第五節【記憶喪失】
「ん?」
初めて感じる妙な感覚が身体を過ぎる。それと同時にイチガは寝ぼけた声を上げていた。
「あれ?」
目が開いた感覚と共に意識が覚醒した事にも気づいた。
「寝てたっけ?」
身体は横になっており、床に寝転んでいる形であった。どうしてこうなったのか覚えていなかったイチガであったが困惑しながらもとりあえず身体を起こそうとした。
「!」
だが腹部よりちょっとした痛みが起こり、反射的にその部分に手を当てる。
「腹は無事……」
反射的に口から現れたのは妙な羅列な言の葉。
「俺は何を……」
自身が口にした言に困惑した刹那、脳裏に過ぎるは大口を開ける狼の顔――それが浮かぶと同時に何が起きたのか完全に思い出した。
「そうだ! あの時」
間違いなく腹部を貫かれた感覚があり、身体を確認する為にも視線を腹部に向ける。
「無事か」
映るのは着ているコート。それは破損が一切ない。
「普通に考えたら見なくても分かるか」
仮に腹部に大きな穴が空いている状態であるなら、動く事そのものに出来なくなり、死の淵に立たされる。腹部に穴が空いた経験が一度もないイチガであるが、その様な事を想像する事は安易である為、身体が無事である事に安心した。
しかし突っかかる様なちぐはぐな何かがあり、数秒思案するとそれが何か浮かび上がる。
「何で破けてない?」
着ているコートは傷が一切ない。そして身に着けている制服も確認するが何処も破損はない。血も一滴もこびり付いていない。
「なんなんだか」
もはや思考が追い付かないと心中に抱き始める。
「それにしてもここは?」
そう口にしながらもイチガは気晴らしにと周りに視線を送る。
周囲は木造で構築されている小部屋であった。家具は木製の椅子が四脚と卓子が一台だけであった。
扉は二枚あるがどちらも閉ざされている。
そして口を閉じると一定周期で動く何かの音が微かにだが部屋に響き渡る。
「水車がある建物か」
聞き覚えがあり、イチガは即座に水車の音であると看破する。
「あれが光の正体か?」
部屋は暗闇の中にはなく、程よい輝きで照らされており、イチガは光源に視線を向ける。
天井から繋がる糸によってぶら下がるのは米粒程度の大きさの透明な何かであった、中心には黄色い光点があり、そこから光が放たれていた。
「結晶とか硝子とかか」
思い当たる物体を口にした後にイチガは数秒間だけ沈黙する。しかし沈黙しても意味がないと気づいた為に声を放つ。
「やっぱり変な感じがする」
起きたと同時に気づいた妙な感覚。
「周囲に何かある。そんな感じか」
それは生まれて初めて抱く感覚であった。
「意味が分からない……瀕死になった事でなんかに目覚めたのか」
他者に聞かれたら恥ずかしい言葉を口にしている事を自覚しながら、立ち上がろうと瞬間――物音が部屋に響き渡る。
「!」
先の出来事が原因で警戒心を強めていたイチガは一瞬で立ち上がり、音が鳴った方向に身体を向ける。
「あれ」
自身の動きが機敏であり、それに疑問を感じたイチガであったが――
「起きてくれたんだね!」
突如聞こえた嬉しそうな少女の声と同時に視界に映された人物の姿によって疑問が上書きされてしまった。
洋紅色のコートにロングスカートを身に着けてた少女、それが開いた扉から姿を現した人物であった。こんな場所で再会すると考えもしない為に面を食らうが何かが足りないと何処か違和感も感じる。
フードで顔を隠している状態であるが、その姿含めて見覚えがあったイチガは……
「君はあの時の」
思わずその様な事を口にしてしまう。
「うん、あの時のだね」
対して少女は即座に肯定の意を口にした。それを聞いたイチガは僅かの間であるが言葉を交わした相手が目の前にいる事に安心感を抱いたと同時に反射的に浮かび上がったある事を尋ねた。
「何で君がここに?」
