極めて個人的な世界のおわり
とあるもしもの話
多分、初恋だったのだ。
あの人の穏やかに微笑む顔が好きだった。こちらに向けられる柔らかい笑みが、優しく撫でてくれる手が、静かだけどよく通る声が、好きだった。あの人にとって、私は顔見知りの小さな女の子でしかなかっただろうけれど、私にとって、あの人は王子様だった。
肩を並べて立ちたかった。それが無理なら、せめてその背の見えるところを歩きたかった。声をかけた時に振り返ってほしかった。あの人が、好きだった。あの人の特別になりたかった。それを素直に言ったって、あの人は、子供の憧れに過ぎないと、穏やかな声で諭すだけだっただろうけど。
私が生まれ育った街を旅立ったことを、あの人も、お父さんも、若者の冒険心からだと思っているんだろう。そういう気持ちが全くないとは言わない。あの人や、他の人たちの話で、街の外の、広い世界への興味が生まれたのは、本当のことだ。会うたびに聞かせてもらった、外の世界の話で、私は旅立ちを夢見た。楽しいだけのところではない、危険なこともあるのだと、あの人は常に言っていたけれど、それで気持ちがしぼむことはなかった。
私は、あの人と共に旅立ちたかった。あの人と旅を共にしたかった。あの人の隣で世界を見たかった。
了承してもらえないことは知っていたけれど。だってあの人は、いつも一人だったから。やんわりと栓を引いて、誰も内側に踏み込ませなかった。誰にも頼らず、一人で生きていた。生きられていた。誰の助けも必要としていなかった。ううん、もしかしたら私にはそう見えていた、というだけなのかもしれないけど…。
でも、あの人が誰と組むこともなく、一人で世界を渡っていたことは事実だ。同行者は、私の知る限りいなかった。
旅立ってから、あの人と顔を合わせる頻度が減ったかというと、正直よくわからない。元々、あの人が街を訪れる周期は年に一度あるかないかだった。あの人は毎度決まった旅路を選んでいるわけでもなかったし、定期的なものではなかった。旅立った今もそう。いつだって、あの人と顔を合わせるのは思いがけない再会だ。そして、いつも嬉しい再会だった。私があの人の力を必要としたときには、いつもあの人が現れた。偶然の再会だね、何か必要なものはあるかい、と笑ってくれた。運命だと思った。やっぱり私の王子様なんだと思った。きっと、一方的な思いだったんだろうけれど。
あの人にとって私は、いつまでも、幼い頃から見守ってきた顔見知りの少女に過ぎないんだろう。
けれど、私は。
そして、私は。
あの人が恋していることを知ったのは、偶然だった。知らない男の人と笑いあっているあの人を見て、その表情を見て、わかってしまった。私はいつも、子供扱いしかされていない。対等な位置に立ててすらいない。その楽しそうな笑みに、遠慮のない物言いに、己が優しくされていたことを知った。そして、ええ、それ以上に、あの人がその人を見つめる瞳が、時折切ない恋の色を帯びていることに気付いてしまった。それは、きっと、私があの人を見る時と、似た色をしていた。
悔しかった。そして、妬ましかった。あの人が選ぶ人が素敵な人じゃないわけがないとは思ったけれど、もしろくでなしなら闇討ちしてやろうかとも思った。真正面からぶつかって勝てる相手には見えなかったから。
…その必要は、なかったけれど。さりげなく近づいて、あの人のことを尋ねたら、すぐにぴんときた。この人もあの人を憎からず思っているんだって。お互いにちゃんと伝えあっていないだけで、思いあっているんだって。
そして、私は失恋を自覚した。幼いころ夢見たことは叶わないのだと知った。悲しくて、虚しくて、寂しくて、泣いて二人を困らせてしまった。二人は、特にあの人が恋した男の人は、わけがわからなかっただろう。だって、あの人の恋に、あの人自身もまだ気付いていなかったから。その人は恋に敏い方でもなかったから、あの人より先にあの人の恋心に気付くはずもなかった。私の失恋に気付いたのは、私だけだった。
もしかしたら、私の恋を実らせる方法もあったのかもしれない。だけど、それは、あの人の恋を摘み取ることだ。未だ通じ合っていないとはいえ、結ばれることのできる恋を摘み取って平気でいられる気はしなかった。摘み取られるべきは、私の恋の方だった。
あの人は、私の王子様ではなく、彼のお姫様だったのだ。つまり、そういうことなのだろう。…うん。彼の王子様ではないだろう、多分。あの人なら務まるかもしれないけれど。
でも、だから、少しだけ、意地悪をすることを許してほしい。ちょっかいを出して、困らせることを許してほしい。この二人の関係は、きっと放っておけばナメクジよりも遅い速度でしか進まない。ちゃんと結ばれてくれるかわからない。
「――ずっと、前から好きでした」
だから、私は、気付いたんです。




