4 ブリーフィング
クシーは、階段を下りて、イロハの部屋にするという船室に案内してくれた。壁についているのは二段ベッドだが、空き部屋なので、両方とも自由に使っていいという。それから、共用のスペースにある、洗面所と洗濯室、トイレ、シャワーの場所と使い方を教えてくれた。
そして、簡単な洗面用具と、クシーの寝間着と着替えの服をイロハに譲ってくれた。いろいろ見慣れない形をしていて、歯磨き粉は本当に粉だし、服はワンピースとベストを合わせて着るような、いままで着たことがないような服だったが、贅沢は言えない。ありがたくいただいた。
ひととおり教えてもらったあと、おやすみを言って、部屋に戻った。壁にある時計は、自分が見慣れた十二時間制のものではなく、半円の形で太陽と月の針が交互にめぐるものだった。今は夕方と真夜中の間ぐらいだから、午後九時ぐらいか。
一人になると、今まで起きたことがぐるぐると頭をめぐる。
⸺大学の合格発表があった日と、まだ同じ日なのか。
もう世界が違うから、同じ日という概念があるのかもわからない。が、記憶の中では、あれから日が変わっていないのだ。元の世界にはもう戻れないと言われても、とてもではないがまだ受け入れられない。
イロハは、首の後ろから髪留めを外して枕元においた。結局、元の世界から持ってきたものといえば、この黄色のバレッタと、学校の制服と、ポケットに入っていたものだけだ。イロハは、ポケットの中身を全部出して枕元の棚に並べてみる。ハンカチと鏡、学生手帳、ヘアピンが一つ、髪ゴムが三本。役に立たなすぎて、笑うしかない。
鏡を開くと、イロハ自身の変わり映えしない顔が見えた。丸い童顔に、肩までの焦茶色の髪。落ちる時にぶつけたはずの顎は、特に傷や痣になったりはしていないようだ。
ため息をついて鏡を戻し、イロハは寝巻きに着替える。もらった寝巻きは白と赤のネグリジェだが、服の肩幅が広すぎてどうしてもずれてしまう。
⸺それより、私がいなくなったあの世界は、そのあとどうなったのだろう。
似合わない寝巻きを見下ろしながら、下段のベッドに腰掛ける。
⸺私のことを探しているのだろうか。私は死んだことになったのだろうか。母は、父は、妹は、友達はどうしているだろう。私が死んで、泣いているのだろうか。それとも……。
どれも現実感がなさすぎて、薄っぺらい想像しかできない。そんな自分が嫌になって、イロハはその先を考えることを放棄した。
⸺今、自分がいるのは、ここだ。ここで明日から生活するのか。できるのだろうか。
部屋の明かりを消してベッドの下段に身体を横たえ、毛布をかけると、イロハはすぐに眠りに吸い込まれていった。
*
空腹でイロハは目が覚めた。そういえば、昨日は何も食べないで寝てしまった。もしかして目を開くと日本の自分の部屋の布団に戻っているのではないかとちょっと期待したが、見えたのは昨日と同じ船室で、がっかりする。時計は夜と昼の境目を指している。朝六時というところか。
トイレと洗面所は共同なので、部屋から一旦出る必要がある。とりあえず、もらった服に着替え、軽く髪を梳かして昨日と同じ黄色の髪留めをつけると、イロハは洗面所に向かう。
顔を洗って歯磨きを終えたところで、ラムダが話しかけてきた。
「おはよう、イロハちゃん。よく眠れた?」
「ありがとうございます、ラムダさん。夢も見ないで寝てました」
「そりゃよかった。まあ、本当は寝なくても困らないんだけどね」
ラムダは、にやっと笑いながら言った。
「僕たちは、いまはどの世界にもいない、想念の状態だから」
「えっ?」
「まあ、精神の健康を保つには、普通と同じように生活していたほうがいい。船長が、操舵室でブリーフィングをするから、朝食後に来てほしいそうだ。食堂は、そこの突き当たりの部屋だよ」
