六月
梅雨入りである。
この時期はまぁとにかく鬱陶しい。
給食で出た食パンを机の奥にうっかり詰めてしまうと、僅か三日後には青カビが発生する。
あ、自分はブルーチーズは食えるが、何故かどうしても納豆がダメだったりする。
ついでに言えば青臭すぎる野菜は大体アカン。
特にセロリやキュウリ。あれが食える人が羨ましい。
事情を知らない人からよく、
「地球が滅亡しかけて、セロリしか食べ物がなかったらどうすんの?」
と聞かれるが、
「食べたら吐くし脱水症状を起こすので、結果死期が早まりますね」
と、答えるのがデフォである。それぐらいに無理。
大体、本人が食えないって言ってるものをムリヤリ食わそうとするのイクナイ。なんなのあの「居残り給食」とか、完全に人権侵害やんけ。
うむ、梅雨でジメついてると思考も脱線しやすい。
とにかく梅雨入りである。
この時期はまぁとにかく鬱陶しい。
……無限ループって恐くね?
ともあれ今は昼休みである。
グラウンドに出て遊べるわけもなく、かと言ってこの時期に一段とカビ臭くなる図書室に行くのも、なんだか気が乗らない。
自分は今ベランダから篠突く雨を眺めているのだが、教室では男子達が隠れて持ち込んだビニ本を、何人かで集まりコッソリと見ていた。
時々生唾を飲む音が聞こえるような気がするのは、多分と言うか絶対に気のせい。
そう言えばこの頃の自分って、性欲とかどうだったっけ?
中身が枯れた既婚者たる自分には、遙か彼方の出来事である、多分45億年ぐらい前。
そんなとりとめの無いことをぼーっと考えていると。
「なにこんな所で、ひとり黄昏れてるの?」
「青野か」
気づけば青野が隣にいて、一緒に雨を眺めている。
ちなみに今いるのは教室から死角になる場所で、まぁ誰も見ちゃいないし、噂を立てられることも無いだろう。
そんな俺の気配りを知ってか知らずか、青野は視線をこっちには向けずに口を開く。
「アンタって、なんだか変わったよね」
「そうか?」
内心ギクッとしながらも、ちょっとカマをかけてみる。
「オッサン臭くなったとか?」
「んーなんと言うか、雰囲気が大人っぽくなった? 違うなぁ、うーん」
「こういうのは自分じゃ分からないしなぁ、メガネの印象も加味されてるとかじゃない?」
「やー、前々からやたら古風な物言いをするなぁ、というのはあったんだけど」
「普段読んでるのが太宰治ですいませんね」
「じゃなくて」
そこで青野は吹き出し、しかし今度はまじまじとオレの顔を見上げながら、
「うん、何というか余裕がある」
「余裕?」
「うん、しゃくしゃく」
「綽々かぁ」
なかなか良いところを突いてくるな。確かに女性に対して、あまりオドオドしたり挙動不審になるということは無くなったよ。
そりゃね、これでも一応既婚者だったからね。そしてバツイチだけどね。
記憶では昔の事だってのに、おかしな話だよな、これ現在・過去・未来完了形ってヤツでは?
うん斬新だね、カモメが飛びそう。
「んで、ちょっと悔しい」
「なんでさ」
今度はオレが吹き出した。
「ホラ、女子って男子より精神年齢が高いじゃん」
「あー、聞いたことあるなぁ」
「いつの間にか追い抜かれちゃったと言うか」
「それは精神年齢が高いんじゃなくて、高まる時期が男子より早いってだけでは?」
「そうなんだよねぇ」
ちぇーとふて腐れたように、青野はまた並んで雨を見る。
なんだろう、今日はなんだかダウン気味だな。
「なぁ、なんかあったのか?」
「うーん、……うん、まぁこればっかりはアンタに言っても仕方の無いことだし」
「そうなのか」
「そ」
「じゃあ無理には聞かないけど、あー、もし何かあるんだったら、色々とぶちまけてくれて構わないぞ」
「えっ?」
そこで青野はチラッとこっちを見る。つーかこれ、少し涙ぐんでないか?
そう言えば青野の家は、両親の仲があまりよろしくないと聞いたな。
俺がまだ結婚する前、町中で偶然再会した時は、親の離婚のために名字が変わってたし。
まぁそんなことを今言えるわけも無いので、俺はあさっての方を向いたまま続ける。
「や、言いたくないならムリには聞かないけどさ。でもずーっと何かをため込んでるなら、たまにちょっとぐらい吐き出しても、バチは当たらないだろ?」
「……」
「別に解決しなくても、第三者に打ち明けるだけで心が軽くなるって言うし」
「……うん、そう、かもね」
「気晴らしぐらいなら、いつだって付き合ってやるからさ」
青野は一度下を向き、袖でグッと顔を拭う。
次に顔を上げたとき、彼女はニヤリと笑っていた。
「言ったなー? じゃあ今度の日曜に映画でも」
そこでバシーンと音がした。
次いでガチャンとガラス音。
えっ、あれ? なんだっけこれ?