いつの間にか目の前から姿を消していた事から、その足取りを予想が出来ない。そんな少女とこんな所で再会するとは思っていなかった。それがイチガが抱いた疑問であった。
「――――」
その言動が過ぎると同時に少女は静まった後に返答した。
「わたしは確認の為」
「確認の為?」
曖昧な答えである為に思わず聞き返したイチガに対して「色々ね」と答えるとそのまま言葉を繋いだ。
「きみこそどうしてこんな所に」
自身が口にした事と類似した事を少女は聞いてくる。
「俺は盗まれた物を探す為だな」
目的がはっきりとしている為にそれを伝える事にしたイチガは何を盗まれたのか言おうとする。
「鞄が盗まれたんだね」
しかし既に少女は気づいていたのか、イチガが言う前に盗まれた物を言い当てる。
「分かるのか」
口にする前に言われて驚いたイチガに対して少女は頷いた。
「初めて見る鞄だったから、印象に残ってたんだよね」
そう言われた瞬間、先から少女に対して違和感を感じていたイチガはその違和感の正体に気づく事が出来た。
「そういう君も……大事にしていた持っている物が見当たらない様な?」
袋で包まれていた細長い何か、目の前の少女が持つには少々不釣り合いであり、触れようとした瞬間に大声で触れるなと言われていた事から、強い心証を抱いていたイチガは不図尋ねた。
「あ――」
その言葉に対して、少女は今迄とは異なる色の声が漏れる。
――駄目だったか……
それを聞いた刹那に嫌な予感が心の内を駆け巡り、イチガはとりあえず謝ろうとするが……
「あの時はごめんなさい!」
それよりも先に少女の謝罪の言葉が飛び出す事となった。
「――――え?」
予想だにしない事態に対して、イチガは唖然としてしまう。
「そうしない駄目だったけど――驚かせてしまって」
「まあ確かに驚いたけどさ、俺は別に怒ってない、逆に大事な物に触れようとした俺が悪いかと」
とその時の所感を口にしたイチガに「違う」と少女は反応する。
「違う?」
「あれは大切な物なんかじゃない――きみを助けるのには使えたけど」
そう話した少女に対して「なんだそれ?」とイチガは口を挟んだ。
「俺を助ける? 何を言って――」
言の葉の流れが右往左往して全く繋がらない為に首を傾げそうになっている事をイチガは口にする。
「ちゃんと話します――それがわたしがきみにする責任だから」
それに対して真剣な声風で少女は応じる。
――責任?
事態がどの様な方向なのか全く分からないイチガは疑問を感じるが、少女が冗談を口にしていない事は分かる為に頷いて応えた。
「その前に座ろう? 多分長くなるから」
そう口にした少女は、近くにある椅子……ではなく、何故か現れた扉とは違う扉を開けて、その中に入った。
「?」
言葉と行動が一致しない故に疑問符が浮かび上がったイチガであるが少女はすぐに戻ってくる。
その両手には透明な液体が入ったコップがあった。
「喉が渇いたから、水だけどきみも飲むよね?」
そう言いながら少女は椅子に座る、イチガも続く形で椅子に座る。それと同時に少女は水を飲んだ。
「いつもの味」
その様子を見たイチガもコップに口を付ける。
「普通の味だな」
喉を通るその感覚はいつも飲んでいる水と何も変わりなく、イチガは愚直な感想を呟いた。
「地下水路から汲み取ったのを濾過した水だね」
その言に少女は反応を返す。
「濾過した? そのままだと飲めないって事か」
「飲む事は出来るよ」
推測とは違う答えが返ってきた為に「なら意味ない気が」とイチガは口にする。
「飲めるけど、凄く味が濃いんだよね」
「濃い? どれくらい」
「一滴舐めればその日の食事が入らなくなるぐらいかな」
と少女は言いながら、少女は困ったような色の笑みが含まれた声を出した。
――飲んだ事があるのか?
その様子を見て少女が濾過していない水に手を出している事を察する。しかしその事を指摘する気は起こらなかった。
――だけどどう見ても普通の水だよな?
