神代列車
目を覚ますと座席シートに右頬が沈んでいた。
ガタンゴトンと唸る電車の音が頭に響く。
あれほど賑わっていた車内から人影が消え、窓の向こうの星空だけが私をみていた。
電車内の明かりは走行中だというのに薄暗くなり、紺色のシートになじんでいた。
「……ふぇ」
だらしなく溢れた溜め息と共にすっと体を起こす。
溜め息の理由は窓の外に広がるそれが私の知らない夜空だったからだ。
都内から郊外に向けて走るこの電車は終点に近付くにつれて街の明かりを離れ、静かな田舎の夜空に近付いていくと六年間の通勤で覚えていた。
20分程乗っていれば一面にそびえていたビル群は消え失せ、郊外の街並を抜けて、その先には田畑が広がっている。
私はその景色を経験則で覚えていたはずだ。
けれど今、窓の先にあるのは文字通り一面の夜空だった。
どこにいっても立ち並んでいた電信柱も、世界の端を隠していた山々も消え失せ、星の瞬きとそれを包み込む底無しの暗黒だけが私のみた景色だった。
この電車は確かに宇宙の中を進んでいた。
……まずは記憶の整理が必要だ。
仕事帰りに乗った電車はあいも変わらずに沢山の人で溢れていた。
やっとの思いで座った座席も両端にしかめっ面のおじさん達がやってきたので、やむなく鞄を握りしめ、身を縮めながら駅を待っていたはずだった。
小柄な私の領域を侵略するように両隣で腕を組む彼等はここでないどこかをみながら鎮座していたのだ。
その圧迫感を顔にださないよう俯きながら、ガタゴトと揺れる席で駅に着くのを待っていた。
重なる音と重なる疲れは不意にを重くする。
そのせいか生温い車内の空気に飲み込まれ、の中におちてしまったのだろう。
現時点で確かなことは一つ、降りるべき駅を寝過ごしてしまったことだけだった。
どっちにしたって私は夜空を泳ぐ電車にのったことなどないのだ。
そこまでが確かな記憶だった。
電車の中は人が居ないことを除けば毎日眺めているそれと同じだった。
温泉街で楽しそうにはしゃぐ家族が描かれた観光地、個別指導を異様に押し出した中高生向けの進学塾、過払い金返済を歌う法律事務所等々、隙あらば目に映るポスター達。
風に揺れる提灯のようにふらふらと踊り続ける手すり。
誰も座って居ないことを除けば私の座る席と全く同じ鏡合わせの座席。
私を取り囲む星空の中、不釣り合いな日常は変わらずそこにあった。
「あら、目が覚めたのね」
呆けて窓を眺める私の隣から不意に声がする。
「……ひゃい!」
人気がなかったその場所に現れた声を聞いて瞬間的に背筋が伸びる。
「あら、驚かせちゃいましたね。 ごめんなさいねお嬢さん」
恐る恐る横へ振り向くとそこにはモノクロのドレスを着た女性がいた。
彼女は、私の母親のような、やさしい声をしていた。
彼女は、少なくともこんな電車の中で着ることのない、袖の長いゴシックドレスをまとっていた。
彼女は、しわがよってはいるものの、血色のよい綺麗な手をしていた。
彼女は、熱して膨らませたばかりのガラス玉のように、真っ赤な目をしていた。
彼女の頭部は兎のそれだった。
それは一目で被り物ではないことがわかる。
頭上にまっすぐと伸びたひょこひょこと揺れる白い耳。
ちょこちょこ動く小さな口とふらふら揺れるヒゲ。
綺麗に生えそろった真っ白な毛並み。
その頭は以前私が飼っていた兎と同じそれだった。
先月、年老いて死んだそれと同じだった。
彼女が不思議そうにぱちくりと瞬きするのをみて、私も思わず瞬きをする。
「あ、あはは……、寝過ごしちゃったみたいですね」
初対面の相手に容姿のことを聞くのもはばかられるのであれは被り物なのだと自分に言い聞かせた。
その結果コンビニでレジの店員に声をかけられた時のように当たり障りのない返事をしたのだ。
「それは大変ね、少し待ってて」
私の様子を察してか彼女は膝の上にのせていた手持ちを開き小さな赤と青の粒を取り出す。
「これ、あめちゃんよ、疲れたときに食べてね」
「ど、どうも」
なされるがまま彼女の暖かい手からその粒を譲り受ける。
それはあめ玉と言うよりも錠剤のようで、指先で転がすとボンタンアメのようにオブラートで包まれている手触りが残った。
