一章【呉 理嘉】
【落下】※文末に用語解説あり
「はぁっ……はぁっ…………ふっ」
ぐっ、と右手の人差し指と中指に力を入れて体を引っ張り次の手をホールドする。
「ねぇ理嘉ちゃん、そろそろ帰ろうよぉ。日も暮れてきたし、それに……」
左手でカチ、右手はポケットに。
左足の爪先で石を蹴って跳び上がる。
右足を壁に滑らせるようにスメアさせ、三角跳びの要領で左手で先のガバ石をガシッと掴んだ。
ついさっきまで左手が掴んでいた出っ張った石は、今は私の休息所になっている。
汗が頬を伝う。
気持ちいい……。
やっぱりボルダリングの醍醐味はヘンテコな態勢からちょっと無茶なランジして先の先の石を掴む瞬間にあるよね。
まあ、大会でやったりしたら周りをハラハラさせるだけで、呆れられた眼差ししか向けられないだろうけど、私はお行儀よくボルダリングをやってるんじゃない。
元々体を動かすのが好きで色んなスポーツを試してみたけど、体一つで壁を登る。岩を登る。ただそれだけのスポーツが、こんなに体を、心を熱くするなんて誰か想像できるだろう。
普段なら家にある壁を登るんだけど、今日は特別。
むしろ今日から一週間が勉強を頑張った私へのご褒美。
「ねぇー理嘉ちゃんてばぁ。勝手に使っちゃダメなんだよ? それにマットも敷かないで危ないよ。もう帰ろうよぉ。明日もテストなんだよ? 帰って勉強しなきゃだょ……」
……むぅ。幸は何も分かってない。
ボルダリング部じゃない部外者の私がこの壁を登れるのは、部活禁止のこのテスト期間だけだと言うのに。
それに、これは私のご褒美。
今日日JKの嗜みであるお高いカフェのラテに匹敵する、これはテスト勉強を頑張った私への甘い甘いご褒美なのだ。
甘い甘いご褒美が熱い熱い肉体酷使なのは我ながらストイックだと笑えるけど、今私が燃えられるのはボルダリングだけ。
幸が勧めてくれる少女漫画やライトな活字も確かに面白いけど、心を震わす程ではなかった。
親が小さい頃から通わせてくれたバレエ教室もピアノも英会話スクールも。
息抜きにと買い与えてくれたバイオリンもギターもドラムセットも。
全部それなりに楽しめて、お偉い先生方も褒めたりコンクールで賞をくれたりしたけど。
どれも私が熱中するものじゃなかった。
どれも私を変える力は持ってなかった。
こんな風に言うと、またぞろ高飛車だなんだと陰口を叩かれちゃうんだろうけど、仕方ないじゃんって思う。
だって、やればどれも出来ちゃうし、皆様が私を高く評価してくださるんだもの。
私が悪い訳じゃないよね?
私が良いだけなんだよね?
なら仕方ない。
妬まれても、羨まれても、私にはどうしようも無いじゃない。
皆も私みたく頑張ってみてよ!
そしたら私みたく出来るようになるかもよ!
はい、終了!
私の中のもやもやはこれにて解散んん!
集中しよ。集中!
目の前の壁を登るのだ!
何故って?
そこに壁があるからさ!
「……理嘉ちゃんはホント自由だなぁ。何でも出来て、ズルいよ。私もそんな風に生きてみたいょ……」
幸の声が聞こえた。
聞こえないように言ったつもりだったんだろう。
私が集中して、聞こえないと思ったんだろう。
聞こえてるよ。
ちゃんと周りが見えてるよ。
自分のことばっかりじゃないよ。私。
幸のこと、ちゃんと見てる。
幸の声、ちゃんと届いてる。
幸は私の唯一の友達だから。
ただ一人の親友だから。
だから、幸にだけは、そういうこと言ってほしくなかったな。
そう思われてるって、知ってても。
目を瞑って、息を整える。
壁は残り半分。
これから先は難易度がぐっと上がる。
初めて登るから、全体感はばっくりとしか分かってない。
それでも、登る前にオブザベーションはしたからどのルートが楽しそうか分かってる。
どのルートが難しくて、挑戦のし甲斐があるのか分かってる。
幸、見ててね。
ズルい、羨ましい、のその先を見せてあげる。
私が、幸を連れてってあげる。
私が見てる景色がある場所に。
右手を斜め上に大きく伸ばし、小さな石にタンデュさせる。
指先だけの力で体を持ち上げ、右手を離し、即座に次の石を掴む。
足場すら無くても腕の力だけで登り進めることが出来るのも面白い。
自分の持つ能力だけを頼りに進む。
ただ力があれば良いんじゃない。
技術があれば良いんじゃない。
体躯に恵まれていれば簡単な訳でもない。
自分の持てるスペックの全てを使ってひたすらゴールを目指す。
こんなに熱くなれるものは他にない。
楽しい……!
「理嘉ちゃん、そんな急いで登らなくても……! ……理嘉ちゃん危ないよ。マット、私持ってくるから!」
「大丈夫大丈夫! 見てて、幸。私、スゴいんだから!」
「で、でも、そんな高い所まで登って……」
あと少しだから。
もう少しだけ、私を見ていて。
小さな石を足場に右足だけで体を支える。
両手の人差し指は私の目の高さにあるスポットに収まっている。
今私の体は両人差し指と右足だけで壁に張り付いている。
少しランジすれば安定感のある石に手が届きそう。
でも、それじゃ挑戦じゃない。
その先。
ギリギリ届きそうな所に小さなスポットがある。その僅か右下にはカチも。
万が一スポットに届かなくてもいける。
大丈夫、大丈夫。
だから、今は私だけを見ていて。幸。
人差し指をスポットに差し込んだまま、体を上下に振る。
目指すは二手先の石。
見ててね、私のダブルダイノ。
「ふぅっ。ふぅっ。…………んんっ……だあっ……!」
大きく体を振って、跳ぶ。
両手を離し、空中を翔ぶ。
スポットに左手の中指が入った。
「よっしっ……ぃっ!?」
ズル、と指が滑る。
何だコレ!? 何でこんな滑るの!
まさか埃が溜まってる?!
っざけんな! 手入れはどんなスポーツでも基本中の基本だろ!?
「んぐっ」
右手を伸ばす。
カチを掴もうと目一杯。
汗が、目に入った。
「んぃっ!!?」
汗がしみて思わず目を瞑る。
カチを掴み損なう。
横滑りしたような態勢で私の頭が段々下へと傾く。
「あっ……」
幸の声が聞こえた。
そして私は無様に落下した。
***
用語解説
カチ(カチホールド)=カチっと掴めるかかりのいいホールド(石)
ポケット=穴の空いたホールド。指を差し込んだり足の爪先を引っ掛けたりする。
スメア(スメアリング)=足場のない壁に足を擦らせ足場のように使う。靴がすぐ磨り減る。
ランジ(ダイノ)=普通は届かないホールドへ手を飛ばすこと。跳躍のこと。大概のボルダラーは好き。
ガバ(ホールド)=ガバっと持てるでかいホールド。
オブザベーション=登る手順を考えること。
タンデュ=指の第一関節を引っ掛け指を伸ばして持つ持ち方。ポケットで多用する。
ダブルダイノ=両手を飛ばすランジ。