第14話 The Beginning ①
一八八〇年、六月十日。
つい数日前に二十歳になったばかりの日本人学生、和谷惣吉は、英国エディンバラのオーシャンターミナルで海を眺めていた。
打ち寄せる波が朝の太陽の光を弾き、キラキラ輝いている。
眩しさに目を細める惣吉の前に、貨客船ロゼッタ号が接岸していた。
船内では船員たちが出港準備で忙しく動き回り、沖仲仕たちは、これから始まるであろう長旅の為の大量の荷物を、汗をかきかき貨物室に運び入れている。
なにせ日本まで五十日掛かるのだ。
途中何か所か寄港地はあるが、それでも、それだけの日数ともなると、大荷物になるのは仕方のないことだろう。
惣吉はカモメの鳴き声に空を仰いだ。
――鳥は自由でいい。いつどこへだって、その羽で自由に飛んでいけるものな。
惣吉はカモメの群れを眺めながら、長いようで短かった留学生活に思いを馳せた。
幼い日に聞いた岩倉使節団の旅行譚は、惣吉に未知の土地への憧れを植え付けた。
そして少年へと成長した惣吉は、両親に必死に頼みこみ、念願だった英国への留学を果たした。
だが、残念ながら、惣吉のエディンバラ大学における留学生活は、父、和谷惣右衛門の危篤の報により、たった二年で終わりを告げた。
ここから船旅で五十日。
間に合うかどうかも分からないが、父の危篤と聞いて帰らないという選択肢は、惣吉には無かった。
――なんとか帰国までもってくれればいいが……。
惣吉はそっと神に祈った。
その時だ。
「惣吉! 探したぞ!」
大声で呼ばれ、惣吉は我に返った。
物思いに耽っていた無音の時間に、喧騒が次々と戻ってくる。
人混みを縫って、二人の男女が現れる。
スーツ姿の品の良さそうな紳士と、白のプロムナードドレスを着た美しい金髪女性だ。
いきなり紳士に抱きつかれ、惣吉は困惑の声をあげた。
「アーサー! どうしてここに?」
「酷いじゃないか、惣吉。なぜ実家に帰ることを黙っていたんだ。今朝カフェーで偶然クレアに出くわさなかったら知らないままだったぞ」
「そうか。クレアに聞いたのか……。済まない。急な話だったから」
惣吉は遠慮がちに、アーサーの後ろでソッポを向いて立つ女性を見た。
羽とリボンが上品にあしらわれた帽子から覗く金髪が、陽の光を浴びて輝いている。
そうして見ると、女性は光でできた女神のように美しかった。
だが。
その顔からは、いくら化粧を施しても隠しきれない程、泣き腫らした様子が見てとれる。
「私、もう行くね」
「え? いいのかい? クレア」
アーサーが慌てて声を掛ける。
「いいの。お別れは昨日ちゃんと済ませたから。じゃ、元気でね、惣吉……」
「あぁ、君も……」
去っていくクレアの姿が完全に人混みに紛れて見えなくなったのを確認して、アーサーは口を開いた。
「彼女、カフェーで泣いていたぞ?」
「ああ。……実は昨日、別れたんだ」
惣吉は、わざとおちゃらけて言った。
それを聞いてアーサーが目の色を変える。
「別れた? おいおい何て事を! 我が大学きっての才媛、眉目秀麗、有智高才、家柄抜群、完璧超人の学校一のマドンナを、君は振ったっていうのかい! 相手が他ならぬ君だから、みんな身を引いたってのに、全くどうかしてるよ!」
「仕方ないだろ、もう戻れないんだから!」
さっきまで、まるで役者のように大袈裟な身振りで感情を表していたアーサーの動きが止まる。
「戻れ……ない? お父上の具合、そんなに悪いのか?」
「ああ。今から急いでも死に目に会えるかどうか。父が亡くなれば僕が家業を継ぐことになる。たった五十人程度の小さな商店だが、従業員の生活をこの肩に背負わなければならない。もう安閑と海外留学していられる身分じゃないんだ」
「それは……済まなかった。知らぬこととはいえ言い過ぎた。許してくれ」
「構わないよ。むしろこちらこそ悪かった、許してくれ」
惣吉とアーサーは、改めて固い握手を交わした。
と、二人の友情を甲高い悲鳴が切り裂いた。
「泥棒よ! スリよ! 誰か、その男を捕まえてぇぇぇ!!」
人混みの中から老婦人のものと思しき悲鳴が上がった。
惣吉とアーサーは、反射的に声の上がった方を見た。
男が右手に持ったナイフを振り回しながら人混みを掻き分け、こちらに向かって駆けてくる。
左手には婦人物のバッグ。間違いない。犯人はこいつだ。
振り回すナイフから逃げようとする老若男女で現場はパニック状態だ。
「下がっていたまえ、アーサー。……あぁ、悪いがそいつを貸してもらうよ」
惣吉はアーサーからステッキをヒョイっと奪うと、男の前に立ちはだかった。
そのまま、まるでお遊びのように、ステッキをくるくる回す。
「どけぇぇぇぇぇぇぇ!!」
走りながら、男は惣吉に斬り掛かってきた。
惣吉は対象的に、アーサーに借りたステッキを弄びながら、男の方を見ることさえせず棒立ちしている。
男は、綺麗に頬を切り裂かれ、血を吹き出しながら倒れる東洋人の姿を想像したに違いない。
だが、ナイフは惣吉に当たる瞬間、唸りをあげて下方から襲ってきたステッキによって、真上に跳ね上げられた。
男の目が驚愕で丸く見開かれる。
次の瞬間、瞬きの時間すら得られずに、いきなり男の天地が入れ替わった。
男には、何が起こったのか、理解することもできなかっただろう。
気付いたときには、男はうつ伏せになり、背中に乗った惣吉に腕をねじ上げられていた。
「がぁぁぁ!! 痛てててててててて!」
どこをどう押さえられているのか、男は猛烈に痛がりながらも、全く身動きができないでいる。
「泥棒はどこだーー!」
「こっちだ!」
その内、誰かが通報したのか、警官が数人駆け付けてきた。
それに向かってアーサーが大声で合図する。
あっという間に、男は警官数人に囲まれ、連れて行かれてしまった。
観衆による万雷の拍手の中、惣吉は着ていたグレーのラウンジ・スーツについた埃を軽く払うと、アーサーと共にそこを離れた。
惣吉がアーサーにステッキを返す。
「済まないアーサー。愛用の杖を傷つけてしまった」
「いやいいんだ。気にしないでくれ。しかし君は本当に正義の人だな。実力が伴っているから誰も何も言わないが、よく刃物男なんかを相手に立ち向かえるよ」
「うーん。性分なんだろうな、和谷家の。心配掛けて済まない」
「もう慣れたよ」
すまなさそうな顔を向ける惣吉に、アーサーは笑って返した。