俺は青野を背後に庇い、音のした方に顔を向けた。すると……。
ベランダに続く扉が乱暴に開けられ、松元を先頭に女子数名が走り出てくる。
見れば松元の顔は蒼白で、何を見たのか泣き出していた。
「どうした?」
「あっ、はつ、初川っ!」
俺を見つけると松元は一目散に走り寄り、いきなり俺の胸に飛び込むと、今度は盛大に泣き出した。
「多部、多部君が!」
……しまった、あの事件って今日だったか!
春にクラスメイトを確認した際、要注意人物がいるとは認識していたが、記憶がすっかりあやふやなままだった。オオトモ様に尋ねても
「こっちの世界は、元いた世界とは少しずつ変わっておるからの」
の一点張りで、具体的な日時は確定できなかったのだ。ひょっとして、神様の間で何か取り決めでもあるのだろうか?
そんなことはいい、今はアイツを止めないと。
「青野、松元を頼む」
「う、うん分かった」
ショック状態の松元を青野に預け、俺は記憶を頼りに対処法を実行する。
日付は分からなかったが、方法だけは確立していた。
教室に一歩入ると、そこには金属製の折りたたみ傘を伸ばしたまま、呆然と突っ立っている三居と。
その傘で殴られ出血している多部が、「痛い痛い」と悶絶している姿が見て取れた。
視線を上げると廊下側のガラス窓が一枚、これも割れて落ちている。
そして周りは事の大きさに固まったまま、誰も動けないでいた。
「尾野! すぐに廊下へ出て職員室へ行け!」
俺は教室の廊下側、扉の一番近くにいた女子の一人に指示を出す。
言われた尾野はビクンと震えた後、無言で教室の外へ出た。
「男子、全員イスを持って三居を牽制、囲め!」
男子数人が慌てて座っていたイスの背もたれを持ち、アシを前に向けながら三居の周囲を取り囲む。
流石に三居も焦ったらしく、多部からジリジリと距離を取り始めた。
俺はそんな三居に声を掛ける。とにかく時間を稼がないと。
「まずは傘を床にゆっくりと落とせ、話はそれからだ」
「ッ!」
そいや三居のヤツ、あの当時は何故こんな凶行に及んだんだろうな?
その後は教師と親の間で内々に処理しちまったんで、結局詳細は不明のまま。
と言うか、あのときも松元をなだめるだけで手一杯で、助けに入れなかったのだ。
しかし今は違う、多部の救出が最優先だ。
俺は改めて声を掛ける。刺激しないようゆっくりと、言い含めるようにだ。
「もう少しで先生達も来る、いつまでもそんな物を持ってると、後で心証が悪くなるぞ」
「……」
何があったか尋ねてはいけない。感情が振り切れ、さらなる凶行に及ぶ可能性があるからだ。飽くまで「事後処理」の話をしないとならない。
しかし三居は動かない。手に傘を持ったまま、荒い呼吸だけが繰り返される。
仕方ない、全員で突撃するか?
