣れているが一年中寒い期間を過ごした経験がない為に不安を漏らした。
「まい……なす?」
その言葉に含まれた言葉を聞いた少女は不思議そうな様子を見せる。
――マイナスは通用しないのか。
――ならプラスも駄目そうだな。
その様子から常用していた言葉が通用していない事に気づいたイチガは今後使わない事を決める。それと並行して別の話題を話すと決める。
「何でもない……それにしても鞄は見つかるだろうか」
「鞄」
少女も鞄に関して気になるのか、興味を持つ様子を見せた事からそのまま話したい事を話した。
「まだ地下にあるのかどうか」
先に少女に話したとうり、自身が地下に来た理由は盗まれた鞄を取り返す為であった――だが一度気を失ってしまっている事から盗まれてから時間はそれなりに過ぎている。
時間を計る物がない為に正確な経過時間こそ分からないがそう抱いていたイチガは鞄を取り返す事を諦めかけていた。
「気を悪くしたらごめんなさい」
そんなイチガに対して少女は申し訳なさそうな様子で話し始めた。
「きみの鞄なんだけど――」
――もう何処にあるか分からないんだろうな。
既に諦めの境地のイチガは軽い気持ちで少女の言葉を受け止めようと考えた最中――
「原形があるか怪しいね」
「はぁ!」
予想不可能な事を論無しと言わんばかりな声風で少女は口にして、イチガは驚きを露し、どういうなのか聞こうとするが……
「ちゃんと話すよ」
イチガの反応は想定範囲内だったのか、少女は落ち着いた様子で言う。
「分かった」
それを見たイチガは毒気を抜かれた気持ちとなり、従う事にした。
「きみも橋を渡ったよね?」
説明に関する一言目はあまり鞄と関係なさそうな事であった。しかし何がどの様に繋がるのか分からない事から、疑問は心の中に封じ、イチガは「渡ったな」と答えた。
「その先に血溜まりがあったよね?」
『血』に関わる単語を臆する事なく少女は口にする。それを聞いた同時に、イチガの脳裏に組み立てられるのは血に浸した事によって真っ赤に染まる自身の手であった。
「!」
その光景を思い出すと同時にイチガは全身の血の気が引いた感覚を抱く――されどもそれは刹那の狭間だけであり、感覚が即座に元通りになった。
――何で。
――いくら何でもおかしいような?
自身を強く動揺させる感情の変化、それは気づいたら一瞬で部屋の物が問答無用で全て勝手に片づけられ、処分されている様なものであり、その変化に対してイチガは知らない何かに操られている様な薄気味悪さを感じた最中――
「血を見た事を何も感じなく自分は何なんだろう? そう思ってるよね」
少女はイチガの心境を直接覗いた様に断言する。
「なんで……分かる」
あまりにも的を射る言葉であった為に言い訳する事なくイチガは素直に驚きを露にする。
「同じ契約者だからね、きみの気持ちは分かるよ」
理由を明かされたが、イチガはまだ契約者に詳しくない為に驚きの感情よりも困惑に感情を傾けている。
だが説明不足である事は少女も重々承知であったのだろうか?
「契約者の事は後で本当に話すから」
と困惑に対する回答をイチガの動きよりも先に伝えた。
「分かった」
今話そうとしている事と契約者の話は噛み合っていない事からイチガは承諾すると少女は再び口を開いた。
「それできみは疑問を感じなかった?」
深い意味が入り込んでそうな声風でその様な事を少女は語る。
「疑問?」
「どうしてあの場所に血溜まりがあったのか? とかだね」
「……言われてみればそうだな」
血溜まりを見つけた当初はそんな事を思考する暇等、イチガには一切ない、しかしそれを差し引いても気づけたか怪しいと抱いており、盲点であった。
「何もない所から、血が溢れる現象があったりとか」
何となく口にした言の葉であるが少女は苦笑交じりに「それはないね」と答え、発言したイチガは「それは流石にないか」と本気ではなかった事から流す事にすると脳裏を整理する。
「あ……」
すると即時に答えが浮かび上がった。冷静に考えれば簡単な事である。無から血液が姿を見せる事がないのなら、その大本はイチガよりも先に地下空間に足を踏み入れた者達――
「あの三人組の内の誰かか」
冷静な声で少女に尋ねる。それは人が多量の血を流して倒れている事を意味しているが、イチガは気に留めようと――そもそも気が留めようとさえ考えもしなかった。
「うん、一番大きな人だね」
「仲間に暴力を振るってた奴か」
口にすると同時に脳裏に姿が映し出される、だが地上で抱いていた恐怖の感情が一切湧く事はない。何処にでもいる一般人を見てる様な気持ちであった。
――これも契約者になった事と関係が?