今すぐに口に入れたいとは思わなかったのでそれを右手に握ったまま話をそらして質問することにした。
「……えっと、今、この電車ってどうなってるんですかね?」
兎の婦人は私の質問に何一つ動揺なく答える。
「貴方は今『神代列車』に乗ってるのよ」
「……神代列車?」
聞き慣れない単語に疑問が過る。
「そう、神代列車。ベットが積まれた電車じゃあないのよ」
「……はぁ?」
私の疑念が解決しないうちにどこからかアナウンスが聞こえてくる。
「次の停車駅は大尾岳。 次の停車駅は大尾岳」
抑揚のない機械音が聞き慣れない駅を読み上げる。
それは少なくとも私の乗る電車が止まるはずのない駅名だった。
「まぁ、みていなさいな。 丁度次の駅に着くようね」
「何を見たらいいんですか?」
何の気なしに訊ねると兎の婦人は向かいの席を指さした。
「ほら、あそこに座る牛の男をご覧なさい」
その指に従うまま目を泳がせると彼女と同じように牛の頭をしたスーツの男が座っていた。
最初に見渡した時には誰も居なかったはずなのに、彼は最初からそこにいたと言わんばかりに鎮座していた。
私が凝視していてもそもそも存在に気付いていないようにここでないどこかを眺めていた。
「彼は今からこの電車を降りますよ」
兎の婦人がそう言うと列車の揺れは次第に緩くなり、やがて止まる。
その間に窓の向こうの星空は急激にうねり始め粘土細工でも捏ねているかのように何かの形を目指して胎動していた。
「ここの電車はね、神様が作ったんですよ」
「そんな素っ頓狂な!」
私が驚き一言添えたころには星空は摩天楼のビル群へと姿を変えていた。
「昔々、神様は生き物を正しく導いてくれていたの」
それは私が働きに通うオフィス街よりも巨大な建物が並ぶ街並みになった。
それでいて蛍光灯の代わりに蝋燭の灯火の吸い込まれるような光源が街を埋めていた。
「けれど神様も忙しくなったから神様の代わりに乗客を正しい場所に送るこの列車が生まれたのよ」
窓から見えるその場所は大きくて立派な街なのにどこか寂しい場所だった。
「大尾岳、大尾岳。 ご利用ありがとうございました」
心無いアナウンスと共に牛男は立ち上がり、電車の扉に向かっていく。
彼が扉の前に立つと突然扉が開き、肌に纏わり付くような風が吹いてくる。
それは生ゴミの山に四方を囲まれているかのような、明確な不快感を伴って私の傍にやってくる。
不愉快な風に嫌気がさした私はあのドアを閉められないのかと席を立つため足に力を込めた。
しかしそれよりもはやく兎の婦人がそっと私の手を掴み妨げる。
「たたない方がいいわ、ここはあなたの行くべき場所じゃない」
優しい顔の兎の婦人はこれから起こる何もかもを知っているかのようだった。
電車の中で迷子の私をどこかに導くように強く手を握っていた。
「……元の電車に戻るにはどうしたらいいんですか?」
私の不安を和らげようとしているのか彼女は優しく微笑んで言った。
「うん、それなら簡単よ、終電まで降りなければいいの」
ドアが閉まると風がやみ電車はガタンゴトンと鳴き声をあげる。
窓の向こうの摩天楼もドアが閉まると溶け始め、気付いたときには夜空に戻っていた。
それから暫く私達はその揺れに身を任せていた。
相変わらず兎の婦人は私の手を握ったままで放すことはない。
思えばあの子が生きていた時、よく私の膝の上で丸くなっていた。
白い毛皮の底から伝わる生き物の温度は私の不安を拭ってくれた。
彼女は確かに私を守ってくれていたのだ。
兎の婦人に聞きたいことは沢山ある。
けれど一度訪れた優しい沈黙が私達を包んでいた。
前からどこか心の底でこの時間を望んでいたような、そんな気がした。
車窓の外に映る夜空は絶えず輝き、天の川を越えていく。
海の中から街の明かりを覗けるのならきっとこんな風に光は流れていくのだろう。
「次の停車駅は前ノ空。 次の停車駅は前ノ空」
再び流れてきたアナウンスを聞いて婦人は言った。
「……うん、私はここで降りるわね」
彼女がいなくなることに明確な不安を覚え私は問いただす。
「……あなたもいっちゃうんですか?」
婦人は困ったように、少し寂しそうな顔をした。
いくらかためらう素振りをみせながら小さな口から確かな言葉が発せられた。
