愛国心と貞操観念
マコトは、死を受け入れていた。
目の前に避けられない死が迫っていて湧き出す恐怖心を克服する意味でではなく、死に迫られずして死を受け入れている自分に気づいた。
マコトは、地位も財産も名声も望んだ以上のものを手に入れてきたが、女だけは手に入れることができなかった。
実際には妻子がいたが、妻や子に対する心からの愛情はなかった。妻を女には数えられなかった。
今ではどうしようもないが、結婚をしたことも子供を持ったことも、本心では後悔していた。
妻に対して心からの愛情はなかったが、妻以外に対しても心からの愛情はなかった。
女に数えられる女と出会ったことがなかった。女だけは手に入れられなかった。
豚小屋に生まれたせいで、若い頃は自分を豚の一匹だと勘違いしていて、豚共と関係を持って、豚との間に子を儲けてしまった。
もちろん、そんなことは口に出せなかったが、どうしてもそれが本心だった。
自分が豚共を抱いたことがあるという事実は、目を背けることができない鎖だ。
もしもいつか人間の女と出会って、その時その女がもしも豚と寝たことのない女だったら、どうすればいいのか? 現実には女と出会うことがなかったし、これからもないと思っているのに、マコトの内心はそんな恐怖心に染められていた。
自分のもっとも大事な部分がすでによごれてしまっているという感覚。
本能的な一時的な性欲を満たすために豚に感情を向けてしまった若き日の自分を憎く思ったが、それ以上に、豚を相手にそんなことをするようにそそのかした周囲の人々や社会を憎く思った。
誓って言う。周囲がそそのかさなかったなら、私は豚と寝ることがなかっただろう。
マコトは、そう思った。
自分が悪いのではないと思おうとした。
よごれてしまった罪を、誰ともわからない相手へと毎日のように懺悔しつづけた。
許してくれと、会ったこともない女に向かって言い訳をしつづけた。
私には今や価値がないが、それは周囲に強いられた結果であって、私自身は最善を尽くしたのだ。
私自身は、あなたのためにいつだって完璧に誠実だった。だって、仕方がないではないか。豚しかいない豚小屋の中に生まれ落ちて、豚だと自覚させられ、豚同士の関係が健全で正常だと思い込まされ、私は男として天に与えられた性欲を発散しなければひたすらに苦しめられたのだ。同じ状況に置かれて抗える者がいるだろうか? いるはずがない。
でも、それが言い訳だともマコトは自覚していた。
よごれていない女に会ってしまえば、強いられたとしても自分がすでによごれていることに変わりはない。
自分という存在が彼女を傷つけた事実に変わりはない。
だとしても、もしも女に出会えるならば、もっと生きていたい。
しかし、女に会える可能性など期待できないから、マコトは死を受け入れていた。
無人島を探索しおわった漂流者のように。閉じ込められているのが豚小屋だと気づいた男のように。
この広い島には、女はいない。それがマコトの結論だった。
日本の女性は、馬鹿ばかりだ。つまり、愛国心への理解がない。
ここで、「理解がない」とは、肯定していないという意味ではなく、社会構造におけるその現実的効果について事実を知らないという意味でだ。
結局、愛国心のない者は、愛国心を知らない。
男性もまた、愛国心を知らない馬鹿ばかりだ。この広い島には人間がいない。
戦争に負けて背骨を抜かれた日本という国家。
マコトは図らずも最後の日本人になってしまった。
愛国心は悪いものだという教育や言論での揺るぎないテーゼが、庶民の一切のモラルをドロドロに溶かしてしまった。
しかし、負けた戦争を公的に肯定する思想は、戦後国際秩序がさらに数百年経過しても許されない。
島の外のいた蛮族達のせいで、マコトが愛して育った祖国は完全に壊された。日本民族の血を受け継ぐ子供達には、賢く善良なぶんだけかえって理不尽な苦しみや侮辱が注がれる世界状況が約束された。そんな世界を変えることなどできず、顔の似た子供達を残してマコトはやがて死ぬことになる。
愛国心は、悪いものだ。
体制の上層部は常に特権の保身を第一にしていて、自分達以上の公共心や帰属意識を、立場の弱い人々に刷り込もうとする。
戦時においてその最大の被害者は最大の弱者である子供達であり、口先だけの愛国者達はすぐに戦勝国に迎合する。