だが橋から時折、地下水路覗いた故に、疑問が湧き上がる。流れている水は普通の水であり、その様にしか認識出来なかった。
故にその事が気になったイチガは訊ねてみようとしたのだが――
「水なのに味があったり濃いのはマナで満たされているからだね」
少女はイチガの思考を先んじる形で言葉を口にする。
――マナか……創作の世界ではよく耳にするから想像はできるにはできるけど。
しかし現実の世界では初めて聞く事になる。その事を言いそうになるがそれを口にすると怪しまれると思い、言葉を一度呑むと、単純に「マナ?」と聞き返す事にした。
「生物や自然、あらゆるものに宿ると言われている何か――森羅万象を司ると言った方が伝わるかな?」
「まあ大体理解できる」
少女が自身に何を伝えたいのか分かったイチガはその旨を伝える
――森羅万象か。
――似た国でもあるのか?
それと同時に少女の口から聞き覚えがある言葉が現れた事に驚きがあったイチガであるがそれ以上にある疑問が現れた為にそれを尋ねる事にした。
「何で説明してくれるんだ?」
聞きたい事を説明してくれる為にありがたいと思う反面、出会って間もないのに親切すぎると違和感を抱き始めた為の質問であった。
「うん――やっぱり気づいちゃうよね」
その問いに対して肯定の問いを添えた少女は言葉を繋げる。
「実はわたし、確信しているんだよね」
「確信? なにを」
少女との関係は会遇であり、意図的な出会いでは決してない、故に確信を得る様な何かが成立しているとは思えなかったイチガは胡乱に尋ねる。
「違ったら本当にごめんなさい、きみは――この土地の人間じゃないよね?」
気づいたら、この世界に立っていた。それはイチガにとっては当然の事態。されどもその事柄は、自身の胸の中に秘めており、未だに誰に対しても話していなかった――故に問われる可能性を思案していない、故に表情は驚愕が描かれて、沈黙しながらも事実であると肯定する事となった――だが同時に違和感も感じ取る。
「――やっぱりそうだったんだね」
「まあそうだったんだけど」
突然の事故に動揺を隠せていないイチガであるが疑問も浮かび上がっており、問う事にした。
「どうして分かったんだ?」
それは当然の疑問であった、何せイチガは一度もこの世界が出身地ではないと誰にも自身の事情を話していない。
「一番の理由は親近感を感じたからだね」
「親近……感?」
前触れもなく言われた事が耳に入ったイチガは首を傾げる、それを気にせずに少女は言を繋げる。
「わたしもきみと同じ、この土地の出身じゃないんだよね」
「そうなのか!」
少女からのまさかの発言にイチガは驚愕を露にする。
しかし数秒後、発言が『この土地』である事にイチガは気づいた。
「この土地だよな?」
改める形のその確認の問いに対して少女は頷いて応えた。
――ならこの子、この世界出身なんだよな?
故に異世界に転移してしまった自身とは事情が大きく異なる。その様にイチガは抱いた。
「なら君や俺以外にもいるんじゃないのか?」
この世界がどの様な世界なのか分からないイチガであるが土地から土地の移動はそこまで難しくない。そう考えての発言であった。
「わたしも――今から一年前にこの土地に遷移した時は同じ事を思ったかな」
昔を思い出すかの様な口調でその様に話した少女に対して「君は一年前なのか」とイチガは声を漏らす。
「うん――だから主に」
――主、それに遷移か。
少女から一風変わった言葉が飛び出ている事を把握したイチガであるが、話の流れを解いてまで聞く事ではないと思いながら、話を聞く事にした。
「聞いたんだよね、歩いたり、船で渡る事ができるんじゃないかって」
「まあそう考えるよな、そしたらどう返されたんだ?」
「周りは海で囲まれているから船で渡る事ができるけど、それは自殺行為でしかない。そう言われて」
「自殺行為……海に渡るだけなのに何で?」
『自殺』と物騒な単語を口に出したイチガは特に驚く事はなかった、そんな自分に少々疑問を抱きながら、そんな単語が現れた理由を少女に尋ねた。
「純白の氷壁が原因みたい」
すると少女の口から文字こそ想像できるが聞き慣れない単語が現れた。
