八月・7
「短期でアップするかも」と言ったな、あれは嘘ですゴメンナサイ。
青野と二人、急ぎ着替えを済ませ、さてコートに向かおうと思った所で何やらイヤな気配がした。
「げ、吉田が来ちゃってる」
「マジか」
見ればいつも全身真っ白、汚れの一つも見当たらないおキレイな姿の、中肉中背な男性教師の背中が見て取れた。
しかも部員を集めて何やら説教を始めたい雰囲気。
そして部員達の先頭に立たされているのは、……伊吹先輩だ。
「ヤバいな、ダッシュするぞ」
「うん」
手遅れかも知れないが。せめて間に合わせようとする姿勢だけでも見せないと、後でどんな難癖をつけられるか分かったものでは無い。ましてや吉田は気分屋で、何が暴発のトリガーになるか分からないのである。
……あれって、充分に精神科領域での病名が付けられるよな、多分ヒステリーとか。
余談だけど、男にも「更年期障害」ってあるんだってね奥様、女性とは違って症状がうつ病によく似てるって話だけど。
芸能人だとはらたいらさんがそれだったみたいで、一時期精神科に通っていたものの全く改善せず、長年苦しんだとかの話を耳にしたことがある。むしろ吉田にはそうなって欲しいんだが。
いやいや、やはり病気を理由に退職を願う、なんてのはあまり好きではない。自分も27才でギックリ腰をやって以来、時々シフトに穴を開けてしまうことがあり、それを退職の理由にされてしまった過去もあるので。
やはり正々堂々と打ち破ってこそ正義ではなかろうか?
この考え、はらたいらさんに3,000点賭けてもいい。
そんなアホなことを考えつつダッシュしていると、さっきまで話をしていた松元や山口、それに美幸までもがこちらを見ていることに気がついた。なんなんだ?
その答えは、コートに駆け込んだところで物理的に飛んできた。
額正面、俗に言う眉間からちょい上に、吉田がぶん投げてきたラケットが直撃したからだ。
「キサマら、遅れてくるとは何事だ!」
開口一番、吉田はオレ達二人を睨みつけて激高した。
おこ? おこなの?
ともあれ吉田がこちらに向き直って腕を振った瞬間、反射的に青野の前に出て庇ったのが幸いした。流石に女生徒相手に物を投げつけるとか、お前いい加減にしとけよ?
痺れる額を抑えつつ、メガネが無事なのを確認すると、それでもまぁ一応は頭を下げた。
「すいませんでした」
「すいま……ぁ、……っ!」
青野はその吉田の行為に驚きすぎた所為か、声が続かず引き攣ったようになっている。
いやお前ちょっとビックリしすぎじゃね? 機嫌が悪いといつもこのぐらいやるじゃん吉田って。
と、オレが心の中でツッコミを入れようとした瞬間。
「「キャーッ!」」
はい?
(おーい)
(あ、オオトモ様、どうもお久しぶりです)
(ええい、何を呑気なことを言うておるか、己の姿をよく見んか!)
(え、何かありましたかね自分)
それ以前に鏡も無いのにどうやって? と思っていたら、青野が下からこっちをのぞき込んでいる。
その瞳にはさっきまでの驚愕とは違い、今にも零れんばかりの涙が浮かんでいた。
その大きく見開かれた瞳に映っていたのは、額がパックリと裂けて出血している自分の顔だった。
おおう、こりゃあ見た目のインパクト大だな、まるでアブドーラ・ザ・ブッチャーだ。そりゃあさっきの女子達の悲鳴も納得だわ。
(なんじゃ、余裕あるなお主)
(そりゃあ人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻の如くなりってヤツでして)
(達観しすぎじゃわい、まぁ今はほどほどにの、それと帰ったらちとお説教じゃ)
(むしろそっちをほどほどにして下さい)
あ、唐突に思い出した。
オレが元いた世界線では、伊吹先輩を庇ってラケットで横殴りにされ、耳が千切れかけた生徒がいたんだった。とある男子の先輩だったそうな。
当時は陸上部に出ていたお陰で、自分は被害に遭うことも、その「現場」を見ることも無く、後になって松元や青野から聞いたんだった。やはり全く同じ過去ではないんだなと、今更ながらに実感した。
そしてその絵面に衝撃を受け、失禁してしまった女生徒もいたとか……。
いや、これもう事件と言うより普通に「虐待」じゃねーか。
所が、その後何故か吉田にお咎めは無かったようで、その男子先輩が夏休みの間のみ不登校になっただけでこの件は終わってしまったのだった。