短時間でここまで一人の人間に対する心境が変わる事はおかしいと思った。そして契約者が関わっていると思えたイチガであったが、今は鞄の行方が優先であり、疑問は心にしまい込む事にした。
「きみは自身が死にかけたから気づいていなかったけど、きみの近くで死体になってたね」
風景の事を話す様な口調で『死体』と少女は口にする、近くに人間の死体が倒れている状況に遭遇した事が無い為に反射的に身体が震える。しかし驚きはそれだけで済まされる。
「なんで死体に」
故に死体に関心が届く事はなく、イチガの注目は死体が生まれた原因に向かう。
「もしかして、俺を襲ったあれが」
脳裏に浮かんだのは、手に血が塗られた事に気づいた後に自身の腹を貫いた何かであった。
「っ!」
その存在を思い返すと同時にその時の状況を再演するかの如く、腹部に痛みが響いた。
「うん、周囲に切り裂かれた跡があったから、きっとそうだね」
少女はイチガの推測を肯定、そのまま言葉を繋げた。
「それできみはあれはなんだと思う?」
唐突に言われたイチガであったが、その点を指摘されると気になる為に思考を巡らせる。
――駄目か。
だが暗闇の中の遭遇であった事や視界に入ったのが一瞬で確認できたのが頭部だけであり、得ている情報が何もないも同然であった事からイチガは「分からないな」と愚直に意思を示した。
「きみを襲った者のは」
すると少女は真剣な語調で正体を語る。
「人間だね」
「はい?」
耳に入り込んだ言葉の羅列は一言聞いただけではとてもではないが信じられるものではなく、イチガはすっとんきょうな声を出した。
「信じられないよね、わたしも今日まで疑ってたよ」
口にした本人である少女も少女で眉唾な事だと思っていたと語った。しかし気になる事を付け足していた為にイチガは言及する。
「今日までとか言ったよな? なら君も今日まで見た事が無いのか?」
「そうだね――」
落ち込んだ少女は答える。それを聞いて「君もなのか」と口にする最中に「ならあの時の臭いは」と少女は冷たい声色で口にするが言が重なった事によってイチガの耳には届かなかった。
「じゃあ元となった人間がいる……」
状況から推測できる事を伏し目で考えながらイチガは口にする。
「…………」
その様子を少女は無言で見ている。視線を感じたイチガは視線を上げる。
「何か言いたいのか?」
抱いた感覚を正直に話したイチガに対して「少し驚いてね」と少女は淡々と語る。
「驚く? 俺にか?」
「うん、わたし達には関係ない事だけど……人が人で無くなるんだよ……」
「……そうだな」
哀情が乗せられた声で指摘されたイチガは、既に知っている展開であった為、現実で起きている現象であるのにも関わらずに軽い気持ちで受け止めた事を反省する。
「あ……うん……ごめんなさい! そもそもわたしが強く言える人間じゃないから」
自身の言動を悔いる様な事を口にする少女に対して「俺の問題だから」とイチガは語る。
「きみ自身の問題?」
その語りを真に受けた少女は疑問符を頭に浮かべる様子を見せて、数秒沈黙した後に再び喋り始める。
「もしかして、きみが遷移する前にいた場所では人が人で無くなる事がよくある場所だったとか」
――それは絶対ない。
イチガは少女の推測が耳に入ると即時に心の内で否定する。しかしそれは心の内に留めておくと決めていた。
――空想の世界で知ったなんて言えないな。
現実では絶対に起こりえない人の想像によって綴られた物語、それが自身の知識の源である。何も知らない者が傍から聞くとふざけているとしか言えない事を選択できる空気ではないのは先の少女の様子から重々承知していたイチガは……
「正直分からないけど、俺の故郷はそんな所なのかもしれないな」
少女の言葉を軽く肯定して話を流す事を選択した。
「地域によって、原因が無くても起きる事があるのかな……」
イチガが言った言葉を受けた少女は呟きを口にする、それが耳に届いたイチガは気になった単語であり、その部分を訊ねる事にした。
「人の姿が変わるのに原因があるのか?」
「うん、原因はあるよ、きみは何も理由なく人が変わると思ってたのかな?」
面を向かって言われたイチガは、そう指摘されると正論であると受け止める事が出来た為に「言われてみればそうだな」と言葉を返した。
「なら……」
そして先の反省からその理由をしっかりと聞きたいと考えたイチガは言葉を続けようとするが……
「もう行かないと駄目だね」
少女はその言葉を遮り「原因は後でちゃんと話すから」と言葉を付け加える。
「行く? 何処に?」
いきなりだった事からイチガは言葉を切り替える。
「……主の家だね」
少女の言葉に対して「唐突だな」とイチガは未だに抱いている感情を入れた言葉を口にする。
「そうだね」
自身の行動の唐突さを自覚しているのか、笑みの色を含めて応えた少女は「けどちゃんと理由はあるよ」と話を続ける。
