17-1
葵祭の一日目と二日目の間には催しが存在する。
一般客はお断りの生徒達によるレクリエーションで、葵祭実行員の中でもこのイベントを取り仕切るためだけの役職が存在するほどだ。無論詳細は知らない。
そんなわけで僕はクラスの波に引きずられてそのイベント会場である講堂にいた。いつもならさっさと帰るなり、サボるなりするのだが、何分最終公演でやらかしてしまったのでクラス連中に捕まり連行。舞台に関わった以上は最後まで参加しろとのことらしい。
明日の夜にも後夜祭があり、そちらで演劇の一般参加による投票の発表が行われるらしい。少なくとも今日の段階では各クラスの演劇に触れるようなことはない。ただ生徒達が祭りの気分を持続させるためだけのイベント。
そんなわけで、ビンゴ大会やらミスコンやらが行われ、次に軽音部によるライブが行われることとなった。どの部活動の発表を基本的に生徒は見ることができない。自分達の舞台があるからだ。だからというわけではないが、軽音部のライブはこの中夜祭でも行われ、生徒の気分高揚に一役買っている。
「ご感想はどうかしら? 王子様」
「疲れた」
ライブの準備に取り掛かっているのを僕と哀川は並んで眺めていた。そんな彼女の姿はアイドルが着るようなフリフリの衣装。どうしてそんなものを聞いているかと言えば、彼女が先ほど行われたミスコンに参加し、ダントツの一位を獲得したからである。流石というか、当たり前というか。
受賞直後はクラスメイトに囲まれていたけれど、いつの間にか僕の横にいた。華やかな彼女が近くにいて少しもドキドキしないと言ったら嘘になるが、それ以上に僕は最終公演での疲労感に苛まれていた。「おめでとさん」「じゃあ、今度ケーキね」と要求されたのは聞こえなかったことにした。
「あんたが疲れようが疲れまいがどうだっていいのよ」
「やっぱりお前の差金か」
「ええ。少しは驚いたでしょ?」
「僕たちを驚かせてどうする……」
哀川は口元を歪め、悪戯が成功したことを得意げにふふんっ、と誇る。この顔をミスコン中に見せていたらどうなっていただろう。
「完璧に仕上げるだけのものなんてあたしは慣れてるのよ。たまにはいいじゃない。なに、お気に召さなかったのかしら?」
「どう考えても僕である必要がなかったと思うんだが」
「どう考えてもあんたにしかできなかったでしょうが」
右から頭を小突かれ、視界が傾く。軽音部達がせっせと豚以上でドラムやらアンプやらの設置をこなしているのが見える。何すんだよ、と首をさすりながら、視界を正す。
「いつから考えてたんだ?」
「今日の朝」
「はあっ?」
耳を疑い、思わず哀川をまじまじと見てしまう。哀川は悪びれることなく、頭の横に人差し指を立てる。頭の上にビックリマークが浮かぶ表現と重なる。
「朝起きて台本見てたらピキーンって閃いたのよ。いやー、あたしって天才」
「……そんな衝動的なものだったのか、あれ」
「案外うまくいくものね。たき……えっと、もとくん? と喜多山さんもすんなり協力してくれたし」
滝本の王子の服を押し付けてきた時のことを思い出し、やはり哀川に指示されていたかと今更のように思うと同時に、協力、という穏やかな表現では説明がつかない態度だったよなと哀川との認識の差に気づく。
「滝本な。あいつビビってたけど……」
「おねだりしても渋ってたから、すこーし説得しただけだけど? こうきゅーっと」
「擬音で誤魔化すな」
絶対首絞めただろ、お前。
とうとう奴も哀川の暗黒面を見たか。まあ、あいつはそんなことでファンはやめないだろうけど。
「おかげでクラスからパッシングの嵐だったぞ」
劇終了時は音無のおかげでなんだかいい雰囲気になっていたが、終わって十分も経てば少しは冷静になる。あの後教室の真ん中で音無と二人で正座をさせられたのだ。
王子とお姫様の謝罪。その光景はシュールだったのか、見事に写真に取られ、お咎めはそれだけで済んだ。流出しなければいいが、あの写真。
「あたしも助け舟出したじゃない。結果的にいいものになったんだし」
「いいものにもなったというよりは私物化しただけだろ」
「じゃあ、あんたはあれ以上にいい終わりがあったって言うの?」
「ない」
「あら。そこは断定なのね」
「……まあな」
自分勝手にやった舞台がリハーサルよりも良かったと思えるのは自惚れだろうか。本番の哀川と滝本が主演をやった回は見ていないから何とも言えないが。
ただ僕が納得できる終わりだった。それだけのことだろう。
クラスの連中から見ても納得のいくものだった。だから説教もあんな程度で済んだのだろう。
そしてすっかり終わりのムードが漂っているが、葵祭はまだ終わらない。この時間は気持ちをお祭り気分であり続けるためだけのものに過ぎない。
「全く、明日もあるのか。まあ、頑張れよ」
「当然よ。あたしを誰だと思ってるのよ。……そうだ、あんた、明日も王子様やってみる?」
「冗談言うな。もう懲り懲りだよ。身の程を知った」
「…………。そう。悪くなかったと思うけどね」
おや、哀川からお褒めの言葉をいただくなんて珍しい。
どことなく寂しげのようにも見えたが、疲れているのだろう。彼女は演劇に加えて様々なイベントに顔を出しているのだ。それでいて笑顔を崩さないのは流石アイドルというべきか。
「お前も満足な葵祭できそうか?」
「……そうね。あんなの見せられたら負けてられないわ」
