12-2
校舎でただ一つ明かりの点った教室に飛び込んで真っ先に目に入ったのは教室の中心で座り込んでいる恋歌ちゃんの姿だった。階段を二段飛ばしで駆け上がっていた私は息を整えることなく、彼を捜す。酸欠によって焦点が定まっていないために恋歌ちゃんの姿もぼやけて見える。
い、彩葉くんは……?
遅かったわね、有姫。ていうか、真っ先にこいつの名前なのね。
恋歌ちゃんは呆れ、そんなに一生懸命になるかしら、と視線を下ろす。私もそれに釣られると、彩葉くんがそこにいた。恋歌ちゃんに膝枕をされて。気持ちよさそうにすやすやと眠っている。なぜか彼は眼帯をしていなかった。
ど――どうかしたの?
心配と嫉妬が絡み合い口蓋を息が抜ける。声がひっくり返る時の風の流れに近い。本当に素っ頓狂になっているかは確かめようがなかったが、恋歌ちゃんの苦笑がその答えだ。
安心しなさい。疲れて寝てるだけよ。これ描いてたから。
そう言って、顎で示したのは舞台。私と彩葉くんが描いたものだ。……いや、違う。以前とはまるっきり違っている。
前に描かれていたのはガラス細工のような今にも壊れてしまいそうな儚くも美しい世界だった。だけど今目の前にあるのは違う。綺麗だけど、どこか泥臭い。その美しさと汚さのコントラストが独特の風景を描き出している。
まるで生きているようだ。ただの絵であるはずなのに、それも背景であるはずなのに、その空間自体が脈を打っているようなそんな奇妙な感覚に陥った。
消してみなさい。
え? と恋歌ちゃんの言葉に首を傾げる。
いいから、電気を消してみなさい。
明かりを消したらこの光景が見えなくなってしまう。もっと見ていたいのに。そうは思ったけど、彼女に逆らう気力も起きず、言われるがままにすぐ傍にあったスイッチに手を駆ける。
―――――――――
私は今度こそ、言葉を失う。
光。
舞台が、光り輝いていたのだ。
緑がかった蛍火。それが地面に点々と続いているかと思えば唐突にそれは躍動感のある風のように流れ、天へ伸びている。
光が意志を持つように――まるでそれは人の魂かのように動き回る。
蛍光色を混ぜているのだろう。明るい時に見えた色とその蛍光色は互いに折り重なり、強弱様々な螺旋を産み、一つとして同じものはない模様を生み出す。
生きているようだとさっきは言ってしまったけど、撤回。
これは叫びだ。魂だ。
それもお姫様のものなんかじゃない。――彩葉くんの叫びだ。
彼の魂が舞台を彩り、音もなく響かせ、私さえをも震わせる。心を。魂を。揺さぶって、私の叫びを誘発させる。その欲求になんとかして堪える。
思わず私も叫んでしまいたい。そんな、衝動。
こんな舞台ならば何でもできそうな気がした。
これが、彼の叫び。
はっきりと言葉にはされていないけれど、それはきっと私と同じものだと、なぜか確信が持てた。
彼は何のために、誰のためにこれを描いたのだろうか。
――これだ。これこそが彼の輝きなんだ。
お姫様のいるべき世界なんだ。
恋歌ちゃんのこの舞台には圧倒されているのか、彩葉くんの頭に手を乗せ、流石よね、と脱帽する。淡い光が僅かに恋歌ちゃんの口元を照らし、私たちの会話を可能にする。
これがこいつの言葉よ。あんたはどうなの? 自己満足するなら、ちゃんと満足しなさい。不完全燃焼な脚本ほどつまらないものもないわ。
私は――言いたい。
伝えたい。私の言葉を。――想いを。
みんなに。友達に。恋歌ちゃんに。彩葉くんに。――両親に。
喉まででかかっていた言葉を恋歌ちゃんは静止する。喉を通る空気は行き場を失い、数秒息を止める。
あたしじゃなくて、あんたの伝いたい人に取っておきなさい。こいつが起きてからでも遅くはないんじゃない?
頭がうまく回らない。目の前の絵に心を奪われ、思考力を根こそぎ持っていかれ、だけどそれを見ている自分はしっかりと自覚をしつつ、口にする。
叫び。私がこの世界に言いたいことはたくさんある。恋歌ちゃんは相手を違えるなといった。
そう、間違えなどしない。
ねえ、恋歌ちゃん。
彼女には言わなきゃいけない気がする。だから言う。
私がここに来た意味を。
今、やっと分かったから。
彩葉くんに私の音が聞こえないことを知られたくなかった、本当の理由を。
私、彩葉くんのこと――――――
どんなに声を出しても、私はその声を聞くことができない。本心を言ったつもりでも嘘のように感じてしまう。自分に返ってこない言葉はなんとも頼りなくて、不確かで、薄っぺらい。ぐらぐらと不安定だ。ずっとそうだった。
だけど、恥ずかしさはなかった。曖昧さも。不思議なぐらいに澄んだ心持ちでいられた。
ここでなら、私の言葉も本当になれる気がする。
……知ってたわよ、そんなのじゃないと、自分をそこまで他人に委ねないわ、普通。でも、あんたの本当に言いたいのはそれじゃないんじゃない?
言いたいこと。それはたくさんある。今彼女に言ったのだってほんの一部に過ぎない。本当に言いたいこと。――私が劇にも込めた、本当の言葉。
書いている時はあやふやだったあの気持ちが、うっすらとした輪郭を形成する。だけど、それが何か分かる前に霧散してしまう。きっと、この舞台の彩葉くんと同じ叫び。なのに、掴めない。
彼への想いとは違い、なかなか一つへ収束しない。
私はぽつりぽつりと音を零す。子守唄、というわけではないけれど、思考がぐちゃぐちゃになった時は大抵、こうやって歌う。いつだったか彩葉くんに屋上で驚かされた時もそうだった。
自分のことが分からなくなって、不安になって少しでも実感が欲しいから歌う。
その音は自分には決して聞こえないのに。残るのは声帯の疲労と虚しさだけなのに。
あんた音聞こえるの?
耳の聞こえない私が歌い始めたことに驚いた恋歌ちゃん。当然首を振る。昔、教えてもらったのだと応える。私が歌えるのはこの曲だけだ。何の曲かは知らないけれど。
すると恋歌ちゃんの口がすぼまる。
歌っている。その息遣いは私に似ていて、私と同じ曲を歌っているのだと気づくまでにそう時間はかからなかった。彼女が私の鼻歌に合わせてくれている。私は知らなかったが、私が歌っていたのはどうやらそれなりに有名な曲らしい。なんと、彼女自身カバー曲を歌っているのだとか。
変な話だ。音が聞こえないのに、誰かと歌うなんて。
音は分からずとも、歌詞の意味は分かる。
誰に向けたわけでもない、それこそ叫びのような歌。
だけど、それはいつか届くだろうか。
届くといいな、と私は星に願った。
外の星ではなくて、彩葉くんが描いた星に、だけど。