「実はきみとここで話していたのは、時間を待つ為だね」
全く考えていなかった事の為に言われた刹那に気づく事となったが指摘されるとこの場で長く会話を続ける理由は特にない。先に襲われた経験からその答えを導き出せたイチガは「成程」と口にするが……
「だけどね――今言った事はほんとうだけど、きみとここで話せたのは……楽しかったね」
そう少女は照れくさそうに口にする。
前触れもなく言われたイチガは面を食らう。しかしその言の葉の意味はすぐさまに理解出来て同調出来た為に「俺もだな」と躊躇する事なく返した。
「そうなんだね!」
それを聞いた少女は嬉しそうな声を出したがその直後に咳払いをする。
「もう手早く済まさないとね」
話の脱線を防ぐ動作であった事を理解したイチガは何も言わず少女の動向を見守る事にした。
「一つは……実際に見た方が早いね」
と、少女は言う。その根拠が分からないが、同時に何の事を話しているのか欠片も分からない為、イチガは沈黙して受け止めた。
「二つ目は……ラットが離れるのを待つ為だね」
「ラット?」
聞いた事が無い為にイチガは何の事かと抱くと、それを待ってた様に少女は語る。
「鼠の魔獣だね」
「鼠の……魔獣……」
どの様な存在なのか見た事ないイチガであるがいい予感がない為に嫌悪感を込めて口にする。それが伝わったのか「きみが浮かべた感じだね」と少女は話す。
「俺が浮かべた……もしかして大きな鼠か?」
「うん、小型の個体は人の子供で中型は人の大人くらいの大きさだね」
――大型もいるのか?
少女の話を聞くと同時に現れた脳裏の映像から妄想したイチガであるが心で首を振ってそれを掻き消した。
「それでラット……魔獣には色々と共通した生態があるんだよね」
「生態?」
「生き物の血や肉が好物で引き寄せられるんだよね……人の血や肉を特に」
少女の語りを聞いた瞬間、血塗れとなった手が脳裏を過ぎる、それと同時にある可能性が浮かび上がる。
「もしかして……俺が死にかけた場所の近くにはラットが」
ラットが地下水路にいるとは一度も言われていないが会話の流れからこの地下水路に生息していると推測したイチガの言の葉に少女は頷いた。
「近くにはいなかったけど少し歩けば着く場所にはいたね」
「俺は本当に運が良かったんだな」
地下水路に到達すると同時にラットの群れに襲われて喰い殺される。その様な最悪な未来がありえると、状況から気づく事が出来たイチガは深く息を吐いた。
「近くにラットがいたんだよな? なら俺の血は」
多量の血を流した感覚があったイチガはその末路を訊ねる。
「群がるラットに喰い尽くされていたね、近くにあった死体共々……」
淡々と少女は事実を告げる。それを聞いたイチガは「そうなるよな」と今迄の説明の流れから納得する。
しかしもっと強い感情を抱かないと駄目だとも今迄以上に強く感情を抱いた為に「やっぱり俺は変だ」と腑に落ちない感情を表に零して音が聞こえる程、強く拳を握る。
「――理由が知りたいよね」
そんなイチガを心配する様な声色で少女は何かを話そうとする。
「いや、いいよ――急ぐんだろう?」
時間が押している事を知っていたイチガは気遣いを遠慮しながら立ち上がる。
「うん、そうだね」
「血が流れてから時間が経過しているから、近くにラットはいない筈だよ」
この場所で時を待った理由を語りながら少女は立ち上がると双方が使用したコップを片付けた。
「こっちだね」
そう言い、少女は閉め続けていた扉を開けた刹那――
「!」
妙な感覚が全身を駆け巡る。
――これって起きた時にも!
既に知っている感覚である事に気づきながらイチガは身構えた。
「何だ?」
しかし不測な事は起きない為に前を見る。そこには開いた扉を背に微風に揺れる少女が立っており、無言でイチガを見ている様子であった。
「わたしのだから大丈夫だね」
意味深長な声風で話すとイチガが口を開く前に扉を潜る。
「大丈夫って……何の事だ?」
少女の変わった行動を見た事によって、頭を冷やされたイチガは周囲を見渡した。
「明かりを消すスイッチは無しか」
部屋を去る際なら明かりを消した方がいいと思ったが消す手段がない事に気づいた。
「消えないか」
そう呟きながらイチガは明かりの源に視線を向けた須臾――明かりが消えた。
「え」
心の準備なしに暗闇に放りこまれたイチガは短い声を出す。
「――何で」
驚愕するが周囲が安全でない事を教えられていたイチガは急いで少女の後を追おうとしたが――脳裏を過ぎる疑問が身体を鈍らせる。
――そういえばこの場所はどうして安全なんだ?
その最中、立ち去ろうとした建物に魔獣が寄り付かない。その根本的な理由に対する疑問が頭を過ぎる。
「あの子の所に」
現れた疑問を自身で解決できない以上、少女に聞くしかないと思考したイチガは扉を潜り、先を進む事にした。