それは異世界である為にある意味当然の現象である。だが直接語られる形では初めての経験である為に「異世界らしいな」と思わず呟いた。
「い……い世界?」
その呟きに少女は反応するが何を言っているのか想像出来ていない様な声色であった。
「何でもない」
その反応を見て、この世界では別の世界である『異世界』が存在すると認識されていないと仮定する事にしたイチガは、相手側から異世界の事が言及されない限りは口にしないと心中で決める。
しかしそれはそれとして、変な事を口にした事を自覚した為に「なんか頭に浮かんだ」と理由を告げた。
「――そうなんだね」
すると少女は納得する様子を見せた。しかし今迄とは違う清らかな色の声で口にした――まるで労わる様。
「?」
目に見える様子で分かる事であった事から、イチガは疑問を浮かべる。
「純白の氷壁の事だけど」
しかしすぐに明るい声で話を再開した事から、気のせいだと思う事にした。
「話す?」
交わしていた会話が途中で中断された為だからなのかその様な口にした相手に対してイチガは気になっていた事から「話してくれ」と応えた。すると少女は「じゃあ話すね」と答えた後に話を再開した。
「どうして自殺行為と同様なのか、それは氷になるからだね」
「氷になる?」
「うん、海を裂く様に存在する純白の氷壁。それに近づくと一瞬であらゆるものが純白の氷になる」
「あらゆるものか、なら空気もか?」
なんとなく浮かんだものをイチガは訊ねる。すると「そうだね」と少女は明るく答えた。
――空気は通用するのか。
自身の世界の常識が今いる世界においても問題ない事に気づいたイチガであったがそれの事は心の内に入れながら少女の話を聞く事にした。
「だけど空気の時は凍ったら解けるを何回も繰り返す、氷の粒が沢山現れて、消えるその光景は霞の如くと伝えられているね」
純白の氷壁の話を聞いたイチガは気になった面を訊ねる事にした。
「つまり、純白の氷壁に近づくと氷漬けにされる、それなら何とかじゃないのか?」
どの様に凍らされるのか分からないが単純に凍るだけなら、後々に解凍したりすれば助かる見込みがある様に思えた故の質問であった。
「普通の水ならそうかもしれないね」
問いに少女は言葉を返す、しかしどうしてなのかその声色に氷の様な冷たさを感じ取るが言葉の意味が気になったイチガはその意味を問う。
「どういう意味だ?」
「純白の氷壁で氷結したあらゆるものは氷そのものになってしまうみたいだね」
「氷そのものに? 人間もか?」
それはあらゆるものと聞いた瞬間に脳裏を過ぎた疑問――その疑問に淡々とした口調で「そうだね」と少女は応える。その言の葉は自身の命に関わる可能性を示唆している、だがイチガの心中にあるのは疑問だけであり、懸念を一切抱かない。
――なんか変だな。
橋を渡り終えた刹那に怪物襲撃された時――イチガは死にたくないと恐怖心に襲われていた。それは間違いなかった。だが現在は生命と関わる問題に直面しているのだが、心はとても落ち着いている。
――まあ今は他人事だからな。
されども冷静に考えると現在の状況と純白の氷壁は全く無縁であり、そこまで深く考える必要性がないと無自覚ながらも最初から自覚していた。その様に考えると納得が出来る為に、自身の心境に納得できたイチガは話し始める少女に意識を集中する。
「人の場合。空気の時と違ってすぐに砕ける事はないけど、数分で跡形もなく砕け散るみたいだね、少し触れただけでも砕けるみたいだよ、だからなのか空飛ぶ生物も近づく事はないみたい」
「海に生きる生物も大変だな」
少女の話を聞いたと同時に所感をイチガは口にすると「生物はいないみたいだね」と少女は反応する。
「いないのか?」
「うん、昔の話だけど、海の奥底を調査すると潜った人がいたみたいなんだけど、氷になって海面に戻ってきて、その直後に割れたみたいだね」
――どの世界にも無謀な事をする人間はいるもんだな。
この世界の海が危険なのはこの世界の海に関しての説明を受けたばかりのイチガでも十全理解できるものであり、それ故に彼は自身の世界の人と重ねる形で冷めた反応をした後に気になった事を訊ねた。
「海は見れるのか?」