「ごめんなさいね、私はあなたの神様にはなれないの」
それは拒絶の言葉ではなく、諦めの宣言だった。
「……どういうことですか?」
彼女の赤い瞳が私をみていた。
「神様にはね、居場所が必要なの」
星の明かりは消えてゆき、暗雲のトンネルをくぐっていく。
「前ノ空、前ノ空。 ご利用ありがとうございました」
慈悲もなく放送されたアナウンスと共に兎の婦人は立ち上がった。
気が付けば窓の外には灰色の雲海が広がっていた。
あの子とお別れした日も確かこんな曇り空だった。
「お嬢さんもいつか、見つけられるといいわね」
彼女は扉の前に立つと、振り向きざまにそういった。
ドアの向こうから夕立の後のようなさみしい風が吹いてきた。
それは確かに、そして静かに、彼女を吸い込み消えてった。
私はまた、一人になった。
一人きりで駅を待つ時間は実に空虚だった。
窓の外の夜空はこれまでの変化が嘘のように深い闇に沈んでいた。
わずかに見える星の光は細く、鈍く、澱んでいた。
揺れる電車の音は次第に誰かの声に変わっていく。
「オイデ、オイデ」
「イイコダネ、オイデ」
それは遠い記憶の中の声だった。
ぼやけて遠のいていたけど、確かに私の声だった。
その声に気付くと窓の外に映る星が沢山の人々になっていた。
それは昔からの友人達や職場の人間、私の家族等よく知った人達もいれば、知らない人も沢山いて誰が誰だかわからなかった。
でもその全てが同じ声で私を呼んでいた。
「オイデ、オイデ」
あの子を膝に呼ぶ時の私の声で呼んでいた。
重なる自分の声に目眩がした私はその場に踞る。
踞ると余計に世界は暗闇に包まれ、座席に座っているのかどうかもわからなくなった。
電車が溶けて消えていくようだった。
そのまま肌に纏わり付く風が吹いてきて、星のない夜空に溺れていった。
「イイコダネ、イイコダネ」
息が苦しくなったところで手のひらに握ったあめ玉を思い出した。
赤と青の二つのあめ玉は変わらずにそこにあった。
赤いあめ玉を見つめてみると兎の婦人が私をみていた。
私はもがくように赤いあめ玉を口にする。
それは酸味ばかりで甘味のない、美味しくないイチゴの味がした。
「……まずい」
一言つぶやき顔を上げると私はまた神代列車に戻っていた。
夜空の星は輝きを取り戻し、今でも鈍く光っている。
「次の停車駅は終点、御宮島。 次の停車駅は終点、御宮島」
アナウンスが聞こえたとき私は自然と立ち上がった。
座って待っているのはいけない気がしたのだ。
電車の速度が落ちるに連れて星達は光の線になっていく。
私にそれを止める手段はない。
揺れる電車の中で待つことしか出来ないのだ。
それでも私は今、立ち上がらなければならないと確信した。
電車から降りるため、立ち上がって備えるべきなんだ。
兎の婦人がそうしたように私は扉の前に構える。
「終点御宮島、終点御宮島。 ご利用ありがとうございました」
頬を撫でるように、夜風が吹き去って行った。
***
目を覚ました時、紺色の座席シートに右頬が沈んでいた。
「……ふぇ」
そこから見える夜空は先程までの不可思議な宇宙ではなく、見慣れない田舎町だった。
握りこぶしで目を擦り欠伸を一つしたところ、右手に握ったスマートフォンに気付く。
段々と冴えていく意識の中で私はスマホを眺めながら眠っていたんだと理解していった。
時刻を確認すると降りる予定だった時間を10分程に過ぎていて、どうにも今度こそ間違いなく寝過ごしてしまったようだ。
落胆がこみ上げてくる中、握ったスマホと手の隙間からコロンと燻る音がする。
スマホをしまって確認するとそこには一粒の青い飴玉があった。
どこで手に入れたかは記憶に無い。
手の平のあめ玉は寝ている間に強く握ったせいなのか真っ二つに砕けていた。
オブラートのような表面と違い砂糖菓子特有の粘ついた断面が肌につく。
もったいないとは思うけど、私はこれを口に入れたいとは思わなかった。
またこれを口にすれば何かが壊れてしまう、そんな気がした。
「居場所……、か……」
ガタンゴトンと続く電車の音が頭に響く。
砕けた飴を眺めつつ私はまた、帰っていく。
電車に揺られ、夜空に揺られ。