と。
「お、お前ら、いつもいつも俺のことを臭いだなんだってバカにしやがって!」
……ああそうか、それが原因だったのか。
三居の家は、この辺りでも割と大きな養鶏場である。
毎日家の手伝いをしているのだろう三居は、まぁ確かに良い匂いとは言い難かった。
それに時期ともなれば、鶏糞を集めた肥料も自分の養鶏場で作っていた。
今思えば、それは第一次産業の従事者として、至極当然な尊い在り方だったが、何せ学校は小中と同じ顔ぶれである。
中には幼少の頃から三居をからかうヤツもいたのだろう。
転校生の俺にはその辺りの詳細は分からないが、長年の鬱憤がたまたま今日になって、一気に爆発したのかも知れなかった。
ふと男子を振り返ると、苦虫をかみつぶしたような顔のヤツが何人か見て取れた。お前らか。
そして視線を戻すと、多部の出血は記憶にあったものより多かった。
俺は意を決してイスをそっと床に置き、三居に一歩近づいた。
「そうなのか?」
「ああ!」
「そうか、俺は全く気づかなかった。すまん、助けてやれなくて」
「ッ!? は、初川に謝ってもらうことじゃねぇよ!」
「それでもすまん、悪かった。ここにいるだろう虐めたヤツラに代わり、今は俺が謝る。だから多部を解放してやってくれないか? 流石にちょっとまずそうなんだ」
そこで三居は多部の方に振り返り、出血量の多さに驚愕して傘を放り出した。
力なく膝をつき、頭を抱えて震えだす。
よし。
「誰でもいい、清潔なハンカチか何かを貸してくれ、早く!」
「こ、これで良ければ」
たまたま近くにいた山口が、鞄からおずおずとタオルを取り出した。
「悪いな山口、多分これ返せないぞ?」
「うん、いいよ、自由に使っちゃって」
「よし、俺のとあわせて二枚あれば足りるか。あと男子何人かで、三居のことを見てやってくれ」
「お、おう分かった」
呼びかけに数名の男子が集まってきた、これなら十分かな。
後は応急処置である。とは言っても簡単な止血程度だが。
仕事の関係で、救急救命の講習を受けておいた記憶が役立った。
一枚を厚めに畳んで傷口に押し当て、もう一枚をほっかむりのように巻いて固定。
最後にもう一度山口に声を掛け、急ごしらえの枕を作って頭部を高くしておいた。救急車が来るまではこれで十分だろう。
「多部、大丈夫か? 患部の痛み以外に、吐き気とか目眩は無いか?」
「うっ、うん、大丈夫みたいだ。助かったよ初川」
「おう、このご恩は五分ぐらいは感謝しててくれ」
助けられたことで落ち着いたらしい多部は、顔色こそ青ざめてはいたものの、ほんの少し笑ったようだった。
だがその後に。
「僕も子供の頃は、三居にひどいこと言っちゃってたな……」
ポツリと。
そう言って目を閉じた多部は、ひどく落ち込んだようだった。
「そう思うなら、次に会ったとき、ちゃんと謝ればいいんじゃないか?」
ドタドタと廊下から教師達の走る音がする。
それを聞きながら多部は、ごめん、ごめんと、うわごとのように呟いていた。
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後日。
多部は出血量こそ多かったものの幸い傷は深くなく、救急車で搬送された病院で3針ほど縫い、一週間後に退院してきた。
何せ部位が頭部だったので、後遺症の検査のために入院が長引いたのだと言う。
三居は親と教師で話し合いの上、一週間の停学となった。
本人は事の重大さをきちんと理解し、大いに反省しているとのことなので、かなり穏便な処置になったらしい。
あとはまぁ各家での話し合いだ、そっちは子供が関わるべき話じゃない。
多分、再発防止の誓約と、入院治療費の全額負担ぐらいで終わるんじゃないだろうか?
そして今回の事件の発端となった出来事、要はイジメについては、心当たりのある連中全員で三居に謝ることになった。
教師側も知らなかったこととは言え、一歩間違えれば警察沙汰だったのだから、きちんと対応・解決してもらいたい。
最後に俺である。
後日消防隊員から「迅速・適切な応急処置だった」として感謝状の贈呈と、その表彰式が行われた。
お陰で校内では、今やすっかり時の人である。
……例のSE音、なんとかオフになりませんかねオオトモ様?
(どーもならんのー)
あっハイそうですね。
時々忘れそうになるが、本来の目的はチョコの贈り主探し。
しかしそれも今回の様な事態になると、ぶっちゃけ困り果てるのだった。
何せ数が多すぎる。
当初はまさかと思ったが、今は上級生からもたまにあの軽快で無責任な音が聞こえるのだ。
これじゃ絞りきれないじゃないか……、一体どうすりゃいいんだ。
一度、山口にはメチャクチャ遠回しに「まさか俺のことが好きで好きで仕方無い、なんて奇特な人はいないだろーなー」的なカマかけを実施したが、何故か無言で叩かれた。しかも笑顔で青筋を立てながら。
器用だなお前。
────そんなこんながありつつも。
あれから二週間後の日曜日、俺は青野と二人で、地元のローカル線に乗っていた。
「なんだか夢みたいだねー」
「なんだそりゃ」
青野はこっちを見て、ふふんと笑った。
「まさかアンタと一緒に、映画を見に行くことになるとはねー」