話を聞く限り、海に触れる事を禁じている事を想像できるイチガであったが、見る事が可能なのか気になった為の発言であった。
「色んな意味で難しいかな」
「難しい?」
「うん、海と陸の境目にはすごい高さの壁が建ち並んでいるらしいね」
「なんだそれ」
明るい口調でとんでもない事を苦もなく告げたイチガは驚いた。
「まあ仕方ない事なのかもしれないな」
しかし聞く限り、海の状況は触れれば終わりの猛毒の沼も同然であり、安全を考慮するなら当然の処置かもしれない。先に死に近づく事を体感した故にイチガは納得出来た。
「きみもわたしと同じ意見だね」
落ち着いた色の声でその意見に同調した少女に対してイチガは「そうなのか」と応じる。
「うん、危険を冒してまで外側の世界に出る行動を起こす気は起きないね、けど他の人達がみんなそう思っている訳じゃないから、他の人には話さない方がいいよ」
「意見が異なるか」
――そこも変わらないか。
少女の話を聞いて、自身が元々いた世界の事を心中で思い出したイチガであった。
――比較しても意味はないか。
しかし何かある度に二つの世界を比べても意味がなく、何とも言えない虚無感を抱き始めておりその点に関しては今後はあまり気にしない事にした。
「?」
会話相手が唐突に無言で考え事を始めた為なのか少女は不思議そうに首を傾げていた、その事に気づいたイチガは今考えていた事は少女に明かせない事柄故に気になっていた別の事を訊ねた。
「反対意見が出るって事は問題が色々とあるんだろうな、と思ってな」
「例えば壁が原因で太陽が見えないとか」
海に向かう事を阻む壁をどれほどの高さなのか、直接見た事がないイチガであるが海に向かう事を阻む前提であるなら想像を遥かに超える高さである事は間違いないと抱きながらの言葉であった。
「そういう意味じゃないかな」
しかし見当違いだったのか、少女は柔らかい口調でイチガの言葉を否認するとそのまま言葉を続ける。
「壁は常にあるわけじゃないんだよね」
「え……なんだそれ」
「何かが近づくと自動で出現して阻む、そういう事らしいね」
あからさまに少女が伝聞調に話しており、気づいたイチガはその事を追及する。
「らしい、もしかして見た事はないのか?」
「うん、あらゆる手段でも向こう側にいけない事はもう分かっているからなのかな? 最近は壁に近づく人達はいないらしいね」
「最近、前はいたのか?」
「一昨年にいたみたいだね、わたしが遷移する前の事だから全然分からないけど」
「まあそうだよな」
先に一年前にこの土地に遷移したと話していた事もあり、イチガは頷くがそれと同時に「先に言わないと!」と少女は声を上げる。
流れに沿わないかなり唐突な事であった為にイチガは訝しみながらも「何を」と問う。
「きみ、地上にいた時に冒険者と口にしていたよね?」
少女が発した言葉はイチガの予想の外に飛ぶものであった。
「まあ確かに言っていたけど……それがなんだ?」
イチガは多少困惑しながらも言葉を返した
「きみが考える、冒険者は未知の場所を冒険する人の事だよね?」
少女が聞いてきた事は当然至極な其事であり、イチガの心の内の当惑の加速度が増していたが、意味もなく聞いてくる訳がないと思いながら「そうだな」と応える。
その問いに対して「変な事を聞いてごめんなさい」と一言添えた後に少女は喋り始める。
「その事なんだけど、きみの知っている冒険者はこの土地の冒険者とは違うんだよね、だから気軽には言わない様にしたほうがいいね」
「なんだよそれ」
あまりにもよく分からない事を少女が口にした為にイチガは呆れの感情を混ぜた声を出す。
「理由を説明したら長くなるから詳細は今は話さないけど、自身が冒険者だと、街中で大声で言ったら」
「その場で殺されても文句は言えないね」
日常的な事を交わす様な色味で言い放たれたのは当たり前とは一切無縁な残酷な言の葉の羅列――死に関わらない生活をしていた者が聞けば驚愕を露にするのは必然であった。
「なんでそうなるんだ」
だがイチガは動揺する事なく、泰然たる様子で何故そうなったのかを尋ねた。その理由は興味心からであった。
――普通じゃない事を言われた筈。