突然マイクのスイッチが入る。ハウリング。その場にいた全員がその音に各々嫌悪感を示す。そして続くのは、「哀川恋歌さん至急前の方までお越し下さい」というアナウンス。
「おい、呼ばれてるぞ」
「そうね、出番みたい。行ってくるわね」
「ああ。……ん? 出番?」
納得しかけて、僕は止まる。その意味を尋ねるよりも先に哀川は舞台の方へ走っていってしまった。
軽音部に所属していたのか、あいつ。いや、部活なんかをやっている暇はないはずだし、聞いたこともないが。
その答えはすぐに分かった。哀川がマイクを持ってステージに上がったからだ。その後ろに立つのはギターを抱えた滝本。なぜか喜多山がドラムの位置につき、クラス委員長がベースを抱えていた。いつの間にあいつらはバンド結成をしていたんだ。
哀川の……「輝夜姫月」が舞台に立ったことで体育館中が沸く。ミスコンの時も盛り上げたが、歌唱力も評価されている彼女がマイクを握って興奮を隠せないのだろう。
「やっぱりあれでもアイドルなんだよなあ」
それも今一番波に乗っているアイドルだ。
あれだけ学校でのアイドル扱いを嫌っていたのに、人を楽しませるって話になるとすぐにその仮面を被る。なんだかんだ今の仕事が好きなんだろうな、あいつは。
「い、彩葉くん……っ」
「……音無」
いつの間にか、隣にいたのは音無だった。
なぜか指先を絡ませ、もじもじとしている。さっきまでの舞台はあんなに堂々たるものだったのにどうしてそうなるのやら。
そういえばさっきまで姿を見かけなかったが、どこにいたのだろう。というか、舞台前で盛り上がっているのに、わざわざ僕の隣なんかに来ることもないだろうに。
……いや、話したいこともあるか。
そして僕の胸中に思い浮かぶのは最終公演での歌。クラス連中は歌が差し変わっていたことや音無の歌の上手さに驚くだけだったが、僕のそうはいかなかった。
最後のシーンでかかった曲。それは過去に音無が屋上で歌っていたもの、哀川がライブで歌っていたもの。だけど、問題はそこじゃない。
問題なのは、音無がそれを歌ったという事実。
「なあ、あの時、聞こえてたのか?」
音のが聞こえない彼女が、音楽を聴いて歌うなんてことができるはずがないのだ。
だけど、それをやってのけた。
「……うん。元々体が悪いとかじゃなかったから……」
「いつからだ?」
「劇の途中で……急に……」
「……そうか」
だが、よかったな、と言うか悩んで僕は口をつぐむ。
彼女が音を取り戻して本当に良かったかどうかなんて僕が決めることじゃない。
音ある世界が幸せであると、信じたくはあるのだけど。
「彩葉くんも……」
「ん?」
「眼帯外したんだね」
「……ああ」
そう、僕は王子を演じてから、ずっと眼帯を外している。外したところで世界は見えなかったけど。一種のけじめのようなものだった。
哀川が簡単な挨拶を終え、会場をさらに盛り上げる。そして、曲が始まる。
そのイントロにすぐさま反応したのは音無だった。
「この歌……」
「そういや、あいつ劇の最後の曲もこれに差し替えてたな」
「私、この曲しか知らなかったからかな」
「あいつは、お前の耳のことを知ってたはずだけど、それでもあの曲をかけた。信じてたのかね、歌うって」
「恋歌ちゃんは、歌わなくていいって言ってたから分かってはなかったと思う」
「じゃあ、あいつの予想外ってわけか」
しかし僕はアレンジの入った曲を聴いて「いや違うな」と訂正する。即興でアレンジなんてなかなかできるものじゃない。これは事前に準備したものだ。
特定の誰かに向けて。
「計算の内なのかもな」
いつから、彼女達は用意していたのだろうか。
今日の朝には思いついていた? そんなはずはない。
本当に滝本はただモテたいから軽音に入ったのか? 土壇場で王子交代の言い訳にするためじゃなかったのだろうか。そもそも本当にあの時、軽音部にいたのかも怪しい。目の前であんな見覚えのあるメンツでバンドを組まれたんじゃ疑いたくもなる。
劇中で音が取り戻せるかも分からない。だけど、そのことを信じて、この大掛かりな計画をしたのだろう、あいつは。
まあ他の連中は知らされていないのだろうけど。
全く、どこまで織り込み済みだったのやら。
「ねえ、彩葉くん」
「うん?」
「楽しかったね、葵祭」
「終わってないさ。まだ明日もあるだろ」
「うん……そうだね。でも……」
彼女の言わんとすることは分かる。
僕たちはもう、王子とお姫様はやらない。
クラスにこれ以上迷惑をかけるわけにはいかないし、それにもうその必要がないのだ。
あの物語はきちんと、終わることができたのだから。
「ありがとう」
その笑顔は、彼女の長い前髪では隠しきれないほどに、眩しい。
女の子の笑顔にめっぽう弱いらしい僕は「あー」と頭を掻く。
「……前に行ってみるか」
「うん」
僕はこの世界から誰かを連れ出すことも、誰かのそばに居続けようなんてできない。
王子様のようにはなれない。そんな重くて、恥ずかしくて、無責任なことは青春真っ盛りの僕が背負うには無理だというものだ。
だけど。
一緒に前に進むことはできると思うから。
そう、僕は教えられたから。助けられたから。
僕は苦手な人混みの中へ――音無とともに心地よい雑音へと、言葉を投げる。
音無にも聞こえないように。けれども、しっかりと音にして。
こっちこそ。
ありがとう。