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本を読むのが好きだった。
紙の質感、重さ、インクの匂い、様々な形。知っている言葉に、知らない言葉。既知と未知の境界にあって、どちらにも転びうる文字たち。それだけでは何も意味を持たないのに、文字になり文章になり本になれば、それは一つの世界になる。
本を開けばドラゴンと仲間たちと一緒に戦うファンタジーな冒険や、冴えない自分でも白馬の王子様に迎えに来てもらえるファンシーな恋、密室で起きた殺人事件の謎を解き明かすサスペンスなどなど、手軽にその世界に飛び込んでしまう。自分にはないものがそこにあるからこそ、人は焦がれ、憧れるのだろう。……と思う。
おそらく一般的に読書好きの理由を考えてみたけれど、やはりそれには自信が持てるものではない。自分がそうは思ったことがないからだろうか。
教養のため娯楽のため。本の存在の意味なんてそんなところだろうけど、私はどちらにも当てはまらない。
私の読書理由は、その人を知ることができるから。
人は様々な思いを抱いて文字を綴る。哲学書なら啓蒙したい内容。でも、物語でも人柄は滲み出る。娯楽目的に作られたものでもそれは変わらない。文章は生き物のようなもので、リズムがあり強弱があり歌詞があり、それはまるで音楽だ。同じ楽譜でも指揮者、奏者が変わればその中身が違うように、その絶え間なく流動する文字たちも綴る人が違えば、違うものになる。人とのコミュニケーションをとることが苦手な私にとって、文字から溢れる感情は大切なお話だった。暗い奴と思われるかもしれないけど、事実暗い人間なのだから仕方がない。
私はふう、と、深い溜息をつき、キーボードを叩く手を止める。パソコンのチカチカする画面から目をそらし、目頭を抑える。少し目が痛い。閉じたまま、机の上に置いたはずの目薬をまさぐる。手の甲に何かが当たった。薄目で見れば、帰宅途中に買ったミネラルウォーターのペットボトルだった。目薬、目薬。……あった。
点眼し終え水で喉を潤し、辺りを見渡す。そこは自分部屋ではあったけれど、どちらかというと書斎に近かった。今私が腰を掛けている椅子に対面するように大きな本棚。背後にも本棚。右手にはベッドがあり、左手にはピンク色のカーテンが目に入る。
学校から三駅ほどの最寄り駅近くにある音無家は一軒家。ここはその二階の西側に位置する。帰ってきた時には赤い夕日が見えていたが、今ではすっかり真っ暗だ。
時計を見れば、夜の十時近い。もう少しやっていたい気持ちを抑え、私はパソコンを閉じた。読書以外の趣味なんてこれくらいしかない。遙に言えばまた暗いよー、とか言われてしまうのだろう。
ちょうど今はニュースの時間だったか。テレビをつけ、たまに見る番組に回す。
……あっ。
そこに映った映像に思わず声が出た。
バスが崖から落ち大きく転倒している映像。バスの前半分はその原型を失い、崖下に広がる森に突っ込んでいた。今から三年ほど前の事件。当時乗客のほとんどが亡くなった大事故だったために記憶に残っていた。夏休みだったために旅行客が多かったらしい。その追悼特集だった。それも五分ほどで終わり、今度は流行りのアイドルの話になる。悲しい話の後に随分と能天気な話題だなあと思いつつもそこに哀川さんの姿が見えてしまい、しばらく見続ける。バス事故特集よりも長い時間彼女の映像が流れた辺りなんとなく、テレビを消してしまう。
彼女のことは苦手ではなかったけれど、クラスメイトだからといって応援する義務も義理も道理もない。葵祭には出て欲しいけど。彼女が出ればきっと華があるだろうし。
さて、とノートパソコンをどけ、今日学校でもらってきたプリントを取り出す。そこには葵祭実行員議事録と書かれたプリント。そこには今年の葵祭の詳しい規定が書かれていた。実行員としてまずしなければならないこと、その話し合いが明日ある。会話は頻繁にあるので忘れないないようにしないと。
夏休みに入るまで残り二日しかない。あと学校の行事が大掃除と終業式のみになっている今、クラスで話し合う時間が十分に取れる。夏休みに入れば部活やら塾やらで全員がまとまって話せる時間はあまりない。それでも空いた時間全て費やしてみんな参加しているからすごいんだけど。
それにしても私が実行員なんて変だったかなあ、と椅子に寄りかかり、脱力する。実行委員である以上、葵祭に情熱ばかり向けるクラスメイトをまとめなければならいのはなかなかに重労働だ。
去年は衣装係として針と格闘していた。服を作るのは初めてだったけれど、本を読み漁ったらそれなりに形になったのを覚えている。彩葉くんは小道具だったか。クラスは違っていたけれど、廊下で一人日曜大工のように作業していたのを見かけた。カンナ削りが異様に綺麗だったのが印象的だった。
彼も私の我が儘で実行委員に巻き込んでしまった。私と同じく、あまり得意ではなさそうなのに。
彼は不思議な人だ。口下手であるからこそ、人の感情には敏感になりがちな私ではあるけど、彼はよく分からなかった。私が球技大会が嫌で屋上で歌っている時、気持ち悪いとも何で歌っているんだとも言わなかった彼。その表情からは何も伺えなかった。
感情が分からない人。だから気になり知りたくなり、思わず実行委員として指名してしまった。彼の気持ちも考えないで……あと周りからの見え方も考えないで。
それにしてもダーリンって……。不意に遙のからかいの言葉が蘇る。慣れない言葉に思わず顔を抑え悶える。あんなことを言うから妙な方向に思考が向く。好意というよりは好奇心の方が正しいのに。だけど人に対してそういうのも失礼なんだろうなと自分が嫌になる。
熱い顔を両手で隠し、背もたれに身を任せっきりにしていると椅子の足のローラーが滑りひっくり返った。全身を打ち付ける。いたあ、と椅子を起こしながら、転倒の音が迷惑にならないか心配になり、息を呑む。しかし、しばらく経っても誰も怒鳴り込んでくる様子はない。思わず安堵。そもそもまだ帰ってなかったか。床にころがったまま真っ白な天井を見つめる。
――どうして実行委員になったんだ。
その理由を知ったらみんなは軽蔑するだろうか。彩葉くんは隣にいてくれなくなるだろうか。
不安と諦めが混ざり、マーブル状になったそれを飲み干した感覚になる。息苦しい。喉に詰まったこれをぶちまけてしまいたい。額に手をやり、自己嫌悪に陥っていると息苦しさはお腹へ向かい腹の虫が応えた。気持ちが沈んでいてもお腹は減るんだなと当たり前だけど、白状な事実に呆れる。
お腹減った。そういえばまだご飯を食べていないことに気づき、机の上に置かれたヘッドホンと財布を手に取った。クローゼットからパーカーを羽織る。時間が時間なので、開いている店は少なそうだ。
夕飯は何にしょう?