15-1
暗転。照明。召使いの一人が照らされる音。身振り手振りをしながら、劇中での注意を呼びかける。携帯の利用の禁止。飲食の禁止。フラッシュの禁止。そんなところだ。
僕はそれを舞台裏で聞いていた。教室で公演する関係上、大変に狭い。役者はすし詰め状態。夏場なのも手伝って額には汗が浮かび、風通しの悪い衣装が蒸らす。一方でいつもは付けている眼帯がないためか、顔の方は圧迫感がない。
再び暗転。テープ音源のブザー。開始の合図だ。応えるように拍手が湧く。
そして闇の中、舞台の中央に人影が立つ。舞台に散る蛍光色のほのかな光が輪郭を浮かび上がらせ、儚くも確かな存在感を与える。孤独に立つのはお姫様。……のはず。少なくともリハーサルではそうだった。舞台裏を表に出せない以上、流れは頭に浮かび上がるものだけ。
「――ああ、神様」
そんな第一声で劇は始まる。しかし、その声に舞台裏に動揺が走った。堪えきれないひそひそ声が広がる。あれは誰だ。誰が姫をやっている、と。
その声は哀川と似ても似つかなかった。彼女よりも音が高く、どこか控えめで、しかし同じような強い意志を感じさせる声――音無だ。
何で。どうして。あいつが。
不意に滝本の言葉が蘇る。お前の葵祭はこれからだろう? あの時は意味が分からなかったが、ひょっとして謀ったのか。いやでも何のために。しかし、そうすると哀川も共犯か。偶然に僕と音無が入れ替わるなんてこともあるまい。……くそっ、音無ならともかく僕が舞台に出て何になる? 周りからはダイコンと呼ばれる逸材だぞ。あいつらは何を僕に期待する?
僕の思考とは裏腹に舞台は進んでいく。現実は僕を待ってくれない。しかし、思考を放棄してただ劇を進めるのも納得がいかなかった。
そして、ついに姫は愛を見失い、音を捨て、色を捨てた。両親や家臣は嘆き悲しみ、姫を労わる。舞台から音無の声が消える。
姫の感情は分からない。だけど、音無の想いなら、なんとなく分かる気がする。
悲しみにくれるのでも、無気力になるわけでもない。それは、痛みだ。何もかもを捨てたことに対する痛みが茨のように彼女を苛む。同情はより刺を鋭くし、より強く彼女を締め上げる。声を失った彼女は誰にも救い求められず、色を失った彼女はどこまでも薄っぺらい存在に成り果てる。
ここで王子が――僕が登場して――姫はどうなる?
僕は今の今までお姫様という視点で描き、絵に僕の想いを込めた。言葉にはうまくできない、高ぶる気持ち。それを込めた先にいるのは、いつだってお姫様だった。王子ではない。
哀川は言った。この物語は音無の自己満足だと。この物語には彼女の言葉がある。だけど、それが僕には分からない。
もし分かったというのならば、それはつもりになっているだけだ。そう、彼女に教わった。解釈の違い。だけど、理解したつもりにもならなかったら、歩み寄ることもできない。それはこの間も実感したことだ。この世界が彼女の言葉である以上、“理解”はできるはずなのだ。それが自分というバイアスのかかったものであれ。
だから考えることをやめてはいけない。王子の役割。僕の役割。それは一体何なのか。
彼女がこの劇を伝えたいのは誰なんだろう? もしかして見に来ているのだろうか。
「さ、出番よ。王子様」
「……哀川?」
ずっと隣にいた黒子。顔を隠していたのと、舞台裏が暗いのと相まって分からなかったが、全身黒ずくめの彼女は本来姫のはずの人間だった。
裏方を嫌いそうなのに。しかしどうしてまたここにいる? どうして土壇場で、よりにもよって僕と同じタイミングで役を譲ったんだ?
「何でお前、」
「見に来たのよ、この劇の終わりを」
「……何言ってんだ? お前」
「この劇はあの子がやらないと終わらない。そんな気がしたのよ」
それが姫になりきった彼女の言葉。
「眼帯、外したのね」
「え? いや、まあ、一応」
「だったら、その両目で見届けなさい」
こそこそと話をしているの近くにいた家臣の格好したクラスメイトに咎められる。
「早く行きなさいよ。――王子の務め、果たしてきなさい」
有無を言わさずに暗幕の向こうに僕を押し出し、よろめきながら舞台に上がる。僕は照明の眩しさに思わず目を細める。……哀川の奴、本当なら王子の登場はもう少し後だろうが。
僕の登場に家臣たちが息を呑む。お姫様の次は王子が入れ替わっていたのだ。動揺もするだろう。全員が全員僕の入れ替わりを知っていたわけじゃない。入場の場所が違えば顔を合わせることはないのだ。しかし、合わせることはなくとも、成功させようとする意思は同じ。
僕は不格好な登場に観客の注目を一気に集めてしまう。そのまま数瞬硬直。セリフは何だったか。……ああそうだ。
「――姫よ」
何度も哀川の練習に付き合わされたせいか、言葉は思いの外すんなりと出た。確かここは舞踏会で、一目ぼれした王子が口説くシーンだったか。覚えた通りのセリフを口ずさむ。予定調和で断られる。そこに無念はない。当然だ。僕は王子ではないのだから。
そう、僕は王子じゃ、ないのだ。
その後、諦めきれない王子はお姫様の姿を求めて、夜の城に忍び込む。そして、お姫様と相対する。口も聞けず、目も満足に見えない彼女の本音を聞き出し、外の世界に連れ出す――いや、逃げ出すのだ。二人で。
僕は彼女を誘惑する。〈逃げましょう。私が新しい音を与え、新しい色を与えましょう。全てを捨て、私と共に行きましょう〉セリフは思い浮かぶ。しかし、口には出てこない。パクパクと動かすだけで、ただその言葉をなぞることができない。
言えばこれで劇が終わってしまう。後は二人で逃避行だ。それでいいのか。何もしていない。何も言っていない。これで本当に王子なのか。お姫様の望む王子様なのか。
音無は何のために王子を用意した――諦め?
彼女は本当に叫びたいことを言っているのか――本当に?
僕の長い沈黙にその場がざわつく。セリフを忘れたのだとか思われているのだろう。そう、考える時間も無限じゃない。
物語は進まなければならない。終わらなければならない。
王子は決断のしなければならないのだ。
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歌。
不意にいつだったかの、屋上での音が蘇る。
どこまでも天高く届いていきそうな、あの歌声。
あんなにも綺麗な声は彼女自身聞いていないのだ。
僕だけが、彼女の歌を知っている。
あの美しさを。あの一生懸命さを。
ああ、そうか。
その歌が蘇った瞬間、僕は得心する。
僕のやるべきこと。
そんなもの、決まってるじゃないか。
僕の、すべきことは――――――