そして当時、まだまだ子供だった自分は、その先輩の親や学校関係者がどのような解決方法を採ったのかすら、全く聞かされていなかった。
当の吉田はその後も普通に出勤、部活や授業もしていたのだ。
なので大事にはなっていなかったような印象だったけど、よくよく考えたらスゲー話だな。
「初川くん、大丈夫!?」
今の今までグルグルしていた思考が、伊庭先輩の一声でピタリと収まった。
「え、何がですか?」
そして当初は衝撃で痺れていた額から、今度はジンジンとした痛みが遅れてやって来た。
「いや、何がですかって……」
「アタシ、保健室に行って来ます!」
青野が大声で宣言すると、吉田から恫喝が入った。
「必要ない! 遅刻したヤツは全員こういう目に遭うぞ!」
「そんなこと許されるハズないでしょう!」
今度はオレを庇うかのように前へ出て、青野が吉田に面と向かって言い放った。
青野。お前強くなったなー、ちょっとオジサン涙出てきたわ。
あ、やべ、本当に涙が出てきたぞ。
「うるさい! お前も何様のつもりだ!」
……痛みとは全然関係無いオレの涙を見たせいか。
吉田の物言いがあまりにも酷すぎたためか。
それとも青野の決意を見たせいか。
若しくはそれら全部なのか。
先輩達からドッと非難の声が挙がる。
「それは流石に横暴です!」
「いい加減にして下さい!」
「もう限界です!」
入り乱れる怒号と罵声。そんな中、伊庭先輩の凜とした声が聞こえた。
「あおちゃん、いいから保健の先生呼んできて!」
「はいっ!」
猛然とダッシュする青野の後ろ姿を目線で追う。
するとその行く手から、こちらに突っ走ってくる一人の女子が目に映った。
その女生徒は青野とすれ違うと、真っ直ぐコートまで走りきり、到着した瞬間に手にしていたカメラでオレと吉田、その他大勢の生徒達を撮影し始めた。
カシャシャシャシャシャ!
ニコンF3のモードラ付き……、一体誰だよそんな金持ち。
そこまで見て取ったオレの意識は、しかし突然遠くなった。
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……気がついたのはベッドの上。
おそらくは保健室であろう部屋のカーテン越しに、気付けばすすり泣く声がする。
「初川ってば、アタシを庇って……えぐっ」
「気にしなくてもいいと思います、トオル君はああいう人ですから」
「そうそう、お嬢ちゃんが気に病むこたぁないよ」
泣いているのは青野、そして残る二人は……美幸と伯父さんだな。
ああ、そう言えばさっきカメラで連射してた女生徒、あれって美幸だったわ。
そして恐らくあの後、気絶したオレを叔父さんがここまで運んでくれたのだろう。
「そうですか、まったく無茶なことばっかりして……すんっ」
「そうなんです、普段はちょっと背伸びしてる優等生みたいな感じなのに、身内を馬鹿にされた時なんかはすごく怒る人で」
「えっ、もっと聞きたい……」
「じゃあですね、これはトオル君が幼稚園の頃の話なんですけど……」
「あ、そう言えばこんな話もなぁ……」
おい止めて差し上げろ、その攻撃はオレに効く。
つか同級生に幼少時のネタバラしをするんじゃないよ美幸。叔父さんもノリノリで話を膨らませないで下さい、心が死にます。
しばらく耳をそばだてていようとも思ったが、流石にマズい気がしてきたので、今頃気付いたフリで起き上がってみた。
「うーん、あれ、ここドコだ?」
すると会話がピタリと止み、今度はカーテンが慌ただしくスライドした。
ひどく泣きはらしたような顔がそこにある。青野だった。
「……おはよう」
そんな青野を見て、咄嗟に出たのが朝の挨拶とか。間抜けか。
「おはよう、……じゃないわよ、バカ!」
そう言って青野はボロボロと涙をこぼし、今度はガバッと抱きついてきた。
あ、これ感極まっちゃったヤツだな。自制心とか諸々すっ飛ばして、本人ですら思いも寄らない行動に移っちゃう青春の光と影である。
まぁ普通はなかなかやれないけど、一度「スキンシップ」という手段で心のケアをしてしまった過去があるからな。もう青野的には、オレに抱きつくこと自体に抵抗は無いのだろう。
いや無くなってしまったと言うべきか。
そんな青野の頭に手をやり、なんだか妙に優しい気持ちで撫でつつふと気付くと、カーテンの向こうには目をまん丸くした美幸と、そんな娘をこれまた妙に生暖かい視線で見守る叔父さんの姿があった。
次回で八月編は終わります、終わる予定です、終わるんじゃないかな?
まちょっと覚悟はしておけ下さい。




