四月・1
さて。
めでたく中二の四月一日に戻ってきたのはいいんだが、何せ当時の記憶なんかありゃしない。
昨日のことすら思い出せず、今日の予定もわからない。
しかし懐かしいな、この部屋。当時夢中になって読んでいた小説が所狭しと本棚に並び、反対側の壁を見れば現代(というか元いた時代)では、すっかり貴重になってしまった金属モデルガンなんかがディスプレイしてある。
一応来年から受験生ということもあり、親が頑張って平屋だった家を劇的にビフォーアフターしてくれた二階の個室。これがすごく快適だった。
当時はまだ地球温暖化なんて騒ぐ環境ヤクザはおらず、某学習研究教材雑誌『化学で逆襲』には、「未来の地球は氷河期になる」なんて記事が載っていた。
夏はどんなに暑くても30度がせいぜいで、なんとも過ごしやすい時代なのだった。
いや30度だって普通に暑いけど。
ちなみに現在時刻は……朝の7時半か。確か記憶が正しければそろそろかな?
「おにーちゃーん、おきたー?」
ほうら来た。
何せ昔の田舎である。現代人からすれば信じられないほど、ご近所づきあいが濃密で、
「おにーちゃーん?」
ドタタタタ
こんな風に隣家の幼女が朝から家に遊びに来ては、
「おはよーおにいちゃん、あっ、おきてる!」
どばーん! とノック無しで扉を開け、目覚まし代わりに起こしに来るなど日常茶飯事なのだった。
……プライバシーってなんだっけ。
「うん、目は覚めてたんだけどねー」
「もー、おばさんがこわいかおしてるよ? 『朝ご飯が片付かない』って」
「あっはい」
腰に手を当て「ふんす!」と鼻息を荒くする幼女、ミキちゃんなのである。
うわ、改めて見るとちっちゃいなー、小学校低学年ってこんなだっけ?
「着替えたらすぐ行くよ、だから下で待っててね」
「うー」
あ、いかんいかん。ちょっと言葉が足りてない。
「それと、起こしに来てくれてありがとね、おはようさん」
みるみる笑顔になっていく。一仕事終えたことも、それを労われたことも、子供ってすごく嬉しいんだよな。
「うん! じゃあまってるね!」
今度は階段をゆっくり降りていく様子に、朝からなんだかほこほこした。
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その30分後、俺は地獄に放り込まれていた。
思い出したのが少しぱかり遅かったが、当時の俺は部活を二つ掛け持ちしていた。一つは軟式テニス、もう一つは陸上部である。
今はテニス部の朝練中。
コートを走り込んだ後に素振りを繰り返し、サーブの練習をした辺りから息が上がってきた頃合いだ。
しかし流石は中二の肉体だな、パワーは無いが持久力が半端ない。
「よーし、15分休憩ー!」
顧問の吉田が声を出す。すると生徒は緊張から解き放たれた様にコートの端へ向かい、座り込んでスポーツドリンクなどを口にし始める。そんな中、一人の女生徒が近づいてきた。
「初川お疲れー」
「Oh, No」
「アタシの名前は青野だっちゅーに!」
俺の横に陣取ったのは、同級生の青野だった。テニス部女子の中でもとびきりのおチビで、俺と同じ二年生のはずなのに、部員のどの子よりも背が低かった。
細い切れ長の目にポニテ、快活で子ギツネみたいな印象のヤツである。
「すまんすまん、んでなんか用か?」
「うん、初川ってさ、今日これから陸上部でしょ? そしたら話できないから今のうちにと思って」
「うげ、今日そっちもある日だったっけ」
「なんで部員のアンタが覚えてないのよ。て言うか今朝だって遅刻ギリギリだったし」
いやその、未来から戻ってきたばかりで、予備知識すら無かったとか言えない。実際今朝は母親が弁当を指さしながら、8時から朝練だってことを教えてくれたから、間に合ったようなものなのだ。
「いやはや、お恥ずかしい限りです」
「たまに思うけど、初川って妙に古くさい言葉を使う時あるよね」
「……お恥ずかしい限りです」
「キズの入ったレコードじゃないんだから」
「うんまぁ、今朝はすっかり部活のことを忘れていたと言うか」
「アンタそれ、吉田の聞こえるところで言っちゃダメだよ?」
「そうだよなぁ」
顧問の吉田は、現代で言えば「暴力教師」の見本みたいなヤツで、練習中に気にくわないことがあると、テニスのラケットで男女問わずケツを殴りつけるのだ。これが後にとある事件になるんだが……。
まぁそれはさておき。
「で、改めて用事って?」
「うん、どうやらアンタとアタシ、また同じクラスになるっぽいよ、神野先生がコッソリ教えてくれた」
「へー」
「感動の薄いヤツー」
「失礼な、ちゃんと感動してるよ。と言うか、これで同じクラス歴通算6年目に突入か」
「そうだね」
お互いノリが合ってると言うか、異性としては割と話をしやすい間柄なのだ。恋愛感情抜きで考えてもこういう存在は貴重だし、それがまた延長される訳だ。いや本当、
「こんなに嬉しいことは無いよね」
「えっ?」
「ん?」
ピンポンパンポーン♪
なんの音!? なんか脳内でいきなり鳴り響いた感じなんだけど!
