12-1
夜の街を私は走る。
夏特有のまとわりつくような外気が肌を撫で、全身から吹き出る汗に不快感が加わる。都心の明かりは夜を彩り、光と光の隙間を縫うようにして私は駆ける。コキが荒く、肺にどんよりとした空気が流れる度に私を急かす。いくら長距離が得意とは言っても全力疾走を続ければ流石に苦しい。酸欠気味なのか、視界がぐらつく。だけど止まらない。道行人々は私が通ると、こちらの剣幕にドン引いて、道を譲ってくれる。普段なら自重して通行人に馴染もうとするだろうけど、今はどうでもよかった。
「どうして急ぐ」
ふと聞こえる声。聞こえるはずのない、不思議な響き。爆走する私の横には誰もいない。幻聴。いなりさんと同じ声をしていたけど、彼女はここにはいない。私の作り出した妄想だ。そもそも私には音がないのだ。神様のような、あの人なら何でもありのような気がしてくるけど。
恋歌ちゃんに呼ばれたから。私自分に、ただの建前を振りかざす。
「あんなにも避けていた彩葉がいるのにか。いや、いるからか」
かっかっかと笑い声が耳元で鳴る。私は違うとは言い返せない。彼から逃げたのは私なのに。どうして。
「人というのはちぐはぐだのう」
だから人なのだ、とも私は思う。
「お主にとって、音とは何じゃ? 何ゆえに音に執着する?」
あなたには音があるからそんなことが言えるんだ。
音がないことに胸を張れる人なんていない。
彼女には気遣いというものがないのだろうかと思わず考えてしまう。
「それが他意によるものならば、儂だって考えるがのう」
…………。
「音を消したのはお主ではないか。そんな者に同情する気はないよ。お主だって同情は嫌っておっただろうに」
無音。それは私が逃げ出した結果。
「違うじゃろう。お主は音がないことを恥じているのではない。罪を恥じておるのじゃよ。音を自ら消した罪と、それを隠していた罪。その重みは儂には理解できぬが。お主はそれが知れたことが――己と同じような罪を持つ彼に知られたことが嫌のなのじゃろう?」
無音の中で見つけた、彼。
私は彩葉くんの絵に自分の“言葉”を見出した。ううん、勝手に解釈して、私の世界があると錯覚していた。
私には救いそのものだった。しがみつかずにいられなかった。
結局は外部刺激によって生まれた私の内で渦巻く思考の一つに過ぎないのに。
所詮、彩葉くんの言葉は彼の言葉で。私の言葉ではありえない。
なのに。
――私の世界を描いて。
代弁しろと、自分ができないからって、彼に押し付けた。
音がない私が発する言葉は、どこまでも空っぽ。
自分では分かっているつもりだった。でも、違った。
彼は私の言葉の薄っぺらさに何を感じるだろうか。軽蔑か侮蔑か嘲笑か同情か憤怒か。いずれにしても私をもう以前の私と同じに見るはずはない。
いつかは知れると思った。でも知られたくはなかった。
覚悟なんてない。生半可に甘えて、一瞬の幸せの甘さに浸っていただけ。
そう。この葵祭を始めてから今まで、私の言葉はどこにもなかったのだ。
私がみんなに……彩葉くんに私の言葉を投影していただけ。
解釈の違いなんて言ってもただの言い訳なのだ。
自分が、無力だから。
もっともらしく作った都合のいいものでしかない。
彼だったから知られたのが嫌だった。彼に否定されるのが何よりも怖かった。
――何でだろう?
「周囲による罪と自らが生み出した罪。どちらも虚像に等しいのに、同じように苦しむか」
彼の罪と私の罪。
罪には違いはない。不幸に引きずられ、より深い泥に沈んでいく。
「お主は自分が嫌いか」
嫌い。大嫌い。
「嫌いなものを受け入れてもらおうというのは図々しいと考えておるな」
あなたは、不味いと分かっている物をわざわざ食べるの?
「自分を切り売りして考えるか。ならば変わればよかろう。人と物は違うぞえ?」
今更変わるなんて。
「変わらぬ人などおらぬよ。そうだと思うならなぜ走る」
………………。
「うむ。哀川恋歌からの文がそんなに気になるか」
そんなんじゃ、ない。
「そうかのう。人の子の繋がりなんてそんなもんじゃろうに。世の中には面白いか否しかないのじゃぞ?」
走るのは、面白くない。
「かっかっか。お主もひねくれておるのう。文面通りに受け取る阿呆もおらんだろうに」
「要は哀川恋歌と彩葉が一緒にいるその事実が面白くないのだろう? あんなにも避けていたというのに」
質問の返答に私は言い淀む。
「どうして避ける?」
私が嘘をついていたから。そのことがバレたから。
「それは哀川恋歌も同じだろうに」
……私の言葉が、彼の絵を肯定した言葉が、嘘になる気がしたから。
「嘘なのかえ?」
そんなことない。事実だ。……少なくとも私はそう信じてる。でも、彼はそうは思っていないだろう。
「彩葉がそう言ったのかえ?」
知らない。……逃げたから。
「お主はまた逃げたのか」
……何も知らないくせに。
「知っとるよ。主が逃げて、今も逃げていることぐらいは。だからそんな耳あてをしておるのだろうが。主は、本当は分かっておるのじゃろう? ――自分のすべきことを」
それは、あなたの勝手な考えだよ。
「だったらお主はどう考えるのじゃ?」
……私は。
「かっかっか。なら、儂は最後まで楽しませてもらおうとするよ」
悪趣味。
「お主の自己顕示欲には叶わぬがのう」
それだけ言い残し、声は消えた。
私の自己顕示欲。そんなもの、分かっている。
自覚しているのに、私は何をしたらいいか分からない。
それが何よりも自分嫌いにさせるのだ。
そして、私は夜の学校に到着した。息を荒げ、逃げ出したその場所に帰ってきた。
ここに彩葉くんと恋歌ちゃんがいる。その事実がなぜか私の感情を高ぶらせ、心臓の鼓動を早くする。いや、走ったからだろう。
私は明かりのついていない闇に溶けた校舎へと再び駆ける。
どこからかあの「かっかっか」という豪快な笑いが聞こえた気がした。