言われた部屋に行くと、クシーが朝食を準備していた。
「おはよう、イロハ。休めたみたいね。その服、似合ってるわよ」
「おはようございます、クシーさん。似合ってますか? 私にはサイズが大きすぎて……」
イロハが昨日もらった服は、白いブラウスとスカートの上に、赤と黒のベストと前掛けがついた、ヨーロッパのどこかの国の民族衣装のような服である。イロハに似合っているとは到底思えない。
「大丈夫、とっても素敵。今準備するから、そこ座ってて」
手慣れた様子で、あっという間にバタートースト、目玉焼きとお茶が食卓に運ばれる。すぐにラムダもやってきて、朝食が始まった。
「おいしい!」
素朴な味わいが、心に沁みる。ともかく、なじみのある食べ物で、異世界の見たことがない料理でなくて、本当によかった。
「よかった。今朝は、なるべくどの世界でもあるような素材で作ってみたから。イロハが食べなれたものに近くなるようにね」
「ありがとうございます、クシーさん!」
感謝したイロハに、クシーがにやっとする。
「こんど、イロハにも食事当番やってもらうからね」
「え、えっ?」
「慣れたらでいいけどね」
クシーがふふっと笑う。ちょっと意地悪なのか、優しいのか。クシーのことをどう考えていいのか、イロハにはまだわからない。
*
三人で朝食を終え、片づけたあと、上の階にある操舵室にぞろぞろと向かった。部屋に入ると、奥の椅子に座っていた船長が振り向いた。部屋の中央にある操舵輪は、テーマパークの船長の部屋に出てきそうな大きなハンドルだ。その奥には、会議に使うような大きな真っ白い机と椅子がある。三方に窓があり、銀色の帆が中央に見える。イロハも、クシーに導かれて、会議の席に着く。
「えー、まず報告だ。今朝まで巡回して周辺世界を徹底的に探査したが、やはり、ウプシロンの存在の痕跡を見つけることはできなかった。断腸の思いだが、彼の捜索はこれで打ち切る。ウプシロンの魂に、弔いの祈りを」
皆が両手を組み、目を閉じて沈黙した。クシーが俯き、ラムダが唇をかむ。ウプシロンと会ったことがないイロハだが、皆はさぞかし辛いだろう。形だけでも、とイロハは祈りの姿勢を真似る。しばらくの間、全員で、黙禱を捧げた。
「それで、次の作戦目標が決まった」
真っ白な机に、映像が映し出される。深いブルーの海に広がる島々は、宝石箱のようだ。
「碧洋と呼ばれている。かなり高度な魔法が存在しており、文明の基礎になっている。が、おそらく、魔法理論の基礎部分に、健全性の欠陥がある、と睨んでいる」
イロハには、船長が何を話しているのか、よくわからない。
「だが、最近、この世界には転生者の転入が三件相次いでいる。このまま放置しておくと、理論の根底に欠陥を含んだまま文明が発展し、他世界に影響を与える可能性が高い」
アルファ船長が、メンバーを見まわしながらいう。
「介入により、魔法理論の矛盾を表面化させることで、この歪な世界に引導を渡すほうがよいと判断した。本船は、船内時間の明朝、碧洋に到着する。クシー、それまでに資料に目を通して、介入計画を立案してほしい。ラムダは、降下先の選定を頼む。イロハにも一緒に行ってもらいたいので、そのつもりでいるように」
「す、すみません……」
イロハがおずおずと口をはさむ。
「何言っているかわからないんですが……、私には、船長たちが、魔法理論ごと、その世界を壊す、と言っているように聞こえるのですが……」
「その理解で合っている」
船長は即答した。
「完全に壊すわけではないがな。我々の今回の作戦目的は、碧洋の文明に打撃を与えて、接続世界群から碧洋が排除されるようにすることだ」