……あ、今のがあれか、「好感度のSE音」てヤツか。ふざけたスキルだとは思ってたけど、実際に聞くとこっちまで恥ずかしくなるなちくしょー。
と言うか、状況的に俺があたふたするのもおかしいので、改めて青野の方を見ると……。
「んふーっ?」
あ、やってしまった。俺って時々こんな風に、思っていることが口をついて出てしまうことがあるのですよ、はぁどっとはらい。
そしてうん、俺、人の耳が赤くなる瞬間って初めて見た気がする。
「……アンタってホンっトにもー、もーっ」
「牛?」
「うるさいっ」
ちくしょう、やっぱりなんだか恥ずかしいぞ!
「あーそろそろ陸上部に行かなくちゃー、うわ大変だーもうこんな時間ー」
意図的に超棒読みで色々とごまかしつつ、俺は青野から距離をとる。
「おっぼえてなさいよー!」
「りょうかーい」
他の部員、特に女子たちからの生暖かい視線を浴びながら立ち上がり、俺は吉田に用件を告げてテニスコートを後にした。
これ絶対あとでなんか噂が立つな……。
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さて、俺がなんで部活を二つも掛け持ちしているかと言うと、それはこの学校に古くから続く「伝統」のせいである。
田舎の学校ゆえ生徒数は当時でも少なめ。一学年2クラス合わせても60名ちょっとしかいないのだが。
この学校の伝統とはズバリ、「陸上競技の強さ」である。
ちなみにこれは、この地区の学校の立地に大いに関係がある。
そもそも小学校からしてとんでもない。
田舎ゆえ、片道数キロメートル単位での徒歩通学は当たり前。
中学になれば自転車通学も認められるが、スクールバスなんて小洒落たものはない時代。
そんな強行軍を毎日往復、しかも小学校は高低差70メートルはあろうかという小高い山の上。低学年児童からして、心肺機能がモリモリと鍛えられるであろうことは、想像に難くない。
実際、俺自身もこの学区へ引っ越してくる前は、中程度の小児喘息を患っていたが、登校を始めて最初の一年で発作は激減。さすがに長距離走のような持久力必須の競技は無理だったが、走り高跳びの能力を見出され、県大会にまで出場した経験がある。
てな事情でこの中学校は、戦前から陸上の強豪校として県下でも名をはせており。
また過去の実績もあってか、戦後はこのローカル線沿線の学校としてはいち早く400mのトラックコースと、これも当時は珍しかったプールが整備されたのだそうだ。
要は学校のみならず、陸上競技はこの地区全体の「誇り」なのである。
そんな事情なので、例え生徒が他にどんな部活に加入していようが一切お構いなく、陸上部の上級生から推薦されると、本業そっちのけで陸上部への強制参加となってしまうのだった。
くそぅ、小学校の時、選手に選ばれ浮かれていた自分に八つ当たりしたい気分だ。
それさえなければ、今頃はもう少し大人しめの文学青年でいただろうに。
二つ目の地獄である陸上部へ向かうと、視界の端に見慣れたポールとバーが入ってくる。
そしてそこには同級生の女子が背面跳びを繰り返す姿。
同じ走り高跳びのレギュラー、松元である。