あるいはまた、ナショナリズムは派閥意識を形成し、外部や敵と定義された集団に対する共感の欠如や敬意の欠如を引き起こす。侮辱していい対象として、権力の代わりに外敵を与えることによって、理不尽に搾取される民衆の憎悪を向け、時には実際に攻撃させもする。戦争であれ、経済戦争であれ、立場の弱い人達の命や幸福ほど軽んじられる。尊厳を軽んじられた人々は、自分達ではない外部集団を蔑んでいいという麻薬に依存しやすい。
しかし、だからといって愛国心のすべてを悪いものだと言うのは、邪悪な悪意に由来する愚者特有の詭弁だ。
個人には財産の所有権があって個人は自らの財産を防衛すべきだ。
家族は利害の単位であって、家族の有する資産や権利を、際限なく赤の他人に譲渡すべきではない。
いかなる規模の集団も同様の性質を帯びている。
日本国は、世界の善良な一員であるべきと同時に、国民の幸福や利益を防衛するシステムでもある。
そうであるなら、日本の外交官や高級官僚に何らかの愛国心が期待されることは自然なことだ。
国家が選ぶ政策は世論の総和である以上は、すべての庶民の愛国心のあり方が社会のあり方に影響するのは当然のことだ。
そうして、各国の外交官が各々の愛国心を胸に矛盾する利害を折衝して、国際秩序はある。
それは、生命の起源と同じほど昔から変わることがない普遍的事実だ。
つまり、日本国が日本人の利益を赤の他人に際限なく譲渡するなら、日本は背骨を抜かれている。
愛国心のすべてが好ましいものではない。しかし、健全な愛国心と呼べるものはある。
健全な愛国心の一つの特徴は、それが必ずしも体制への肯定ではないことだ。
愛国者を自認するマコトが、誰よりも日本を呪う一人であるように。
なぜなら、健全な愛国者は、自分を愛し、友人を愛し、家族を愛し、帰属集団を愛し、地元を愛し、祖国を愛し、人類を愛し、生命を愛し、宇宙を愛する部分として愛国者なのであって、それは葛藤をはらみうる。
例えば、すべての庶民の幸福と利益を防衛しようとする者が、既得権益の保身に溺れて虚言を吐く権力構造を手ばなしに肯定するわけはない。
あるいは、庶民の健全なモラルによる社会幸福の維持と増進を願う者が、自らの血を分けた家族とはいえ、愛国心を持たない妻子を心から愛することはできない。
奇跡のように整った顔立ちや肌や体つきの女が、若々しく清潔な髪を長く伸ばして、流行の服装を着こなし、好意に満ちたまなざしで自分を見つめてくれたとしても、愛国心がなければ豚であって、豚に人間の性欲は反応しない。そのことが豚自身には理解できない。
それが、マコトにとっての日本の女の残念な現実だった。
愛国心を持つ者にとっては、愛国心は、人間が人間であるために欠かせないものだ。
欧米のキリスト教徒にとって、キリスト教が人間の良心のために欠かせないものであり、宗教を共有しない人々がモラルのない野蛮な動物のように蔑視されるように。
日本の女は、結婚もせずに何人もの男と身体を重ねて、恥ずかしいとは感じない。
それは、日本の女に愛国心が少しもないことと、一対一の関係にある必然だ。
すべては、占領軍がやったこと。乱暴に言えば、ダグラス・マッカーサーがやったことだ。
日本は背骨を抜かれてしまって、その背骨は永遠に帰ってこない。
男達が命を落として守った女達は、白人の玩具として自らを提供して誇りにしている。
女達は、金や権威の匂いがすれば必死に弁護して発情し、金や権威の匂いのしない男達には、共感や敬意なくサンドバッグにして楽しむ。
金銭という香水に発情する豚が向ける性的に潤ったまなざしには、人間らしい愛は少しも含まれていない。
だから、日本の女が口にする愛の言葉はマコトの心には響かない。自己愛にしか聞こえない。
情緒を第一として結ばれていた民族が、たった百年で豚小屋に変えられてしまった。
それはマコトの人生にとって、最も恐ろしい光景だった。
目の前で子供がトラックに轢かれて死ねば、その悲劇を女に語って悲しみを癒せる。
しかしこの事実を共有できる女はありえないから、マコトは結局、一人孤独に死んでいくしかない。
妻子がいてかえって、心の孤独は際立つ。
あなた達のために私はあんなに頑張ったのに、すべては報われず私は孤独だ。
あなた達のために果てしなく善良で優秀な男達が地獄の苦しみと戦い山ほど死体になったのに、すべては報われず女達は豚になった。
マコトには、そういった女性嫌悪、ミソジニーがある。
ミソジニーにはしばしば、女性への無関心ではない女性への興味が含まれていて、女性への好意が拒絶され報われない苛立ちが含まれている。
しかし、男性から女性への興味のすべては性欲だろうか?
