小説に科学や学説などを求めてどうすんの?
小説という言葉がいけないのだろうか?
などという事も考えてしまう。
もともと小説というのは「くだらない話」だとかいう意味だったと聞く。
正確なところは調べてもらうとして、どうもそういったものだという話を聞いた。
本来なら、これは良い意味ではなかっただろう。
だが、俺はこれを前向きにとらえたい。
下らない話であるからこそ、格式張らず、膨大な知識や学識なども必要としない。
好き勝手に思うがままに綴ることが出来ると。
それが小説というものの良さではないかと思う。
言ってしまえば、空想や妄想だ。
それで良いではないか。
そもそも、空想や妄想でないお話があるのだろうか?
史実や事実を述べてるならともかく。
いわゆるノンフィクションというのではないかぎり、たいていは空想や妄想や想像ではないのか?
少なくとも俺は、小説というのを事実ではないと思っているのだが。
学説や科学ならともかく、たんなるお話にそんなもの求めてどうすんだろうと思うのだが。
こういったものを取り入れる事で面白くなる事もあるだろうが、でもそれは絶対に必要な要素ではないはず。
荒唐無稽なものであっても、面白ければそれでいいだろう。
そして、万人が認めなくてもかまわない。
それぞれ好き嫌いはあるのだから、自分の好みにあったものを楽しめばよい。
娯楽とはそういうものだと思っている。
そう考えると、小説という呼び方も実情に反してるかも、などと考えてしまう。
なまじ『説』という文字があるから、それを論文か何かと思ってしまうのだろうかと思ってしまう。
あるいは、文学なる高尚な物と同一視されてしまうのだろうかとも。
だとすれば、小説ではなくもっと別の呼び方をした方がよいのかもしれないと思う。
ありがたい事に日本には物語とかお伽噺といった言葉がある。
これらの本来の意味は、実は知らない。
まあ、ネットの時代だ。
検索すれば意味はすぐに分かるだろう。
由来も知る事が出来るかもしれない。
けど、とりあえずこの場においては、娯楽としてのお話としておきたい。
小説やら文学やらが、何かしらの主義主張やら科学的根拠が必要なものだとするならば。
そして、学説や論文のようなものだとするならば。
学説や論文、科学に主義主張などなど。
宗教などもこの中に入るのかもしれない。
こういったものならば、ヤジ(批判)が飛んでくるのもしょうがないかなとは思う。
対案に対論なども必要かもしれん。
何が正しいのかを求めてやりあう必要があるのかもなあと思う。
正解が出て来るまでは。
けど、物語やお伽噺にそんなもの求めるのか?
主義主張とか思想とか、科学的な考証やら何やらとか。
そんなものわざわざ求めるのか?
お話しの展開にこういった要素があったとしても、そんなものお話しを盛り上げるための道具でしかないだろうに。
そこに「それはちがう!」とかいうのは野暮ってもんであろうよ。
「そんな真剣になってどうするの」という事になろうさ。
だって、荒唐無稽な作り物なんだぞ。
そこに科学的な正確さとか、その他諸々の見解やら考証などを持ち込んでどうするのだろうか。
また、こういったものを盾にあれこれと難癖をつけてどうするのだろうか。
それをやりだしたら、ありとあらゆる小説が否定されねばならんだろう。
現実に起こった出来事ではない、起こった出来事を忠実になぞらない話など排除していかねばならないだろう。
名作と呼ばれてるものも焚書坑儒せねばならなくなるだろう。
ファンタジー作品やSF作品の大半は消滅する事になるだろう。
時代劇や歴史物だって同様だろう。
小説を空想や想像を詰め込んだお話というならば。
あれこれ無駄に突っ込むのは野暮だと、無意味だと考えた方がいいだろう。
ある程度現実味があるほうが面白いとは思う。
だが、それであったとしても所詮は絵空事である。
辻褄の合わない、まとまりのない夢のようなものが小説ではないだろうか。
むしろ、夢みたいな事を書き記したものが小説ではないだろうか。
それを目くじら立てて、あーでもないこーでもないと否定するのに意味があるのだろうか?
科学的にとか色々な理由で否定していっても意味がない。
意味が無いどころか邪魔ですらあるように思える。
空想物語である小説に求めるのは、面白いかどうかであろう。
科学や歴史の考証ではない。
もし科学的な見地や歴史的な事実が欲しいなら、論文とかを読んでた方が良いのではなかろうか?
小説の中にもこういったものは出て来るだろうけど、それはあくまで味付けや雰囲気作りの一環ではないかと思う。
少なくとも俺はその程度の理由でしか使って無いし、この程度の意味でしか使えない。
こちとら博覧強記の学者でもなんでもない。
学説に目を通し、何が真相なのかを調べるために資料にあたったり実験を繰り返してるわけではない。
そういった事がしたいなら、どこかの研究所などに出向いた方がよっぽど効果があるだろう。
小説に求めるのは、筋違いというか勘違いというか、見当違いな気がしてならない。
お伽噺にそんなもの求めてどうすんだ、という事にしかならんと思うのだが。
などとダラダラと書いてきたわけだが。
つまりは、お伽噺に何を求めてるんだ、という話だ。
学説や科学でもなんでもない娯楽である。
面白ければそれでいいものだ。
それ以外に何を求めるのだという事になる。
どうしてもつまらないというならば。
読むのをやめればよい。
当たり前だが、読者はそれが自由に出来る。
この自由は誰にも奪う事は出来ないし、奪っていいものではない。
書く側としては、留まってもらいたいもんではあるのだが。
ただ無理強いは出来ない。
去っていくならば、泣きわめきながら見送るしかない。
でも、そうやっていくのが、多分お互いのためになるのだろうと思う。
読者は不平不満を抱えながら読み続けるよりも。
書き手も無理して読んでもらわなくても。
お互い好きなものを読み、好きな事を書いていければそれが一番ではないかと思う。
少なくとも、お互いこれ以上ストレスをため込まないで済むのだろうから。
とはいえ、こんな事を書いてどれだけブックマークが消えるか。
お気に入りユーザの解除がどれだけ出てくるか。
このあたりは割と戦々恐々としてしまう。
まあ、しょうがないと思って諦めるしかないのだが。
はてさて。
ただまあ、気楽に楽しむのが娯楽であろう。
作る方も変に肩肘張らずに気楽さをもって作っていければ良いと思う。
そこを無駄に難しくしていけば、作り手もどうしても減ってしまう。
それでは面白いものが生まれる可能性が減る。
それだけは御免だ。
読み手の一人として、面白いものが生まれる可能性を潰したくはない。
だからこそ、下らない話であるはずの小説は、今後も空想や妄想、想像をもとに作られていってもらいたいと思う。
賛成や賛同や感想はメッセージにて。