――それなのに普通に聞こえる。
だが表情には一切出していないが、動揺していない自分自身に対してイチガは疑問を抱いていたが今は頭の片隅に置いて、話すような動作を見せる少女に視線を向けるが――
「今はいいや」
とイチガは少女の動きを制する様に口を開いた。
「うん、わたしも今は話す気がないから」
少女も同じ気持ちだった様であった、しかし周囲が壁や近づく事が不能な氷で封鎖されている土地である事を考えるとどうしても気になる事があったイチガは訊ねた。
「純白の氷壁の外側の世界はどうなっているんだか」
少女の話が真実であるなら、外の世界を知る術は無いだろうとイチガは考えていた、そしてその答えは即座に返ってきた。
「分からないね」
「まあそうだよな」
考えていた絵面がそのまま言葉として返ってきた為にイチガは何かを言う気が沸くことなく、納得する。
「今はだけどね」
しかしその後気になる言葉を口にしたと同時にその言葉の意味に好奇心が現れるとそれに応じる様にイチガが口を開く前に少女は言葉を続ける。
「どんな風現れたのか判明していないけど、純白の氷壁は最初からあった訳じゃないみたいみたいだね」
「じゃあ、純白の氷壁が現れる前は他の地域と交流していたのか」
「そういう事だね、色んな場所の国と交流していたみたいだけど、一番影響があったのは東の国から迷い込んだ船団だね」
聞いた刹那に少女が発したある単語に対して琴線に触れたイチガは即座にその事を訊ねた。
「東の国?」
「そうだね、気になる事があるのかな?」
と訊ねてきた少女に対してイチガは質問をする事にした。
「もしかしてこの土地の文字とか言葉は、東の国のものなのか」
東の国が自身が元々いた世界での出身国に近いと何故か思えた故の質問であった。
「? そんな話は聞いた事がないね」
だが寸時にそれは少女によって否定される。
「わたしも一年しかこの土地にいないから、まだ分からないけど……どうなんだろうね?」
そして何故かイチガが質問を受ける流れに変わってしまた。
「なんなんだ?」
だが言の葉の意味が全く分からないイチガは困惑しながら言葉を返した。
「きみに初めて言う事なんだけど、実はわたしもきみに近い事を少し考えたんだよね」
「近い事、文字や言葉の事か」
「うん、そうだね、この土地に遷移してから文字も同じで言葉も通用するから不便な事は一度もなかった」
「そうなのか、なら俺も大丈夫そうだな」
この世界の出身ではないが、目の前の少女と立場がそう変わらないと思えたイチガは相槌を打つ。
「そうだね……だけどどうして別の土地なのに同じ文字なんだろうね?」
と疑問を提示されたイチガであるが、文字や言葉の起源を考えた事等一度もない為に思考が停滞する。
だがとりあえず応じようと考えると同時に頭に浮かんだある言葉を口にした。
「場所によって変えるのが面倒だったからとか」
適当な事を口にしたのは百も承知であり、どんな反応がくるのかイチガは不安を抱いた。
「うん! そうかもしれないね」
しかし思いの外、少女は明るい反応を示した。
「統一できるものは統一するほうが楽だもんね」
そのまま言葉を繋いだ少女に「まあそうだな」とイチガは応じる。
「だけど、文明は違うみたいだね」
「まあそうだよな」
住んでいた世界と今いる世界の文明は全く異なっており、少女の言い分にイチガは即時に納得出来た。
「だから迷い込んだ東の国の人々から流れてきた文明も今も根付いているみたい」
そう言われたイチガはどの様なものがあるか興味が沸き尋ねた。
「どんなのがあるんだ」
「色々あるけど、武器なら刀とか大砲、後は醤油とか味噌みたいな調味料かな、東の国のお陰で食事も華やかになった、みたいな事が書かれているね」
「刀……それに醤油や味噌もあるのか」
知っているものが現れた為にイチガは思わず口を開くと「知ってるんだね」と少女は反応する。
「知ってるな」
「じゃあもしかしたら、きみは東の国、出身なのかもしれないね」
と少女は口にするが、その言い分に対してイチガは何かを見透かされている様な気持ちとなったが、あまり気にせずに「そうかもな」と応対した後にふっと思い浮かんだある事を訊ねた。