日本人の一員として人間であってくれ、という願いにすぎなかったのではないか?
しかし、マコトはそう願うことをすでに諦め、死を受け入れた。
豚を幾度となく抱けばいつかは人間になってくれると思うことは完全な幻想だ。
周囲に騙されてはいけない。若き日の本能に自ら言い訳を与えてはいけない。身体をよごしてはいけない。肉体と精神は切り離して考えるべきものではない。自分の内面にふさわしい相手を慎重に選ばねばならない。もし豚小屋に生まれたならば、ベストを選んでも豚に違いない。
豚小屋でベストを選んでも、それは豚だ。
豚には豚なりの豚の幸せがあるだろう。しかしそれは豚同士のためのものであって、人と豚とは幸せにはなれない。人は豚の知能を前にして心から愛し満足することはできない。男と女とは、心においてこそ結合しなければならない。すべての子供達は、心から愛し合う両親のもとで育たねばならない。理想を唾棄する時、人は豚になる。
どんなに地位や財産や名声を得てもなんにもならない。
もっとずっと大切なことがあって、それは時として果てしなく難しい。
人としてのモラルは、生まれつきの性格であり、年齢を重ねて変わらない。愛国心は知識であり、民族の血統の遺伝的な知能に属する属性であって動かせない。背骨を抜かれた国では、社会的なモラルを有する遺伝子から急激に淘汰されていく。
人は、もしかしたら、無人島に流れ着いて異性を探す人生を味わうことになるかもしれない。
しかしそれは値する。
それは値すると、マコトは思う。
自分の家族を築いたって、必ずしも愛せるわけではない。
経済的な安寧のためだとか、健康や長寿のためだとか、恋はそんなものだけのためのものではない。恋愛は自己愛の道具ではない。世間体が立つとしても、世間体なんてものに価値はない。敗戦国の世俗主義者共が偽造した世間体ならなおさら価値がない。
食事だとか、身体の関係といったことは、排泄と等しく、さほど綺麗なことではない。どこのレストランの味がいいとか、私利私欲に基づく豚の会話だ。豚共のためのワイドショーの話題だ。人間は必ずしもそこまで下等な動物ではない。私利私欲から溢れ出した部分においてこそ、人の美しさは輝く。
世間に一目置かれるだけの地位や財産や名声を得たとしても、自分で自分がよごれたと思えば、割に合わない。
豚小屋なんかに定住せず、島の森や谷のすべてを全力でさまよい歩けば、もしかしたら女に出会えたのではないかと疑問はふくらむばかりだ。
それをせず世間に騙され、愛すべき人のための身体を豚でよごしてしまった自分の頭の悪さに、劣等感を感じて苦しみつづける。
そして、もしかしたら、この星や宇宙すら豚小屋にすぎないのかもしれない。
遠い理想のために、世俗的な安寧など否定的に我慢して人生を終えてしまうくらいが正しいのかもしれない。
もしも別の世界で別の人生がはじまるなら、その時、自分のよごれは少し洗い落ちているかもしれない。
この現世で毎日懺悔を繰り返したぶんだけ、来世では少し許されるかもしれない。
心においてこそ結合できる異性を、マコトは求めつづけていた。
その人と、この宇宙で出会う未来を、マコトはすでに諦めていた。
だからマコトは、死を受け入れていた。
しかしマコトの胸には、この宇宙を超えた希望も存在していた。
だからマコトは、愛すべき人に恥じることのないように、今の生をまっとうしようとも思っていた。
今日を歩む一歩一歩がその人に見られている感動を、いつだって感じてた。
会うことがない人との恋の感動によって、マコトは今日も生かされていた。