18-1
夏が終わろうとしていた。
中夜祭の後。お祭りの高揚感のまま、私は帰路についていた。
辺りはすっかり夜。いつもと変わらないはずの帰り道なのに、全然違う風景。
音があるのだ。
鈴虫の鳴き声が聞こえる。電灯がじじっと弾ける音がする。遠くで車の走る音がする。革靴が地面を叩く音が聞こえる。どこかの家の笑い声が聞こえる。私の息遣いが聞こえる。私の鼻歌が聞こえる。夏の音が聞こえる。
「かっかっか。愉快、愉快」
――そして、彼女の声も聞こえた。
幻聴なのかも分からない、いなりさんの澄んだ声。
それが後ろから投げかけられる。まるですぐ後ろにいるかのような気配と息遣いが聞こえるが、私は振り返らない。
音で、彼女を感じていた。
「いい姫っぷりじゃったぞ。彩葉もなかなか頑張っておったのう」
私が聞こえるようになったのはあなたのおかげなのかな。
「さあのう。儂はお主の味方ではないのじゃよ。まあ、そう思うのは勝手じゃが」
やっぱりご都合主義なのかな、あのタイミングで音を取り戻したのは。
「結果論に過ぎぬじゃろう」
そもそも私が音を失っていなかったということだって考えられる。この三年間音が聞こえないのも、本当は聞こえていたけどそんな風に自分を騙していただけ。目の前にいるいなりさんも幻。夢見がちな女の子の妄想が現実に溢れ出してしまった。ただそれだけの話なのかもしれない。そんな風にも思ってしまう。
「だけれど、今のお主には音がある。それは紛れもない事実じゃろう?」
それでも過去は自分そのものだから、それがあやふやなのはとても不安なものなのだけど。
「かっかっか。今の内に不安になっておくが良い。直にそんなことを考えられんようになる。人の子の時間は考えているよりも早いぞえ?」
過去が私であるように、未来も私。
いくら振り返っても、時間という流れは私を前へ前へ押し出していく。誰もが逃れられない因果であり、それこそが物語を生み出す。
お姫様の物語は終わったかもしれない。だけど、私は一向に終わらない。つまらない人生かも知れない。だけど面白い人生かも知れないのだ。見てもいない物語を勝手に否定するのは酷だろう。
音のある世界。それは無音の三年間とは違い、世界が色づいて見えるだろう。
艶やかで鮮やかな舞台はあっても、その物語は面白くはならない。立ち止まっていても、昔を繰り返すだけ。
だから、私は叫んだ。歌った。想いを伝えたのだ。
違う物語を描いていくために。
私は見れば幻が消えてしまうことを恐れるように頑なに振り返らない。
あなたとはまた会えるのかな。
「何じゃ、気に入られたものじゃな」
逆だと思うんだけど。
「そうれもそうじゃな。ああ、会えるとも。お主が物語を紡ぐ限り、儂はここに居続ける」
そっか、と私はその返答に満足する。
そして気配が消える。人のものとは違う、優しく包んでくれる不思議ないなりさんの空気。その消失を背中で感じた私は、今度こそ振り返る。
そこには誰もいない。街頭に照らされた哀愁漂う住宅街の道が延々と続いているだけ。
しかし、不思議と悲しさや寂しさはない。
誰も私のことを見てくれなかったあの頃の自分はもういないのだ。少なくともいなりさんは、恋歌ちゃんは、彩葉くんは私のことを認めてくれた。
だから、きっと大丈夫。……あの人達も。
そうして私は我が家にたどり着いた。私が生まれると同時に建てたという庭付き二階建ての一軒家。お母さんが丁寧に手入れした庭に、向日葵がすっかり枯れているのが見える。
残暑だとは言え夜になれば風も冷気を帯び、心地よい風へと変わる。
ああ、本当に葵祭は終わっちゃうんだな。
明日を終えれば、お姫様の魔法は解けてしまう。もう必要ないけど。
帰宅するとリビングの方から光が漏れていた。玄関には両親の靴が丁寧に揃えられていた。二人ともいるようだ。
奥からはいい臭いが漂っている。いつもだったらすぐに二階へ向かうところだったけれど、その光に誘われて私の足はリビングへ向かう。
すぐに私たちの家は元には戻らないだろう。
だけど、これから直していけばいい。
私はここにいる。
この家にいたい。
それはきっと伝わっただろうから。
リビングで私を待っていたのは新聞で顔を隠したお父さんと、私の帰りに腰を浮かせてはいるものの困った表情のお母さん。
私も含めてなんて不器用な家族なんだろう。
そのことになんだかか喜びさえ感じながら、私は息を吸う。
両親にかける声は決まっている。
「ただいま」
私は、私に帰ってきたよ。




