1 転生
イロハは、漂っていた。
星ひとつない漆黒の闇の中。
ただ一人で。
水に浮いているようにも思うが、濡れた感じもせず、熱くも寒くもない。
自分の手すら見えず、触れるものといえば自分しかない。
なぜこんなことになったのか。何度目かもうわからないが、もう一度、イロハは自分の最後の記憶をたどり始める。
*
大学の合格発表を見に行ったのだ。
三月のはじめ。ちょっと暖かいけど、風の強い日だった。
第一志望の、都心の大学。掲示板に自分の番号があって、本当にうれしかった。
母に電話して、友達にメッセージ入れて、事務室で手続きの書類一式をもらって。家に帰る途中、大きい駅の本屋に寄って、ずっと我慢していた本を買い込んだ。
家の最寄りの駅に着いた頃には、もう暗くなっていた。右手にスマホを持って、友達から来たお祝いメッセージに返信しながら、いつも通る近道の路地を歩いていたとき。突然だった。
足先の地面がなかった。
見ると、蓋が外れたマンホールが、ぽっかりと口を開けている。
数メートル先に工事中注意の看板と赤い三角コーンが風で転がっているのが見えた。このマンホールのまわりに立ててあったのが、この強風で吹き飛んだに違いない。
イロハは自分の人並外れた運の悪さを心の底から呪った。高校受験はインフルエンザで入試を受けられず、遠足ではスズメバチに襲われ、修学旅行では集合の駅を間違えて帰りの新幹線を逃した。大学受験は乗り切ったと思ったのだが、不運のほうはイロハを見逃すつもりはなかったようだ。
イロハはとっさに、地面に残っているほうの足で、なんとかブレーキをかけようとした。その足は滑り、イロハの身体はちょうどマンホールの上で止まってしまった。飛び越せばよかったのにと、今となっては思う。とっさに飛び上がろうと両手を挙げたが、全く役に立たない。
「わぁぁぁぁぁ……」
大声で叫びながら、イロハは両足から落下し、マンホールの縁にお尻をぶつけ、さらに落ちて今度は顎をぶつけた。強い衝撃で、頭の中に火花が飛び散った。
*
そのあとの記憶は、まるで現実ではないようだ。
いつまでも続く落下の感覚に目を開くと、自分の歩いていたあの路地が、どんどん遠くなっていく。まるで飛び立つロケットから見下ろしているようだが、自分が無理やり引っ張られているのは、空ではない方向、3次元では表現できない方角だ。
イロハが住んでいた世界は、どんどん小さくなって、ぼやけて消えてしまった。
⸺私は、死んだのだろうか。
すぐに、別の世界が見えてきた。まだ遠く、ぼんやりとしか見えないが、森と海にはさまれた場所に大きな街のようなものが見える。建物も道路も全部黒だ。
⸺もしかして、これが転生ってやつだろうか。アニメとかでよく見ていたけど、まさか自分の身にそれが起こるとは、考えたことすらなかった。しかも、大学合格した直後なんて。最悪のタイミングだ。
街の中央にある大きな黒い城の上では、黒マントの男が、杖を振りかざして空に向かって何か叫んでいる。七色の光線が杖から空に向かってほとばしった。
⸺ということは、こいつは魔法使いで、ここは魔法世界か。本当に典型的な異世界転生ものだ。
放たれた光線は、空に浮かぶ赤い月に突き刺さった。いや、おかしい。月というには、これは大きすぎる。暗赤色のその球体は、空の半分を覆うぐらいの大きさで、どんどん大きさを増しているように見える。魔法光線が当たっても、変化はない。
月が落ちてきている!?
街の人たちは、パニックになって逃げまどったり、叫んだりしているが、迫りくる月に対してなすすべもないようだ。
イロハはまだどこかを落下しつづけている。でも、だんだんこの見えている世界に近づいているようで、視界がはっきりしてきた。
⸺ちょっと待って。私は、この世界に転生しようとしているの? でも、この世界、なんかまずいことになっているよ?
焦っても、イロハにできることは何もない。
見る間に、月が大きく迫り、そして黒い街と衝突した。轟音とともに、街は消え去り、大地震で他の街も崩れ、火山が次々と噴火し、月はさらに地球にめり込んでいく。あっという間に、星全体が火の海となってしまった。
その瞬間、その世界がパッと見えなくなってしまった。イロハが落下していく感覚も同時に消える。
そしてそれからずっと、イロハは、どこでもない漆黒の闇の中を、漂っている。
*
あれから、何時間経ったのか、何十時間なのか、自分が起きているのか寝ているのかもわからない。思考がぐるぐる回る。自分が落ちる瞬間を思い出すたび、背筋がぞぞっとして、気分が悪くなるが、他に何も考えられない。
これだけの情報から、何も判断なんてできないだろう。だが、もしかしたら、転生が中断されたのではないだろうか。おそらくだが、転生先の世界が、イロハが転生する直前に、なくなってしまったのだ。そんなことってあるのだろうか。
もしその仮定が正しいとすると、今いるところは、イロハの生きていた世界と、あの月が降ってきた世界の間のどこか、ということになる。世界と世界の間なんてものが、そもそもあるのかどうかすらわからないが、それしか自分の居場所を説明する方法がない。
⸺自分はいったいどうなるのだろうか。
そんなとき、後ろの方から、水の跳ねるような音が聞こえた。振り向くと、光の点がゆらゆらと揺れながら、こっちに近づいてきているようだった。