「もしかして君の故郷も尋ねた事があったりしてな」
この世界の出身ではない自身が親しみを抱ける国の存在がある以上、少女が元々住んでいた国の関係者もこの土地に来た事があるのではと思えた故の質問であった。
「それは分からないね」
すると淡々とした色の声で返答される。しかし気になる言い方だと思えたイチガは「分からない?」と口ずさむ。
「うん……知らないよね――自力で気づけないよね」
更に意味深長な物言いをする様子にイチガは少しだけ不安感を抱く最中に少女に言葉を重ねる。
「だってわたし達は故郷の記憶は殆どないもん」
さも当然の如く少女はそれを口にする。
「記憶が――無い」
あまりにも意想外な言語の並び、それを聞いたイチガは唖然とする。
「だからわたし達の祖先がこの土地を立ち寄ったのか、正確には分からないね」
質問に返答した少女であったが質問の主であるイチガの脳裏は記憶に関する事で既に埋め尽くされている、そして何故だろうか? 他人事とは思えない気持ちとなりその返答は入り込む事はなかった、そして決して無視できる事ではない為に記憶に関して追及する事にした。
「記憶が無いとか言ってたけど、どういう事なんだ?」
「――――うん……隠しても意味ないからちゃんと説明した方がいいね」
「理由は簡単、わたし達、遷移者は故郷の記憶は殆ど消失するからだね」
間違いなく少女の口から発せられた言葉の意味は誰が聞いても内容を理解できる程に簡単であった、しかし突然記憶が消える事を聞かされたイチガは可視できない衝撃を受けて言葉を失う。だが数秒後に少女が発した言葉の中に棄却できない部分がある事に気づいて訊ねる。
「わたし達って言ったよな?」
今この場にいるのは自身と少女だけであるとイチガは考えている。なのに少女は『わたし達』と頻繁に言い始める、それに対して多少の疑問を抱いていたイチガであったが、それが何か薄氷を踏む様な事に今の会話と繋がり始めていると抱き始めながら言葉を紡いだ。
「もしかして俺の事か」
「うん……きみはわたしと同じ遷移者、だから故郷の記憶は殆ど無いと思うんだけど……記憶があったら、ごめんなさい」
「――――!!」
記憶の喪失を指摘されたイチガは言葉として解する事が出来ない衝撃を受ける。その最中も少女は言葉を続ける。
「わたしと同じ記憶喪失なら、故郷の景色とか名前とか――友達とかを思い出せない筈だけど」
どこか申し訳なさそうな色合いの声でそう言われたイチガは目を瞑る、そして故郷を思い返す事にした――少女の言の葉が嘘であると願いながら……
――全然思い出せない!
だがそんな心境とは対照的にイチガは何も思い出す事は出来ない、輪郭こそ浮かび上がる。しかしそれは遥か遠くにて地に滴る雫の様な規模しかない。詳細を思い出そうとするとその度に巨大な壁に遮られる――道が切り落とされて進めない――触れようとすると黒き霞で覆われ周囲が漆黒に染まる――幾度も思い出そうとするが無駄であった。
「――――なんだよ」
見えない何かによって嘲謔されている様な気分となったイチガは苛立ちが積もり始めて、反射的に右手に力が入る――その最中に何かが右手に集まった感覚があったが気に留める余裕は今の彼にはなかった。
「うん――気持ちは分かるね、わたしが教えられた時も同じ気持ちだったと思う」
苛立つ様子に同情する色合いで少女は言を発する。他者の言葉を聞いた事で気持ちこそ多少落ち着いたイチガであるが苛立ちは身体と心の中を幾度も駆け巡り抜ける事は決してない――
「くっそぉ!!」
故に突き動かされる様に拳を振り下ろした――その先にはテーブルがあり、襲撃音が鳴り響く。
「な!」
だがそれは、コップを揺らす程の音であり、音を鳴らしイチガが驚く程であった、更に衝突部分は跡形無く崩壊。その周囲もひび割れが発生していた。
「何が……」
拳を振り下ろしただけでこの様な事になるとは到底思っていなかったイチガは驚愕する。
「こうなっちゃうよね」
しかし少女は事態を把握しているかの様に冷静であり、その声を聞いたイチガは視線を向ける。
「不便だから、新しいのを持ってくるね」
淡々とした様子で少女は立ち上がっていた。