「まぁ気晴らしに付き合うって言ったのは、俺だしなぁ」
「でもさぁ、なんだかいいのかなって」
「何の話?」
ここまで来ておいて、いきなり妙なことを言うヤツだ。
「アンタをアタシが独占しちゃってさ、これってその、あの」
「んん?」
「えっ、いやっ、やっぱりなんでもないっ!」
テニス部で日焼けしたあどけない少女が、顔を真っ赤にするというのはなかなかに貴重な瞬間だ。
この時代にスマホがあったら、連写しまくっていたかも知れない。
「で、何の映画を見るの?」
「実は特には決めてないんだ、だから行ってみて、青野が見たい物を見ようかなと」
「えー、アンタが見たい物がいいなー」
「なんでさ」
封切り初日に「GUNHED」を見に行き、開始早々15分で、当時カノジョだったカミさんが熟睡してしまった記憶が蘇る。
「……アンタのこと、もっと知りたいもん」
「俺の趣味にあわせる必要は無いんだけどな。そもそも映画より何より、俺は青野の笑顔が見たいだけだし」
「ふえっ!?」
「どした?」
「うぐっ、な、なんでもない……、でしゅ」
ピンポンパンポーン♪
まぁ映画は実際二の次だ、青野には笑っていて欲しいというのは本当だしな。
……それは良いとして、ちょっと声の音量抑えませんか青野さんや。
なんだか周囲のじーさんばーさん達の顔が、妙にニコニコなのが気恥ずかしいんだが。
それから街の駅へ着くまでの間、青野はずっと車窓から外ばかりを見つめていた。
……と、思いきや。
こっちチラ見するたびにSE音鳴るんだよね、バレてるっての。
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結局その日はスターウォーズを見た。
小さい地方の街なので、そもそも選択肢がそんなに無かったのだ。
しかし映画館の一つが昔はまだ子供向けではなく、にっかつロマンなんちゃらの建物だったのをすっかり忘れていて、現場に着いてから大慌てでそこから離れたのは失敗だった。
絶対ムッツリだと思われたよな、くっころ。
意外なことに、青野が瞳をキラキラさせながらSWを見ていたのが面白かった。
確かに普段から乙女チックとは言い難かったが、こういうのにも興味があるとは思わなかった。
見終わってパンフを買い映画館を出ると、もう結構いい時間だった。
デパートのレストランで軽く食事を取ってから帰路につき、駅で別れる頃には一番星が輝いていた。
「じゃあ、気をつけて帰れよ」
「うん、初川もね」
おおぅ、唐突に名字呼び捨てになったぞ? ま、それはさておき。
「もう暗いし家まで送ろうか?」
「それはダメ!」
……あ、いかん、うっかりしていた。そりゃ不仲な両親のいる家なんて、友達に見せたくは無いだろう。
浮ついた気分が一瞬で消し飛んでしまった、マズかったな。
「お、おう、なんか悪かった。ごめん」
「っあ、アタシこそっ、ごめんなさい」
「事情はよく知らないけど、とにかく謝るよ」
「……うん、ごめんね」
俯いたままの青野を見ていられず、俺は彼女をぐいと引き寄せると、そのまますっぽりと抱きすくめた。
そう言えばカミさんが落ち込んでいた時、よくこうやって抱きしめてやったっけ。
視線を合わせることはせず、ただただ相手の存在を感じること。それだけで何故か心の距離が縮まった気がしたものだ。
「ちょ、ちょっと」
「うん、これぐらいなら許してくれるかな」
「何が?」
「まぁいいから、ちょっと耳を俺の心臓に当ててみてくれ」
耳の位置がオレの心臓の高さにちょうどとか、改めて青野の小ささを実感する。
「うん……、でもこれってなんなの?」
ここまでやっといてなんだが、少々気恥ずかしくなったので、オレは咳払いを一つしてから続ける。
「人ってさ、こうやって心臓の音を聞いてると、それだけでリラックスするんだって話」
「そうなの?」
「オレらぐらいの年になると、こんな距離で他人に接する機会って、あんまし無いじゃん」
「まあ、そう、だね」
「だからもう少しこのままでいてみてくれ。騙されたと思って、な?」
「……うん」
抱擁とは言えない。
ただただ相手の存在を、五感を使って感じる行為。
縋りたい人に差し伸べてやれる、これが俺の精一杯だ。
「ねぇ」
「ん?」
「アタシ、ドキドキしてる」
「奇遇だな、俺もだ」
「うん、聞こえるよ」
「で、感想は?」
「すっごく落ち着いた」
「そりゃ良かった」
どれくらいこうしていたか分からない、気付けばどちらからともなく離れていた。
ポツポツと灯り始めた街灯に照らされた青野の顔は、これ以上に無いぐらいの笑顔。
「……このキザやろー」
「ひどくないか!?」
「あはは」
「まぁいっか、じゃあまた明日学校でな」
「うん、今日はありがと、また明日ね」
小柄な少女が駆けていく。
角を曲がって見えなくなるまで、お互い視線を交わし合った。
そして一人になってふと気がつけば、もうすっかり夏の気配だ。
そういや中学の頃は星が好きだったよな、俺。
そうだ、雲が切れたら星座を結ぼう。
星を見ながら歩いて帰ろう、ああそうだ、BGMにはあれがいい。
坂本九さんの名曲を口ずさみながら、俺はひどくゆっくりと家路を辿った。




