八月・1
えらく間が空いてしまいました。世間はもうクリスマスも終わったみたいですね。
自分は「苦離済ます」ってカンジなんですが。 (なんのこっちゃ)
「ねぇ初川クン、あの先生どうにかできない!?」
三年生のテニス部女子、伊庭先輩が机を「バァーン!」と叩いてこう言ったので、オレは首をすくめ周囲を見回した。
時は8月になったばかり。
場所は運動部員がお昼に休憩場所として使っている学校の図書室だ。
夏休みも部活はあるので朝から登校しているのだが、今日は陸上部の練習が無いので一日フルでテニス部に参加している珍しい日なのだった。
周囲にいるのは同じテニス部員ばかりで教師は一人もおらず、幸い図書室は職員室と反対方向にあってフロアも違う。
これなら今の発言も教師達の耳にまで届くことは無いだろう。
改めて視線を送ると、少し茶色がかった瞳をこっちに向けて先輩は続けた。
「もーアイツが教師やってるってこと自体が信じられないし、いい加減頭にきてるの!」
「すいません、ちょっと話が見えないんですが」
「誰かから聞いてない? 夏休み初日にあったことなんだけど」
「や、えっと、その日は一日陸上部でしたし」
「あーそっか。…ねぇ、今朝伊吹ちゃんが部活休んだのは知ってるよね?」
そう言えば見かけなかった気がする。体調不良とか、夏休みなのだし親と一緒に旅行にでも行ったのかな、ぐらいにしか思わなかったけど。
「あの子、あの日に吉田からケツラケット喰らってさぁ」
「先輩、女子がケツとか言ってはいけない気がします」
「うぐっ、そ、それは今どうでもいいのよ!」
一瞬、自分の言動に恥ずかしさを覚えたらしく、先輩は口ごもった。
「でもケツラケットなんて吉田先生しょっちゅうやってるじゃないですか?」
信じられないかも知れないが、昭和のこの頃は教師の暴力でさえ「指導の範疇」との言い訳が通じたのである。
流石に昭和一桁世代のように「先生の言うことは絶対正しい、怒られたお前が悪い」なんて風潮は少なくなってきたとは言え、具体的にケガでもしなければ……。
いや、時にはケガをして帰ってきても「先生のやったことだから仕方ない」なんて考えの親たちは多かったのである。
ん? ひょっとしてケガでもしたのか?
そう尋ねると、先輩は首を横に振った。
「ケガ自体はしてなかったけど、なんだか最近ひどく恐がりになっちゃって」
「恐がり?」
「今朝もこっちから電話したんたけど、お母さんが電話口まで出てきて『今日はどうしても行きたくない』ってことで、私が代理で吉田に伝えたのね」
「それで?」
「そしたらアイツ何て言ったと思う? 『サボりか、じゃあ出てきたらまたケツラケットだな』って嬉しそうに言ったのよ!?」
あちゃー、これ最悪にダメなケースだ。吉田のヤツ自分が原因だとは全く思っていないし、たぶん自省するどころか半分以上は加虐趣味が入ってる。子供は教師のオモチャじゃないんだぞ。
息を荒げ、肩を上下させている先輩の目をじっと見て、オレは絞り出すようにこう言った
「それは……、あきまへんなぁ」
「あきまへんわよ!」
周囲でちょっとしたクスクス笑いが起きたのに気づいたか、先輩はちょっと顔を赤らめてオレの前の席に陣取った。
「なんとかして欲しいんだけど」
「いや、ナントカと言われましても」
そこでふっと先輩の後ろに目をやると、何故か青野が両手を合わせてこちらを拝み倒している。なんなんだ?
と言うか、ちょっと情報を整理させて欲しい。
「ちなみに伊吹先輩は?」
「うん、実はあの日、帰りに心配になったから一緒に家まで付き添ってあげたのね」
「はい」
「そしたら玄関に入るなり、突然ヒザから崩れ落ちちゃって」
「安心したんでしょうかね」
「そうかも。で、そのあと家の奥に声を掛けてお母さんに出てきて貰って、一緒に部屋まで運んであげたのよ。なんだか糸が切れたみたいになっちゃってた」
「でもその後もしばらく部活には出てましたよね?」
「そうなんだけど……、もう明らかに体の動きが鈍っちゃって」
「具体的には」
「吉田がラケットを持ってる姿が視界に入ると、途端にビクビク怯えちゃう感じって言ったら伝わる?」
ふむ、吉田の件は後でもいいとして、まずは伊吹先輩の方だな。
「なるほど。ええっと、じゃあまず順番に伊吹先輩からなんですが」
「うん」
「彼女、多分PTSDって病気なのかも知れません」
「ぴーてぃー、え、なに?」
「PTSD、『ポスト・トラウマチック・ストレス・ディスオーダー』の頭文字で、日本語に直すなら『心的外傷後ストレス障害』って意味になります。要は心に強いストレスがかかり、それを何かの拍子に思い出してしまうと日常生活にも支障を来す、精神的な病気の一種です」
「……ほぇー」
「いきなりなんですか」
「いや、青ちゃんから聞いてはいたけど、キミって物知りだねぇ」
そりゃ生前(?)は精神科の病院で働いてましたからね、医療事務とか総務だけど。
例えるなら『門前の小僧習わぬ経を読む』ってやつで、レセプト作成業務に当たってどうしてもカルテを読み込む必要があったり、その関係で年の近いドクターとも仲良くなって、医学書も色々と見せて貰ったり、なんて記憶が蘇る。
まぁそれは今はおいといて。
「で、伊吹先輩なんですが」
「うん」
「本当は早めに精神科の病院を受診した方がいいですね」
「えっ、そ、それは……」
先輩が口ごもる。
……思い返せばこの時代、精神科領域に関する病気についてはまだまだ偏見の多い頃だった。
当時はまだ心療内科などというもの自体が少なく、ましてや精神科病院の門をくぐった、なんてことが他人に知られたら、後々の進学や就職にまで影響が出かねないのであった。
海外の映画だと、ちょっと眠れないだけで「いい精神科を紹介しようか?」なんて言葉が普通に出てくるんだけどねー。
オレが勤務していた頃もまだまだそんな風潮はあって、例えばジャ○コで患者さんから「事務員さぁーん!」と声を掛けられたとしよう。そんな時は絶対に返事をしてはいけないと教わるのだ。
何故かって?
オレの勤務先を知っている人がたまたま近くにいた場合、声を掛けた人物が通院患者であるとバレてしまうからだ。
精神科に勤める人間には、こういった個人情報漏洩の恐れがある事例を徹底的に教えこまされる。よって声を掛けられてもガン無視せざるを得ないのである。
逆に名前で呼ばれたらにこやかに応じるけどね。
話が横道にそれたな。動揺する先輩を諭すようにゆっくりと、オレは話を続けた。
「や、それは早く治したければという場合です。時間はかかりますが原因を取り除いたり、原因から遠ざけてゆっくり回復させてあげればいいだけのことなので……、あ」
「でしょう?」
そこで先輩がニヤリと笑う。松田聖子みたいな八重歯がちょっと可愛いな、なんて思ってしまった。
親父に言わせれば「ありゃ要するに乱杭歯だろ、はよ抜いちまえ」だそうだが。
つくづくあなたは子である私に色んな制限をかけやがってくれましたね。
いーじゃない八重歯! 『かわいいは正義』って第一巻の帯にも書いてあったしね!
……何を言ってるんだオレは。
「そうですね。詰まるところ吉田先生をこの学校から排除もしくは駆逐できれば、万事解決ってことになりますねそりゃ」
「で、方法は?」
「そんなすぐには出ませんって」
「「ええー」」
え、何この雰囲気。なんで他の先輩達も一緒になって、揃いも揃ってブーイング?
いったん目の前の先輩から視線を外し、後ろに向かって声を掛ける。
「えーと先輩方、一応言っておきますが、吉田のような教師をどうにかしたい場合は傷害罪で警察に介入して貰うのが一番だとは思いますが、正直そこまでやりたいですか?」
「えっ、ケーサツ?」
ほーら、話が公的機関にまで及ぶと分かったら所詮は中学生、尻込みしちゃうでしょうが。
「そうです。それにはこの場合ちゃんとケガをしたという事実と医師の診断書、何よりこれとは別に僕ら子供以外の大人の目撃者、プラス形に残る証拠が必要になります」
「なんでよ、お巡りさんに訴えるだけじゃダメなの?」
「吉田先生に『指導がキツすぎましたゴメンナサイ、今後は注意致します』でしらばっくれられたら、元も子もないってことです」
「あっ、そうか」
「となれば証拠の一つとして、ケガをした生徒の親御さんの協力も不可欠となります。実際僕ら学生だけでどうこうというのは、ちょっと難しいのではないかと」
「ケガもイヤだけど、親まで使うのもイヤだね、うん確かに」
お、理解が早くて助かります伊庭先輩。
「またこれと別の手段としては、教育委員会への通報という形になりますが、この場合でも具体的な証拠を提示しなくてはなりません。嫌われ者の教師が生徒からイジメにあっている、などと解釈されたら、今度は自分たちが面倒くさいことになります」
「なるほどねぇ」
「この学校に残ったまま、後でお礼参りとかされてもヤだよねぇ」
先輩を含め、その場にいる全員がガヤガヤし始めた。
うん、何故だか例のSE音も時々聞こえるが今は無視しよう無視。
「そしてちょっとイヤな話を付け加えますとですね」
「うん?」
「公務員という職種の人員は、余程のことが無い限りはクビになったりしませんし、出来ないそうです」
「え」
「教員免許って言うのは、要するに運転免許証と同じで資格の一種なんです。自主的に返納するのでなければ失効にもならないし、それを僕らが剥奪するようなマネも出来ません」
「……」
「つまり吉田には、せいぜいよその学校に移って貰うしか排除の方法がないってことです」
ざわ……ざわ……。
さて、いつかは退治もとい対峙しなくちゃならんと考えていた案件が先輩経由でやって来た。
これ家に持ち帰って検討しちゃダメですかね先輩。




